織田信長が生涯でもっとも苦戦した敵は誰か。歴史評論家の香原斗志さんは「10年にわたる戦いをした浄土真宗の拠点・大坂本願寺だ。
信長には彼らと長期戦をしてでも手に入れたいものがあった」という――。
■なぜ信長は本願寺攻めにこだわったのか
織田信長の宿敵としては、いくつもの名前が挙げられる。甲斐(山梨県)の武田信玄や越後(新潟県)の上杉謙信はもとより、畿内で暗躍した三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)、または、北近江(滋賀県北部)の浅井長政や越前(福井県)の朝倉義景も忘れてはならない。中国地方の覇者だった毛利輝元もその一人だろう。
だが、一番の宿敵といえば浄土真宗の拠点、大坂本願寺をおいてほかにない。当時、最大にして最強の宗教勢力だった大坂本願寺との戦い(石山合戦)は、元亀元年(1570)9月にはじまって天正8年(1580)8月まで続き、終結に丸10年を要している。
その10年のあいだに信長は、浅井や朝倉を滅ぼし、その前に、彼らを支援した比叡山延暦寺を焼き討ちし、将軍足利義昭を追放し、長篠合戦で武田勝頼を破った。丹波(京都府中部、兵庫県北東部)や播磨(兵庫県南西部)、但馬(兵庫県北部)などを制圧し、毛利輝元の領土への侵攻を続けた。
信長とその軍団が、天下一統の過程においてきわめて大切だったこの10年にわたって、もっとも労力と時間を費やしたのが大坂本願寺の攻略だった。
■史料にしっかりと記されている理由
信長がなぜそれほど大坂本願寺にこだわったのか。中世の本願寺は、たんなる宗教勢力ではなかった。大坂本願寺は、堀に囲まれた巨大城郭そのもので、強大な軍事力と経済力をもつ事実上の領主だった。
寺内町を形成して支配し、年貢の徴収も行った。
とはいえ浅井や朝倉、または武田や毛利のような広大な領土の支配者ではない。だから信長軍団にとって、倒したところで恩賞としての領土が期待できない、戦い甲斐のない相手だったともいえる。それでも軍団は、信長の命に従って大坂本願寺と必死に戦った。いったいなぜなのか。
信長の事績を知るうえで第一級の史料である太田牛一の『信長公記』には、大坂本願寺に関する記述が非常に多い。それだけ信長がこだわった証しだが、天正8年8月の「大坂退散の事」という記事には、本願寺が信長にとっていかに大事だったのか、以下のように記されている。
〈そもそも大坂は、日本一の土地である。その理由は、奈良・堺・京都に近く、特に鳥羽・淀から大坂の町口まで舟の交通が直結しており、同時に四方が自然の要害となっている。
北は、鴨川・白川・桂川・淀川・宇治川という大河が幾筋にも流れ、また二里、三里の範囲内に中津川・吹田川・江口川・神崎川が流れている。
東南から東北へかけて、尼上ケ岳・立田山・生駒山・飯盛山という遠山の景色を見て、その麓には道明寺川・大和川に新開の運河や立田の谷水が流れ込むという具合で、大坂の城の足元まで三里、四里の間は、大小の河川が広範囲に網目のように流れている。
西は、広々とした海で、日本の各地は無論、唐土・高麗・南蛮の船が出入りする。
五畿七道の産物が集まって売買され、その利潤で潤う経済力豊かな港町である〉(中川太古訳)

■安土よりも戦略的に最適地
もうわかったと思うが、信長は大坂という土地にこだわったのだ。だから『信長公記』でも、これほどまでに大坂の地の利が強調されている。
つまり、大坂(この場合は大坂本願寺があり、のちに大坂城が築かれる上町台地)こそが天然の要害の地で、船が行き交う要所でもあり、京都の朝廷にも、奈良の寺院勢力にも、堺の商人たちにもにらみが利き、さらに西国大名を討伐および管轄するための最適地でもあった。
それは戦国の世を終わらせ、天下を一統するために必要な最重要地だった。しかも、『信長公記』にもあるように、足元の堺も含め、経済力が豊かな土地を掌握すれば、なによりも力になる。信長の家臣たちもそれを理解していたから、大坂本願寺との長い戦いを受け入れたのだろう。
実際、長く苦しい戦いだった。事のはじまりは元亀元年(1570)、信長が大坂本願寺に寺地の明け渡しを求めたことだった。これを理不尽な要求だと受け取った本願寺法主の顕如が、信長に対して挙兵したのである。時を同じくして、足利義昭が糸を引く浅井と朝倉、武田信玄、毛利輝元らによる包囲網との戦いを余儀なくされた信長は、存亡の危機を迎えている。だが、天正元年(1573)、信玄の急死で形勢が好転した。
