伝説の背番号10が綴る“永遠のサッカー小僧”の肖像――。本稿では木村和司氏の初自叙伝『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』の抜粋を通して、時代の寵児として日本サッカー史を大きく変えたレジェンドの栄光と苦悩の人生を振り返る。
(文=木村和司、写真=山田真市/アフロ)
古巣から届いた待望の監督就任へのオファー
待ち焦がれていたJリーグのクラブから監督就任へのオファーが届いたのは、S級ライセンス取得から干支がひと回りした2009年の秋だった。
横浜F・マリノスの関係者から連絡をもらい、フロントと話し合いの席をもったわしは、その場で2010シーズンから監督に就任してほしいと要請された。
S級ライセンスを取得した1997年以来、監督として指揮を執るのならば、できるのならば古巣で、と考えていたわしはもちろんうれしかった。同時にフットサル日本代表監督や、将来のJリーグ参入を目指していた、日本フットボールリーグの横河武蔵野FCのスーパーバイザーを務めた時期を振り返りながら、こんな思いを抱かずにはいられなかった。
「ようやく来たか。ホンマに遅いわ」
横浜マリノスは1999シーズンから、名称を横浜F・マリノスへと変更していた。
Jリーグのオリジナル10のひとつ、横浜フリューゲルスへ出資していた佐藤工業が本業の経営不振のために運営から撤退。もうひとつの出資会社だった全日空も単独で支えられないとして、横浜マリノスと合併したのが1998シーズンのオフ。その際にフリューゲルスの由来を意味する「F」が名称に加えられていた。
横浜F・マリノスは2001シーズンにまさかのJ1残留争いを強いられたが、2003
シーズンから指揮を執った岡田武史監督のもとで連覇を達成。2003シーズンはファースト、セカンド両ステージを制覇する完全優勝であり、2004シーズンはセカンドステージ覇者の浦和レッズとのチャンピオンシップをPK戦の末に制していた。
しかし、2ステージ制から通年制に改められた2005シーズンで9位に終わると、続く2006シーズンも苦戦を強いられ、12位に低迷していた8月に岡田監督が辞任。
2007シーズンは早野宏史監督が11年ぶりに復帰しながら7位で終えると、2008シーズンにはジュビロ磐田を率いた経験のある桑原隆監督を招聘。しかし、16位に低迷していた7月14日に桑原監督を解任すると、クラブOBでチーム統括本部長を務めていた木村浩吉が急きょ監督に就任。後半戦でなんとか巻き返したチームは9位でシーズンを終えた。
チームを立て直した手腕が評価され、新たに契約を3年間延長した浩吉監督のもとで臨んだ2009シーズンで再び低迷した横浜F・マリノスはシーズン終盤になって、一転して同シーズン限りで浩吉監督との契約を解除すると発表していた。
わしの監督就任を後押しした盟友たちの進言
フロントの迷走ぶりを象徴するように、監督が目まぐるしく変わっていた末に、チームはわしへのオファーに踏み切った。
わしの新監督就任へ向けた交渉が基本合意に達したと、チームから発表されたのはシーズンが終盤戦に差しかかった11月9日。そこでの交渉でわしはこんな要望を受けていた。
「昔の強いマリノスに戻してほしい」
1988-1989シーズンから国内三冠を2シーズン続けて独占するなど、JSL1部で
黄金時代を築いた日産自動車で中心を担ったわしが、攻撃的なサッカーを蘇らせるうえで白羽の矢を立てられたと当初は考えていた。
しかし、冷静になって考えれば引退から15年もの歳月がたち、コーチを含めて、指導者の経験もないわしがなぜ指名されたのか、という疑問が頭をもたげてきた。
後になって判明したのが、わしのもとへオファーが届く直前のやり取りだった。
当時の社長代行で、次期社長への就任も内定していた嘉悦朗さんがキン坊(金田喜稔)、タカシ(水沼貴史)、横浜マリノス初代監督の清水秀彦さんらと話し合いの席を設けた。
低迷脱出へ向けて意見を出し合う決起集会的な意味合いが込められていたなかで、日産自動車時代を含めたOBの総意として、嘉悦さんへこんな進言が出されたと聞いた。
「カズシに監督のチャンスを与えてほしい。ここはカズシしかいない」
