芥川賞作家の田中慎弥さんはスマホもPCも持たず、連絡は電話とFAXを使っている。そんな田中さんから、スマホを手放さない現代人はどう見えているのか。
筑波大学教授でメディアアーティストの落合陽一さんとの対談をお届けする――。
※本稿は、田中慎弥・落合陽一『堕落論 住めば都のディストピア』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■常時接続された社会での「孤独」とは?
【落合】堕落は個人がそれぞれ勝手にするものだというイメージを持っています。集団で堕落するのは難しいので。ということは前提として、正しく「孤独」であることは極めて重要です。
いかにして現代において孤独たり得るか。たとえばスマートフォンがあれば、いつどこでもだれからでも連絡が来て、他者と否応なくつながってしまいます。通知が来るたびに意識は中断され、他者の時間軸に引きずり込まれます。
また、ひとたびインターネットにつないで画面を覗いてしまえば、人が吐き出したのかAIが吐き出したのかわからないデータが無限に流れてきます。それは情報の濁流のようなもので、その渦の中に巻き込まれながら自分を保つのはなかなか難しい。
キャッシュレス決済が広がっている昨今は、生活インフラもスマホに組み込まれていますから、田中さんのようにスマホやPCを「持たない」という選択肢も取りづらい。現代を生きていながら、外界や他者とのつながりを断つのはたいへん難しいことです。

デジタルによって常時接続された社会。そんな状況でなお「孤独である」というのは、一体どういう状態を指すんでしょうか。
【田中】もちろん、どうやったって完全な孤独にはなりきれません。山奥に籠もったとしても、何かしらのインフラには頼るわけですから。「孤独とは何か」を定義しはじめると際限がないけれど、ともあれ完全に人と切り離された生活というのはできない。スマホのあるなし以前に、人が生きていくというのは周囲とつながりを保ちながら進むことと同義です。
■「精神的に自立した領域」を持てているか
【田中】ただ現代は、直接的な知り合いだけじゃなくて、実際に会ったことはないのに一応は知り合いであるという「薄い関係」も、増えているようです。SNSを開けば、そうした薄い知り合いの意見や感情が、いくらでも目に飛び込んでくる。
それによって人の命が救われることだって多くあるだろうし、寂しさが紛れることもあるだろうから、もちろんいけないことばかりではありません。それでもやはり私は思います。人というのは基本的にひとりで生きて、ひとりで死んでいくものだと。その厳粛な事実からは逃れられない。

人と一緒にいるときでも、自分の中で独自に考えていることがちゃんとありますか、というところを私は重視したい。物理的にひとりであるかどうかよりも、精神的に自立した領域を持っているかどうか。それを指して私は孤独と言っているし、そういう孤独の状態を失くしてしまってはいけないんじゃないかと主張したいです。
「自分とは何なのか」を考えるために必要なのが孤独です。孤独をちゃんと内に抱えていないと、他者と交わることも難しくなってしまうんじゃないかと私には思えます。自分という個がないままにつながっても、それは単なるデータの送受信になってしまうのではないかという危惧があります。
【落合】田中さんは「孤独の領域」をどう確保していますか。朝起きてから寝るまで、どんな生活をされているのですか。
【田中】私は夜型ではないので、朝起きてまずは適当に食事をして、テレビでニュースを見たりします。世の中の動きは一応知っておこうとします。スマホを持たないからといって、世間と隔絶しているわけではありません。午前中は本を読んだり、ダラダラしたり、短い仕事をしたりして過ごします。

