石毛宏典が語る黄金時代の西武(12)
潮崎哲也 前編
(連載11:「史上最強」1990年の西武は、平野謙という「つなぎ役」の加入によって完成した>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の平野謙氏に続く12人目は、"魔球"と称されたシンカーを武器に西武の黄金期を支えた潮崎哲也氏(埼玉西武ライオンズ・シニアアドバイザー)。先発やリリーフとして15年、通算82勝55敗55セーブと活躍したサイドスロー右腕のシンカーの印象、性格などについて聞いた。
【「プロ向き」の性格】
――潮崎さんは松下電器在籍時代、ソウル五輪の野球日本代表に選ばれ、野茂英雄さんや石井丈裕さんと先発ローテーションを組むなど、アマチュア時代から注目されていましたね。
石毛宏典(以下:石毛) 入団当時(1989年ドラフト1位)は線が細い印象がありました。野茂や与田剛らに比べたら体が小さくてひ弱に見えたので、「プロの世界でやっていけるのかな」と。でも、走らせてみるとバネがあったし、けっこう体力もありました。
何よりも、彼の持ち味であるシンカーはプロ入り当初からすごかった。相手チームのバッターが空振りしたり、打ちあぐねたりしている姿を見て、「相当な武器なんだろうな」と見ていました。社会人野球でもまれていただけあって、1年目から活躍しましたね(7勝4敗8セーブ)。
――当時の西武の森祇晶監督は、潮崎さんのタフな精神力を評価していました。石毛さんはどう感じていましたか?
石毛 打たれても引きずることがなかったですし、プロ向きの性格だったと思います。いつの頃だったか、春季キャンプの前に共同石油の女子バスケットボール部(現ENEOSサンフラワーズ)と一緒に自主トレをする機会があったんです。自分のほかに鈴木康友、笘篠誠治、あとキヨ(清原和博)も来ていたのかな。
そこで思ったのは、手を抜くことがめちゃくちゃうまいということ。いい意味で"ズボラ"なところがあるんです。図太いというか、機を見るのがうまいというか......。自主トレでそういうものを感じましたね。他人があまり深く入り込めないような、サラっとしたような雰囲気もありました。
――ちなみに、なぜ共同石油の女子バスケ部と一緒に自主トレをしたんですか?
石毛 当時の共同石油は常に優勝を争う強豪チームで、中村和雄さんという優れた監督がいたんです。西武のトレーナーが中村さんと親しい間柄だったので、紹介いただく形で実現しました。共同石油の練習に参加して、食事も一緒にとるなどして交流を深めていきましたね。
【潮崎のシンカーが打ちづらい理由】
――潮崎さんの代名詞でもあるシンカーは落差が大きく、「50cm沈む」とも言われていました。石毛さんが守っていたサードから見た軌道はどうでしたか?
石毛 まず腕の振りに関しては、真っすぐを投げる時とほとんど同じ。むしろ、シンカーを投げる時のほうが腕の振りが強いと思うくらいでした。あれは、バッターは戸惑いますよ。
マウンド度胸というか、気持ちの強さも感じました。左バッターのインサイドも厳しく攻めていましたし、コントロールにも自信を持っていたと思います。シンカーが注目されがちですが、真っすぐにもキレがありました。
――1992年の日本シリーズ(西武対ヤクルト)で潮崎さんのシンカーを見た野村克也さんが、高津臣吾さんに潮崎さんのようなシンカーの習得を進言したこともありましたね。
石毛 高津はタイプが少し違うシンカーだったと思いますが、彼は彼なりに独自のシンカーを習得して武器にしましたね。翌年の日本シリーズで再びヤクルトと当たった時、西武のバッター陣は高津に苦しめられましたよ(笑)。
――石毛さんはチームリーダーとして、マウンドに行ってピッチャーに喝を入れることも多かったですが、潮崎さんとの印象的なやりとりはありましたか?
石毛 ピッチャーがコントロールを乱してフォアボールを出したり、気持ちで逃げていたりする時などはマウンドに行っていましたが、潮崎の場合はフォアボールが続いてピンチを招いた記憶があまりないんです。潮崎と同じく、リリーバーで頑張ってくれた杉山賢人もそうでした。
【もし対戦したらどう打つ?】
――以前から石毛さんは、西武の黄金期の中でも「1990年が最も強かった」と言われています。
石毛 リリーフ陣が強化されたことで、先発を含むピッチャー陣はより盤石になりました。のちに杉山(1992年ドラフト1位)も入ってきて、杉山・潮崎・鹿取が試合を締めてくれました。それと、彼らの場合は仮にランナーを溜めてしまっても、自分で"尻拭い"ができましたから。3人とも素晴らしいリリーバーだったと思いますよ。
――仮に、石毛さんが潮崎さんと対戦した場合、シンカーをどのように打ちますか?
石毛 当時のパ・リーグの名バッターたちも打ちあぐねていたくらいですし、自分も打てないんじゃないでしょうか(笑)。たまに投げてくる真っすぐを打ち損じないようにするしかない。シンカーはフォークと違って、一回浮き上がる感覚があって、目線が上がってしまうのがやっかいなんです。特に潮崎のシンカーは落差が大きいので、なかなか対応しきれないでしょうね。だから、あれだけの成績を残せたと思うんです。
――プロ1年目から7年連続で40試合以上を投げ、チーム事情で先発に転向した1997年は12勝(7敗)を挙げるなど、長く西武のピッチャー陣を支えました。
石毛 黄金期と呼ばれていた頃の西武には、先発もリリーフも優秀なピッチャーが多かったですが、潮崎の安定感はナンバーワンだったと思います。
(後編:潮崎哲也の8者連続奪三振「体は小さいのに、マウンドにいる姿は大きく見えた」>>)
【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。