1991年の東京世界陸上男子マラソン金メダリスト・谷口浩美さん(65)が10日、スポーツ報知の単独取材に応じた。日本初開催の世界陸上で日本勢初の金メダルを獲得し、人生が一変した体験談や綿密な準備を整えていた舞台裏などを明かした。
34年ぶりの東京世界陸上開幕がいよいよ迫ってきた。コロナ禍で無観客開催だった21年東京五輪と異なり既に91年東京、07年大阪を上回る45万枚ものチケットが売れ、注目度は高い。谷口さんは91年大会金メダリストとして、その反響の大きさを笑顔で明かした。
「東京五輪に続いて世界選手権が日本って超ラッキーですよ。自国開催でメダルが取れたということが、自分にとってもプラスになった。世界選手権で優勝したことで翌年の五輪にも行けましたし、(現役を)リタイアしてからも陸上に携われています。競技者冥利(みょうり)に尽きますよね」
世界陸上は83年から始まり、91年は第3回大会だった。男子マラソンは大会最終日に実施。気温30度近くで24人が途中棄権する過酷なレース。この大会から本格着手した日本陸連の暑熱対策で、給水で水を体にかけて体温を保った谷口さんは終始先頭集団を走り、残り約3キロでスパート。
「日本代表に選ばれた4月29日に、9月1日(本番)の青写真を描きました。スタートからゴール後のインタビューまで全部、A4のノート1冊に全て書きました。それがパーフェクトなマラソンで、優勝するきっかけになりました」
暑さ対策も練り上げた。
「(8月の)北海道マラソンを走り、どんな状況、環境でも2時間10分で走れる体調管理ができた。89年の北海道マラソンで優勝してマスコミの方々に『暑さに強い谷口』って書いていただいて、そう思い込んだ。体調が落ちても、過去の自分のデータがあれば慌てることなく準備を進められます。自分は弱いから考えるんです。確実に結果を残せる取り組み方をした」
世界陸上での日本人金メダルは今でも7人しか達成していない偉業だ。その反響は想像以上だったという。
「世界選手権の次の日、朝練習で品川から皇居を1周しました。
さらに人気に火をつけたのは92年バルセロナ五輪だった。転倒したレース後に発した「こけちゃいました」が日本で流行語となった。
「世界選手権で優勝したことが『こけちゃいました』につながっているんです。僕だけを狙っているカメラが1台ついていたから、あの転んだ場面がリプレーされた。当時は日本で話題になっていると思っていなくて、成田空港に着いて記者の方々に囲まれて、そこで知りました。陸上を全く知らない人たちも『こけちゃいました谷口浩美』を知った。当時は生活するのも出歩くことも大変でした」
経験者として、観客に自国開催だからこそのお願いがある。
「選手を応援する時はぜひ、名字ではなく名前で呼んでほしい。『浩美、頑張れ』って。
東京で再び見られるかもしれない歴史的瞬間に、谷口さんの胸は高鳴っている。
◆男子マラソン91年東京世界陸上VTR 大会最終日の9月1日に行われた。午前6時スタートながら気温30度近い過酷なレースで、注目の中山竹通ら60人中24人が途中棄権。谷口は38キロ地点でスパートし、2時間14分57秒で日本勢初の金メダルを獲得。篠原太も終盤まで先頭集団で争い、5位入賞を果たした。
◆男子マラソン92年バルセロナ五輪VTR 森下広一(当時24)が、35キロ付近からファン・ヨンジョ(韓国)と一騎打ち。40キロ過ぎの下り坂で突き放され、銀メダルを獲得した。メダルを期待された谷口は22.5キロ付近の給水地点で後続選手に左足を踏まれて転倒し、シューズも脱げるアクシデント。それでも8位に入賞し、レースの後に発した「こけちゃいました」で大きな注目を集めた。
【取材後記】 取材の中で何度も出てきた「準備」という言葉が印象的だった。谷口さんは91年東京世界陸上前、金メダル獲得のために準備と計画を最も大事にしていた。日誌には「体調管理やマッサージをやったやらない、ビールを飲んだ飲まないとか」と逐一記載。
◆谷口 浩美(たにぐち・ひろみ)1960年4月5日、宮崎県生まれ。65歳。小林高2、3年の時に全国高校駅伝連覇。日体大時代は箱根駅伝で2年生から3年連続6区区間賞。83年、旭化成に入社。85年の別大でマラソン初出場初優勝。