1989年6月4日未明、中国当局が民主化を求めて天安門広場を占拠する学生らを軍部隊を使って排除した、いわゆる「天安門事件(第2次)」が発生してから、ちょうど25年が経過した。中国で同事件は「六四」と略称されることが多いが、メディアはほとんど取り上げない。
インターネットでも検索を許さないなどの厳しい規制が続いている。中国には、当時の責任者が存命中である限り、事件への評価見直しはできない体質があるともされる。(写真は1989年6月5日に、北京市内で編者が撮影)

■ 中国では「見せない」、「書かせない」、「考えさせない」

 中国の大手検索サイト「百度(バイドゥ)」で、「六四」のキーワードを使い同事件を検索すると、先頭に「1989年政治波風」のサイトがヒット。共産党機関紙である人民日報の資料記事で、内容は、当時の民主化運動を「多くの群衆と青少年・学生が胡耀邦元総書記の死去を悼む各種の活動を行ったが、ごく少数の自由化分子が機会を利用して反共産党運動、反社会活動を推進」と厳しく批判する、当局の公式見解だ。

 発表日付は2001年6月13日。つまり、同年の「6月4日」が過ぎて、関心度がやや後退してからの発表と分かる。

 次に見えるのは「天安門事件平反(天安門事件の処分撤回)」を紹介するサイト。同じく人民日報のものだ。「平反」とは、政治的理由などで処罰された人に対して、処罰撤回や名誉回復を行う指し、当局側が「当時の措置は間違っていた」と認めたという意味もある。

 ただし、同文章が扱うのは1976年に発生した「第一次天安門事件」だ。同事件は周恩来首相の死がきっかけとなり、毛沢東夫人の江青ら「文革四人組」に反対する人々が、天安門広場で警察と衝突した事件。当時は「反革命」とされたが、「文革四人組」の失脚後、評価が反転した。


■ 百度と対照的、Googleでは「普通にヒット」

 「百度」のサイト検索では、1989年の天安門事件の関連サイトは少なく、あっても「当局側」の見解を伝えるものだ。

 「百度」のニュース検索では、中国の「六四式」軍用拳銃の偽造品が出回り、同偽造拳銃を使った強盗事件が発生するニュースが並ぶ。天安門事件に関連するニュースはヒットしない。

 一方、サーバを中国外に置く検索サイトのグーグル(google)の中国語版で、「六四」の語でニュース検索すると、「六四25周年。いまだ果たせぬ中国の夢、平反(当局の事件見直しと処罰撤回)を期待して」(BBC中国語版)、「香港で六四について平反を求めるデモ」といった大陸外のニュースが“普通に”ヒットする。

■ 検索すると「法律法規に違反」と拒絶するサイトも

 「百度」の場合には、何らかの操作で関連情報にアクセスできないようにしていることが明らかだが、何らかの「操作」をしているとの説明はない。一方で、中国での代表的な簡易投稿サイトで、いわゆる「中国版ツイッター」のひとつである新浪微博(中国版ツイッターのひとつ)の検索機能を利用した場合には「関連する法律法規、および政策により、“六四”の検索結果は表示いたしません」との文字があらわれる。

 新浪微博による「法律法規、政策により表示しない」の“宣言”は、日本人にとって極めて奇異であり、中国の情報統制を改めて感じさせるものだが、「表示しない理由」を明示することは、当局への間接的な抵抗である可能性もある。

 「当局の意向による規制」を明らかにし、さらにユーザーに対して「あなたは、当局が法律違反とみなす行為をしています」と、当局にマークされるリスクがあることを伝えることになるからだ。

 日本のインターネット技術者によると、「百度」の場合には検索したユーザーを特定する情報を当局に伝えている可能性が高いという。

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◆解説◆
 厳しい情報統制が続いていることからも、中国で1989年6月4日の天安門事件の“衝撃”がなお続いていることが分かる。当時の当局側の対応に対する評価がどうであれ、同事件を考えなおすことは、中国人にとって大切なことであるはずだ。


 しかし中国当局は自国民に対して、同事件を考えるための「材料」を与えようとしない。当局による公式見解だけを与えられても、それは「しっかりと考えるための材料」とはなりにくい。一面的な情報はむしろ、「洗脳の道具」になるだけだ。

 中国が、かつての文化大革命時代などに比べれば「風通しのよい社会」に変化したことは間違いない。しかし現在も外側から見れば「情報統制大国」という体質は変化していないと言える。また、25年が経過した現在も厳しい情報統制を続けていることから、中国共産党が同事件を「新中国の汚点」と認識していることも分かる。