同じ時代、同じ時間を共有した仲間たちの熱いエールに、わしはさらに気持ちを奮い立たせながら、12 月14日に行われた監督就任会見に臨んだ。
会場はわしが引退した後の1998年に開場し、横浜F・マリノスの新たな本拠地となるとともに、2002年のワールドカップ日韓共催大会決勝の舞台にもなった日産スタジアム。
7万人以上を収容できる巨大なスタジアム内の記者会見室で、スーツにネクタイ姿のわしはこんな言葉を残している。
「チームを立て直すために、わしに懸けてくれたのはうれしい。常に上位にいて、優勝争いができるチームにしていきたい」
「まったく面白くない」手探りの開幕戦
もっとも、シーズン開幕へ向けた日々は、手探りの連続だった。何もかもが初めてだったわしは、わけのわからないまま3月6日の開幕戦を迎えた。
しかし、敵地・味の素スタジアムに乗り込んだ横浜F・マリノスは、後半アディショナルタイムにFW平山相太に先制ゴールを決められて0-1で敗れた。試合後に両チームの監督が臨む公式会見。わしはこんな言葉で、監督としてのデビュー戦を総括した。
「まったく面白くないよね」
一方で、その後の戦いが面白くなってくる予感もあった。
開幕が目前に迫っていた2月28日に、日本代表で「10番」を背負うMF中村俊輔の移籍加入が決まった。チームに合流したのは3月5日。
もっとも、問題は選手登録の件だけではなかった。
横浜F・マリノスから2002年夏にイタリアのレッジーナへ移籍した俊輔は、スコットランドの名門セルティックでプレーした4シーズンで一時代を築いた後の2009年夏に、スペインのエスパニョールへ移籍していた。
このときは横浜F・マリノスも、俊輔の復帰へ向けて獲得オファーを出した。スペインを憧れの地に据えてきた俊輔は夢を優先させたが、残念ながら新天地エスパニョールにうまく適応できなかった。苦しんでいるところへ怪我も追い打ちをかけた結果として、心身のコンディションを大きく崩したままスペインでのシーズンの終盤を迎えていた。
2010年6月には、日本代表がすでに出場を決めていたワールドカップ南アフリカ大会が待っている。当時の俊輔は32歳。2度目にして、おそらく最後のワールドカップになると覚悟を決めていたからこそ、日本への復帰を決めた経緯があった。
横浜F・マリノスの練習に合流した俊輔は、明らかにベストの状態ではなかった。特にメンタル面が弱まっているとすぐにわかった。それでも体のコンディションさえ万全になれば、わしは先発で起用すると決めていた。
中村俊輔に導かれた新生マリノスの初ゴール
ヨーロッパや日本代表で、あれだけの濃厚な経験を積んできた選手ならば、あれこれと話し合わなくてもわかりあえる。湘南ベルマーレを迎えた3月13日のホーム開幕戦。両チーム無得点で迎えた前半22分に、俊輔の左足が均衡を破った。
右コーナーキックのキッカーを担った俊輔が、味方ではなく空間をターゲットに据えたキックを、湘南の選手たちが飛び出せないゴール中央のスポットへ蹴った直後だった。以心伝心で走り込んできたキャプテンのDF栗原勇蔵が決めた会心のヘディングシュートが、わしが率いる横浜F・マリノスのうれしい初ゴールになった。
最終的には3ゴールをあげて、守っては湘南を零封。初勝利をあげた試合後に俊輔が残したこんな言葉を聞いたわしは、このまま起用し続けていくと心に決めた。
「コーナーはニアやファーを狙うのではなく、ボールがいったところに人が入った、という感じのほうが入る。誰をターゲットにするのかは、そのときの感覚で決めます」
わし自身は公式会見でこんな言葉を残している。
「わしに対する怒りのゴールやったね」
言及したのは栗原の先制ゴールでも、後半16分にFW渡邉千真が決めた追加点でもない。開幕戦で先発しながら俊輔にポジションを奪われる形でリザーブに回り、お役御免の俊輔に代わって途中出場していたMF狩野健太が試合終了間際に豪快なロングシュートから決めた3点目が、チーム内の競争意識を高めるうえでもうれしかった。
人前で話すのが苦手で、ボキャブラリーも少ないわしは、必然的に短い言葉が多くなった。もっともこれが大きな注目を集めるとは、この段階では夢にも思わなかった。
