「30」の項で創成期には主に監督がつけた番号と書いた。その頃「30」より1つ上の「31」を三原修が背負った。

47、48年は中島治康監督、50年は水原茂監督の上の立場となる総監督、49年は監督としての「31」だった。

 「31」を最も長くつけたのは水野雄仁。池田高で82年夏は主砲として、83年センバツはエースとして優勝。同年のドラフト1位で入団し86年に8勝、87年は先発として10勝4敗の好成績でリーグ優勝に貢献。藤田元司政権の90年は抑えとして11セーブ。長嶋茂雄政権では中継ぎとして活躍するなどさまざまな役割を担った。

 水野の後の三沢興一も、97年に新人で中継ぎや抑え、翌98年からは先発も務めた。その後は投手だけでなく全てのポジションの選手が背負ったが、22年からの赤星優志も先発も救援もこなすユーティリティーな投手。水野、三沢の系譜と言えるかもしれない。

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