それでも、大坂本願寺だけは信長に屈するどころか、全国の門徒に檄(げき)を飛ばしたため、各地で一向一揆が頻発。
信長はそれへの対応に追われることになった。
■戦いの中で生まれた「鉄甲船」
しかも、大坂本願寺自体が、攻めてもびくともしなかった。村上水軍を味方にして大阪湾の制海権を握っていた毛利氏の支援を受け、武器も兵糧も続々と運び込まれた。一方、陸側も信長が目をつけるくらいだから、難攻不落の要害で、攻撃できるとしたら上町台地南端の天王寺口だけだった。
逆にいえば、大坂本願寺としては、天王寺口にだけ注力すれば防御できた。そこに、この戦いが長引いた最大の原因があった。
信長は状況を打開すべく、天正4年(1576)に毛利水軍に戦いを仕かけた。このときは長篠合戦で有効だった鉄砲が水軍相手には無力で、信長の水軍の船は次々に焼き払われ、完敗を喫した。だが、敗北から学んで同じ轍を踏まないのが信長で、天正6年(1578)には鉄板で覆った巨船を7隻も建造し、火矢の攻撃をものともせず毛利水軍を撃破。大坂湾の制海権を握った。
こうして武器や兵糧の補給を絶たれると、さしもの大坂本願寺も干からびることになった。物資は尽き、人心も追い詰められた。
そして天正8年(1580)、正親町天皇の指示で公家の庭田重保と勧修寺晴豊が仲介し、信長と顕如のあいだで和睦が締結されたのである。長男の教如は籠城を主張したため父子は決裂したが、8月2日には、大坂本願寺は信長に明け渡された。
■天下を治める拠点としてふさわしい
それまでに信長と大坂本願寺のあいだでは、2回ほど和睦が結ばれた。元亀3年(1572)には足利義昭の仲介もあって一時的に和睦し、天正元年(1573)末までは両者は戦火を交えていない。天正5年(1576)10月にも正親町天皇の勅名で、一時的に講和が結ばれた。
だが、和睦が長続きしなかったのは、信長が目的を達していなかったからである。目的とはいうまでもなく、大坂の地をわがものにすることで、それはこの地こそが天下を治める拠点にふさわしいと、信長が思っていたからに違いない。
信長公記』には前述のように〈そもそも大坂は、日本一の土地である〉と記されている(原文は「抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり」)。「日本一」と書かれているのは、信長がそう考えていた、ということにほかならない。そうであれば、大坂こそが天下を治める拠点としてふさわしい、と信長が考えていたということである。
数々の大河が縦横に流れ、地形は天然の要塞のようで守りがきわめて堅く、水陸の交通の要所で、すぐ西の海は全国の物資が集まる港町で、経済都市たる堺からも莫大な利益が得られ、京都や奈良を監視するにも好適地である――。政治、軍事、経済のすべてにわたり、これほど都合がいい土地はほかにない。

■信長はすでに「大坂城」建設を進めていた
だから、大坂本願寺の跡地は、安土築城の総奉行だった丹羽長秀と、甥の織田信澄に預けられ、すでに新城の築城が進められていた。ところが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で潰えてしまった。
信長は天下一統をめざす拠点として安土城(滋賀県近江八幡市)を築いた。このため、信長が全国を平定したら日本の事実上の首都は安土になっていた、と思う人は多いようだ。しかし、それは違う。信長が安土城を築きはじめた天正4年(1576)の時点では、大坂は信長のものではなかった。だから安土だったのだ。
多くの戦国大名は生涯にわたって居城を変えなかった。武田信玄は躑躅が崎館(山梨県甲府市)から動かず、上杉謙信は最後まで春日山城(新潟県上越市)が居城だった。一方、信長は自身の勢力拡大にしたがって居城を、清洲(愛知県清須市)→小牧山(同小牧市)→岐阜(岐阜市)→安土と移した。その点からも、次に大坂が準備されていたと考えるのが自然である。
むろん羽柴秀吉は、信長のねらいと大坂の地の利をよく理解していたからこそ、自身が天下をねらう拠点として、信長の意志を継ぐかたちで大坂に築城したのである。
強調しておきたいのは、本能寺の変で信長が討たれることがなかったとしても、天下一統の拠点は安土から大坂に移ったはずだ、ということである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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