相手の裏を突く「ちゃぶる」の精神
再びホームに川崎フロンターレを迎えた3月20日の第3節。4-0の快勝とともに連勝を飾った試合後の公式会見。気分がよかったわしは、こんな言葉で試合を総括した。
「もっとちゃぶれたで」
わしはチームが始動したときから、練習などでごく普通の感覚で「ちゃぶる」を連呼してきた。広島弁で「翻弄する」や「おちょくる」を意味する「ちゃぶる」は、公の場で披露された結果として「いったい何を意味するのか」と大きな注目を集めた。
川崎戦でも「ちゃぶる」の精神がゴールを生み出している。俊輔の復帰後初ゴールで先制した4分後の前半12分。渡邉千真のラストパスにオフサイドぎりぎりで飛び出したFW山瀬功治との距離を、ワールドカップ南アフリカ大会で日本代表の守護神を担うGK川島永嗣が猛然と詰めていった直後だった。
川島の脳裏には、どんなときでも思い切りシュートを放つ山瀬の特徴がインプットされていた。しかし、この場面では右足のアウトサイドで、軽くボールにタッチするプレーを選択。川島を翻弄する、まさに「ちゃぶる」の精神が凝縮されたシュートが2点目となった。
川崎戦を前にして、すべてのプレーに対して力が入りすぎ、結果としてガチガチになっていた山瀬へ、こんなアドバイスを送っている。
「相手のタイミングを外すようなプレーをしたらええ」
鮮やかに実践した山瀬のプレーがうれしかったわしは、公式会見でこう語った。
「ええ選手がいるから、ちょっと教えればできるのよ」
チーム内でちょっとしたブームになっていた「ちゃぶる」は、川崎戦を境に想定外の形で独り歩きをはじめる。日本サッカー界の流行語へと昇華し、グッズ化の話までもちあがる状況を目の前にして、わしはただただ驚くしかなかった。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』から一部転載)
【連載第1回】「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
【連載第2回】読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
【連載第3回】「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
【連載第4回】“永遠のサッカー小僧”が見た1993年5月15日――木村和司が明かす「J開幕戦」熱狂の記憶
【連載第5回】“わし”はこうして監督になった。木村和司が明かす、S級取得と「口下手な解説者」時代の苦悩
<了>
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[PROFILE]
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ、広島県出身。地元・大河小学校で小学4年生のときにサッカーと出会う。広島県立広島工業高等学校から明治大学を経て、1981年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に加入。1986年には日本人初のプロサッカー選手(スペシャル・ライセンス・プレーヤー)として契約を結ぶ。クラブでは日本サッカーリーグ優勝2回、天皇杯優勝6回など、黄金期を支える中心選手として活躍した。日本代表としては、大学時代から選出され、特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会最終予選・韓国戦でのフリーキックによるゴールは、今なお語り継がれている。また、国際Aマッチ6試合連続得点という日本代表記録も保持する。日本初のプロサッカーリーグが1993 年に開幕するが、翌1994 年シーズンをもって現役を引退。プロサッカー黎明期を支えた象徴的存在だった。引退後は指導者としても活躍し、2001 年にフットサル日本代表の監督を務め、2010 年から2011 年には横浜F・マリノスの監督に就任。そのほかにも、サッカー解説者やサッカースクールの運営など、多方面で活動を続けた。2020 年には日本サッカー殿堂入りを果たし、その功績が称えられている。