角盈男(三男)さん(69)の制球難を克服したのが、あの地獄の伊東キャンプだった。400球の投げ込みの過程で、偶然生まれたサイドスローへのフォーム改造。

周囲の反対をものともせず、後押しをしたのが監督の長嶋茂雄さん(享年89)だった。そして第1次長嶋政権の最後の日に、角さんが言われた言葉とは…。(取材・構成=湯浅 佳典)

 新人王を獲得した翌年の79年にも、6月3日の阪神戦(後楽園)で3連続押し出しを献上するなど、長嶋監督を困らせた。オフに行われた伊東キャンプに、もちろん角も参加する。制球難を克服するのが、与えられたテーマだった。

 「午前中は、ただただ投げる。左肘を高く上げて投げることを、まず意識する。100球くらいまでは、できるんだけれど、疲れてくると腕が上がらなくなる。それでも300から400は投げるわけで、ある瞬間、体を使って楽に投げられるポイントを見つけたんだ。それが横から投げることだった。これならいくらでも投げられると、頭と体が一致した。最初から横にしようと思っていたわけじゃなかった」

 杉下茂コーチと共に監督室に向かった。

 「『角が横から投げたいと言っている。コーチたちも、そうさせたい』と杉下さんが監督に言ったんですよ。そしたら、すごく軽い感じで『オー、どうぞ、どうぞ』って。でも続けて『私が全ての責任を取りますよ』と言ってくれました」

 ダイナミックに投げ下ろすスタイルで新人王を取っている投手が、わずか2年でサイドスローへ改造するということに、周囲は猛反発した。

 「マスコミや評論家の人たちが100%、反対というか、たたきましたね。右打者は打ちやすくなる、とかね。でも、俺自身は、いい球ならどこから投げてもいいと思っていた。それに監督がOKしてくれている。実は監督にNO!と言われてもやるつもりだったから、失敗しても怖いものなしの気持ちでしたね」

 「地獄」と称された伊東キャンプは投手も野手も猛練習をしたにもかかわらず、一人の故障者も出さなかった。

 「V9の選手がみんなやめて、誰もが実績がない。それでもV9に追いつけと、参加した全員が口には出さなくても心に持っていたと思う。うまくなりたい、強くなりたい、そして監督の顔を潰すわけにはいかんと。

だから、誰も故障をしなかったんじゃないかな」

 サイドにして制球も改善され、80年はリーグ最多の56試合に登板し、1勝5敗11セーブ、防御率は2・28と良くなった。そして忘れられない日がやってくる。80年10月20日の広島との最終戦(広島)。4―3の8回無死一塁で江川卓をリリーフした角は2回5奪三振の完璧な投球でセーブを挙げ、チームもAクラス3位を確定させた。

 「ベンチに戻るとき、出迎えた監督にウィニングボールを渡しました。『ナイスピッチング』の声とともに、言われたんです。『来年は抑えでいくぞ。頼むぞ!』って。伊東キャンプで課題にしていた1番打者(松本匡史)、4番(中畑清)、そして抑えの俺。監督がつくろうとしていたものが、出来上がって、来年のゲームプランもできた理想の試合だったと思うんですよ。ところが…」

 その夜に何があったのか。2日後の新聞に「長嶋退団」の文字が躍る。

 「最初はドッキリカメラだと思った。辞任と書いてあったけど、俺はそうは思わない。試合が終わってから、どんな話があったのか、それは俺には分からない。でも『来年頼むぞ』と手を握ってくれた人。最後の言葉から感じた監督のやる気は俺が一番知っている。その人が辞任をするわけがない。球団がなんと言おうと、今でも解任だったと思ってます」

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