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■ 失脚した総書記追悼の動きが、激烈な民主化要求に発展

 1989年4月15日、中国共産党総書記を務めたこともある胡耀邦氏が死去すると、北京市内の大学ではただちに、校舎外壁などを利用しての胡氏の死を悼む表明が発表された。胡耀邦氏は、1987年に「ブルジョア自由化に寛容だった」などとして失脚し、公式の場から姿を消していた。「政治生命を絶たれた政治家」を悼む動きが急拡大していったことは異様だった。

 中国の“核心情報”を扱うことで知られていた中日新聞・東京新聞の清水美和氏(後に東京新聞・中日新聞論説主幹。故人)は「当初から、共産党内部の対立により、意図的に仕組まれたもの。単なる胡耀邦追悼の動きでは終わらないと最初の時点で書いたのは、ウチとBBCだけ」としばしば語った。


 胡氏の死を悼む動きは次第に、民主化要求運動の色彩を明確にした。北京では、学生を中心とする100万人規模のデモが発生。学生らは天安門を占拠した。

■ 学生らのハンストに市民同情し、応援の動き

 80年代になると、中国では民主化を求める学生運動がしばしば発生するようになっていた。1989年の運動でも市民は当初、あまり強い関心を持っていなかった。「立場が恵まれた学生サンのやること」程度の認識の人は多かった。

 しかし天安門広場で学生の一部が「ハンガーストライキ」を始めると、市民の見方が大きく変化した。中国ではハンストという抗議方法があまり知られてはおらず、「メシを食わないだって!?」と驚き、「学生は命を投げ出そうとしている」と同情する庶民は多かった。北京では5月にもなると、真夏並みの暑さになる日も多い。通りをデモ行進する学生に、多くの商店主などが飲み物やアイスキャンデーなどを配った。

 共産党上層部では、趙紫陽総書記や中央書記処胡啓立常務書記ら、いわゆる改革派は学生らに同情的な姿勢だった。李鵬首相や姚依林副首相ら、保守派は強硬弾圧を主張した。
結局は強硬派が主導権を握った。

■ 共産党の「強硬弾圧」決定で功績認められた江沢民

 しかし、まだ問題があった。中国共産党上層部である全人代の万里委員長が外遊中であり、訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国運動」などと評価する発言をしていた。学生らは「万里委員長は世界を味方につけてくれた。万里委員長が帰国すれば情勢は変わる」などと、大いに期待した。

 万里委員長は予定を繰り上げて帰国。しかしなぜか北京には戻らず、上海に到着して、「静養」の名目で同地にしばらく滞在した。そして、党中央の決定に従う意向を明らかにした。万里委員長を説得したのは、共産党上海市委員会トップの江沢民書記だった。江沢民書記は「万里説得」の功績を買われて中央政界に戻り、共産党総書記、国家主席など党と国のトップになることができたとされる。

 民主化を求める学生にとっては、長年にわたり対立してたソ連との関係正常化が、同国のゴルバチョフ大統領訪日で大きく前進する時期だったことも、不利になった【訪中は5月15-17日)。天安門広場で「国を挙げての歓迎式典」をする予定だったが学生らに占拠されていたため、式典は北京空港で行うことになった。
庶民の間では、「中国のメンツがつぶれた」との声が聞こえるようになった。当局側が噂などの形で、学生支持の庶民感情に水を差す情報を広めた可能性もある。

■ 市内にのこる機銃掃射の跡、兵士側にも犠牲者

 トウ小平の決断もあり、中国共産党は学生運動弾圧の腹を固めた。5月19日から北京市を戒厳下を置くことに決定。学生を排除するための解放軍部隊を北京市周辺に集結させ、6月4日未明に天安門広場に突入させた。

 市内の複数地点では、学生えの反撃で燃やされた軍車両もあった。当局は後になり、「反革命勢力による暴乱」などとして、歩道橋に吊るされた焼死体を「殺害された兵士」として公開した。

 同事件による犠牲者数は現在も不明。軍突入時に天安門広場にいたスウェーデンのテレビ番組政策スタッフが「広場で亡くなった人は、少ないはず」と証言している。ただし、北京市内の目抜き通りの多くでは5日ごろになっても、学生らが投げたレンガなどが一面に散らば場所があった。燃やされた車両や、、戦車や装甲車につぶされたとみられる中央分離帯などが「のたうちまわる」状態で取り残された部分もあった。工事現場のブリキの囲いや街路樹には機銃掃射の後が残った。
(編集担当:如月隼人)


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