長嶋茂雄さん(享年89)は2004年3月4日午前、都内の自宅で脳梗塞(こうそく)を発症し、野球日本代表監督を務めていたアテネ五輪出場を断念した。主治医の脳神経内科医、内山真一郎氏(76)は急性期の治療に当たるなど、復帰を支えた。

五輪出場を断念するよう伝えた場面、ミスターからの気遣い。そして、用意したサプライズ。内山氏が思い出を語った。(久保 阿礼)

 「長嶋さんが倒れた?」。2004年3月4日。東京女子医大病院に関連の医療機関から連絡が入った。医師はどんな患者にも同じ気持ちで接し、全快を願うもの。ただ、患者の名前が「長嶋茂雄」と聞いた時は、経験豊富な内山氏でも動揺があった。救急搬送された時は、命が危ぶまれる状態だった。

 「意識障害と右半身にまひが出ていたので、すぐに脳梗塞を疑いました。長嶋さんは高血圧も糖尿病も脂質異常もなく、たばこも吸わない。定期的に検診を受けていましたが、原因は不明でした」

 懸命の治療を続けた。

一方、関係者には「記者会見をしてほしい」と要望された。入院翌日の正午過ぎ。長男の一茂さんらとともに、テレビが生中継する会見の席に着いた。口を開く度、無数のフラッシュが光った。診断名は「心原性脳塞栓(そくせん)症」。発作性心房細動という不整脈が原因で心臓の左心房に血栓ができ、血管を通って左大脳で詰まった状態だった。

 「心房細動という不整脈も見つかり、抗血栓療法や脳保護療法や脳のむくみを取る治療をしました。当時のガイドラインにのっとった標準的な治療を行いました。発症時刻が特定できず、かなりの時間が経過してしまったと考えられたため、血栓溶解療法は行えませんでした」

 心配された合併症もなく、長嶋さんは発症から5日目に医師の介助を受けながら右の手足の屈伸を始めた。その数日後にはベッドを出て、椅子に座って食事をした。当初、周囲は寝たきりの生活を覚悟したが、奇跡的に回復した。「先生が一番大変でしたね」。

退院前、ミスターにもらった気遣いの言葉が何よりうれしかった。

 初台リハビリテーション病院に転院し、日本代表監督を務めるアテネ五輪への復帰を目指した。「ものすごく前向きでリハビリも真剣。退院後も自宅で専門スタッフとともに筋力トレーニングを続け、“リハビリを超えたリハビリ”というほどの鍛錬でした」。それでも、開幕までの残された時間は足りなかった。家族と話し合い、内山氏は「代表監督は難しい」と伝えなければならなかった。「重く、つらい」通告だった。

 「代表監督としてのプレッシャー、真夏の猛暑は再発のリスクが高すぎます。断念してください、とお伝えしました。長嶋さんは少し沈黙した後、分かりました、とだけ。涙をこらえていらっしゃいました」

 変わらずリハビリに励んだミスターは翌05年7月3日、東京ドームで巨人―広島戦を内山氏らと一緒に観戦した。約1年4か月ぶりの公の場。

「お帰りなさい!」。大歓声に迎えられ、笑顔で応えた。常に前向きな姿を見て、内山氏はサプライズ企画を思いつき、快諾された。06年6月30日、東京・京王プラザホテルで行われた日本脳ドック学会。プログラムに「特別企画」と記した。集まった医療関係者ら約560人は特別ゲストの登場を知らない。

 「後遺症と闘っている全国200万人の患者さんや、それを支える医療関係者の希望になれば…と、長嶋さんが復活するまでのVTRを流しました。その後、ご本人にサプライズで登壇していただき、花束を贈呈しました。会場からは驚きの声と歓声が上がり、拍手の嵐となりました。スタンディングオベーションでした」

 内山氏は2014年に東京女子医大を退任後も3年間、ミスターを診察。その後の様子もスタッフから聞いていた。小さな頃から長嶋茂雄の大ファンだった。

病と闘う姿と接し、感じたことがある。「名選手は名患者でもありました。絶対病気に勝つ! 頑張るんだ!と。それが、長嶋茂雄さんのすごさですね」

  ◆内山 真一郎(うちやま・しんいちろう)1949年1月16日、埼玉県生まれ。76歳。74年、北海道大医学部卒業後、東京女子医大病院勤務。81年から2年間、名門の米・メイヨークリニック血栓症研究室に留学。2001年、神経内科教授。08年、主任教授。14年、山王メディカル脳血管センター長、国際医療福祉大臨床医学研究センター教授。24年、赤坂山王メディカルセンター脳神経内科部長。脳卒中以外に血管病としての認知症予防や啓発活動にも力を入れる。

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