お昼を食べて、本格的に原稿に取りかかるのは午後です。そこからひたすら机に向かい続ける。そんなに筆がスルスル進むということもないのですが、午後五時だか六時だかまで仕事をしたら、あとはもうお酒を飲んでしまう。そんな毎日を過ごしています。
■どんな日にも必ず、一行でもいいから書く
【田中】他人から見れば大したことのない生活ですが、どんな日にも必ず書く、一行でもいいから書くというのは続けています。ですから、とりあえず机に向かうというのは大切です。書きたいことがあるから、やることやテーマが見つかっているから机に向かうのではありません。理由なんてなくていい。四の五の言わず、とにかく机に向かう。
そもそも私は書くテーマをあまり言語化しないようにしています。文学の王道と言われる19世紀の小説では、どうしても取り上げたいテーマがあって、それをどういうストーリーにしてどんな人物に何を語らせればそのテーマが読者に届くかが緻密に練られている。
いまの小説にも、そういうタイプのものはたくさんあります。
社会的な問題提起や、ヒューマニズムの問題を真正面から取り上げたりとか。そういう小説は読み応えがあっておもしろいのはわかっていますが、私にはそういうものが書けません。それで、とりあえずのぼんやりしたイメージだけを頭の中に思い描きながら、とにかく机に向かい、手を動かして文章を書き綴っていく。
どんな文章になるのか、そのときになってみないとわからない。それでも一行、二行、三行と進んでいくと何かが開けてくる。私の場合は、文体がテーマに先行しています。言葉が連なっていくリズムや手触りが、書くべき内容を連れてくるという感覚です。テーマはないと言っていますが、おそらく何かはっきりとかたちにならないものくらいは浮かんでいるのです。その何かを探り掘り出していくために、文章が必要になる。自己探求で小説を書いているわけではありませんが、書く行為そのものが思考のプロセスになっています。
■手を動かしながら、言葉が転がりだすのを待つ
【落合】創作に対する向き合い方は、私もほぼ同様ですね。プログラミングでもアートでも、手を動かしながら、言葉が転がり出すのを待ちます。
そうしているうちに、構造が見えてくることがあるので。伝えたいことが先んじてあるわけではまったくないのも同じです。
【田中】そうやって基本的にはひとりで孤独に作業をするばかりですが、他者と連絡を取り合ったりすることももちろんあります。メールやSNSではなくて、電話とファックスですが、編集者らからいろんな連絡や確認事項が飛んできます。なので完全に切り離された状態だということはなく、自分なりにほどほどに他者や世間と距離をとりながら、自分のペースで仕事をしているつもりです。
■外からの「割り込み」が多すぎる?
【田中】おそらく皆さんはふだん、いろんな連絡が自分の生活にどんどん割り込んでくるのでしょう。いつでも即座に反応することを求められたり、常にだれかとつながっていることを強いられたり。相手への応答が仕事の大半になってしまっているという愚痴は、ちょくちょく耳にするところです。
そうした割り込みが多くなると、「群れ」で生きることを強いられている気分になりそうです。張り巡らされたネットワークの中で生きている感が強まっていく。自分自身が巨大なシステムの一部、「伝達装置の一個」になっている気持ちにもなっていくのではないか。私はそういう環境に身を置いたことがないので、想像でしかありませんが。

しかし皆さんがそういうなかで生活を成り立たせているというのであれば、それはそれで人の生活とはそういうものなのでしょう。現代的な「毛づくろい」のかたちと見立てることもできます。
私はとりたてて、常識やふつうの暮らしに抗(あらが)っているつもりもありません。どのみちはずれ者の作家なのだから、世間に少しぐらいそういう奴がいてもいいんじゃないの、許してもらえませんか、と思ってやっているまでです。
■意味がないことに耐える
【田中】さらに自分の生活の話を続けると、趣味はほとんどありません。強いていえば、本を読むことでしょうか。それはほぼ仕事ですけれど。あとは映画も好きというくらいで、そのほかは酒を飲んだりおいしいものを食べるくらいのことで、じつに単調な生活です。
人生に意味なんてないと達観しているわけではないですが、「これが意味だ」と言える地点にも到達していない。非常に中途半端なまま、人生の折り返し地点を曲がってしまったようです。そもそも人生にどこまで深い意味があるのかも、私にはわかりません。まあ意味がないことに耐えるのも、人生を送る作法なのかもしれません。
■「わかりやすさ」ばかりを求めずに
【田中】ひとつだけ言えるとしたら、これまで本を読むことだけはしてきたし、これからもするでしょう。これからの時代はとくに、本は意図的に読んでおいたほうがいいのではないかと思います。インターネットで拾える断片的な情報ではなく、一冊の本という体系だった思考の塊に触れること。本を読むことで培われるであろう体力が、思考の足腰をつくってくれます。読書はだれにとってもおすすめできるものだと思います。
せっかくなら古典を読んだほうがいい。古い翻訳ものなんかだと、ずいぶんおかしな日本語になっている場合もあります。いわゆる「翻訳調」と呼ばれる文体ですが、それはそれでおもしろい。そのヘンな日本語に、異物としての言葉の手触りがあるからです。だから「よくわからない……」と思いながら、たとえば『源氏物語』などの古典を古文のまま読むのもいいと思います。
現代を生きる私たちはとかく「わかりやすさ」を求めますが、わからないものをわからないまま抱えておく力も大切です。小説に関しては、わかりやすいものだけを読んで訳がわからないものを捨てるというのはもったいない。「何だこれ?」と言いながら読み進めるのも有意義な行為です。

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田中 慎弥(たなか・しんや)

作家

1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。

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落合 陽一(おちあい・よういち)

筑波大学教授、メディアアーティスト

筑波大学でメディア芸術を学び、2015年東京大学大学院学際情報学府にて博士(学際情報学)取得。現在、メディアアーティスト・筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター長/図書館情報メディア系教授・ピクシーダストテクノロジーズ(株)CEO。応用物理、計算機科学を専門とし、研究論文は難関国際会議Siggraphなどに複数採択される。令和5年度科学技術分野の文部科学大臣表彰、若手科学者賞を受賞。内閣府、厚労省、経産省の委員、2025年大阪・関西万博のプロデューサーとして活躍中。計算機と自然の融合を目指すデジタルネイチャー(計算機自然)を提唱し、コンピュータと非コンピュータリソースが親和することで再構築される新しい自然環境の実現や社会実装に向けた技術開発などに貢献することを目指す。

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(作家 田中 慎弥、筑波大学教授、メディアアーティスト 落合 陽一)
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