Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第40回/最終回】ジーコ
鹿島アントラーズ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 本連載は、40回目の今回が最終回。連載を締めくくるのにふさわしいのは、この男しかいない。

 ジーコである。Jリーグ開幕に先駆けて来日したサッカー王国ブラジルのレジェンドは、鹿島アントラーズを強豪へ押し上げただけでなく、日本サッカー全体のレベルアップにも多大な貢献を果たしたのである。

 現在の日本サッカーの繁栄は、彼なしには考えられない。

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【Jリーグ】ジーコはいつも全身でゴールの歓喜を表現した 「全...の画像はこちら >>
 1993年のJリーグ開幕節で、ジーコ率いる鹿島アントラーズは名古屋グランパスエイトと対戦した。舞台はカシマサッカースタジアムである。

 この試合でジーコは、25分に豪快な右足シュートを突き刺し、30分には代名詞的プレーの直接FKで2点目をゲットした。63分にはアルシンドのアシストから華麗に左足ボレーを決めている。

 メモリアルな試合で、きっちり結果を残す──。それこそが、スーパースターたる所以(ゆえん)である。

 来日したのはJリーグ開幕の2年前。1991年5月、日本サッカーリーグ(JSL)2部の住友金属の一員となった。

 当時38歳である。一度は現役を引退しており、ブラジルでスポーツ担当大臣の要職に就いていた。

 僕はサッカー専門誌の編集記者1年目で、住友金属への入団記者会見をカメラのフィルムで見た。1982年のスペインワールドカップや1986年のメキシコワールドカップの時のジーコとは、当たり前だが体型が少し違った。フットボーラーとしての日常から離れていたことで、もう一度身体を絞り込む必要があるように感じられた。

【身体は確実にシェイプされていった】

 住友金属が属するJSL2部は、記者会見からおよそ4カ月後の9月に開幕した。JSLはこのシーズンで終了することになっており、サッカー専門誌もスポーツ紙もブラジルから帰国2年目のカズこと三浦知良を擁する読売クラブ、守備陣を中心に日本代表を揃える日産自動車を追いかけていった。我が専門誌もJSL2部に十分なスペースを割くことはできないものの、カメラマンは定期的に住金の試合を撮影していた。

 フィルムに焼きつけられた彼の姿を、追いかけていった。身体は確実にシェイプされていった。プレー中のフォームが美しい。

パスも、シュートも、直接FKをインパクトする瞬間も......。1981年のトヨタカップでフラメンゴを世界一のクラブへ導いたあの姿が、スペインワールドカップで世界を魅了した背番号10が、記憶のなかで次々に立ち上がっていった。

 ワールドカップで優勝することはできなかったものの、ブラジルの歴史に残るスーパースターである。ピッチから離れていたとしても、38歳になっても、極東の2部リーグで明らかな「違い」を見せつけることは、難しくなかったはずだ。

 住友金属工業鹿島製鉄所内のグラウンドへ、僕自身も足を運んだことがある。サッカー関係者、事業所の従業員とその家族らが見つめる景色は、リオのマラカナンにも、東京の国立競技場にも遠く及ばない。そんな環境でジーコがプレーしていることに戸惑いを覚えたものだが、本人は気に留めることもない。ワールドカップと変わらない熱量が、全身を駆け巡っていた。全力で「違い」を見せていたのだった。

 ジーコと日本サッカーとの関係は、長く、長く続くことになる。日本代表の監督を務めていた4年間は、定期的と言えるくらいの頻度でインタビューをさせてもらった。たくさんの時間を共有して、記事には掲載されないエピソードもICレコーダーに収められている。

【サッカーに対して礼を欠くことになる】

 インタビューと撮影の合間には、通訳を介して雑談をさせてもらった。彼はいつも時間の許すかぎり質問に答えてくれて、自分から席を立つことはまずない。2004年2月の宮崎もそうだった。住友金属で見せた全力プレーについて聞くと、ジーコは少し不思議そうな表情を浮かべた。

「私たちはこれからワールドカップ・アジア1次予選を戦うが、誰もが日本は簡単に勝つ、グループ首位で最終予選へ進出する、と思っているに違いない。日本の力については、私も自信を持っている。ただ、サッカーでは何だって起こり得る。一瞬の油断が失点につながることを、私は現役時代を通じて何度も経験してきた」

 それに、と言ってジーコは続ける。

「目の前の試合に全力で挑んで、こちらの力を相手に見せつけて5-0や6-0で勝てば、相手は『日本は手ごわい、次も難しい試合になるだろう』と思う。そうやって思わせることで、我々は精神的に優位に立つことができるのだよ」

 話が逸れてしまったね、とジーコは言った。逸れた先にも興味は湧いたが、住友金属での話を聞きたかった。

「どんな試合だって、全力でプレーするのは当たり前だ。そうじゃないと、自分たちのチームを応援してくれている人たちにも、対戦相手にも失礼だ。

全力でプレーしなければ、サッカーに対しても礼を欠くことになってしまうよ」

 母国ブラジルのフラメンゴで、セリエAのウディネーゼで、ブラジル代表で、そして鹿島アントラーズで、ジーコは勝利を求められてきた。自分たちのチームが負けることを決して許容しない環境で、戦い続けてきたと言ってもいいだろう。

「それがつらかったわけではないんだ。チームメイトやスタッフ、サポーターと一緒に勝利の喜びを味わいたいから、僕はいつだって全力でプレーしてきた。それは、相手チームや審判のためでもある。レベルの高い試合を、一緒に作り上げることができるわけだからね。

 さらに言えば、グラウンドを整備してくれる人、スタジアムの周りで交通整理をしてくれる人、スタジアムの売店で食べ物や飲み物を売ってくれる人、試合を伝えてくれるメディアのみなさん......たくさんの人たちが関わって、選手は、監督はピッチに立つことができる。そうやって考えたら、ちょっとでも手を抜くなんてできるはずがないさ」

【Jリーグ全体の目線が上がった】

 どんな試合でも、どんな相手でも、自分たちの力を信じて戦う。貪欲なまでに勝利にこだわる。全員が一体感を持って戦う──ジーコが鹿島アントラーズに植えつけた勝者のメンタリティは、Jリーグ最多のタイトルを獲得することにつながっている。

 チームとして高いスタンダードを持ち、自分にもチームメイトにも厳しいチームカルチャーは、他クラブから一目置かれるものとなった。鹿島が結果を出し続けることで、Jリーグ全体の目線が上がっていったと言っていい。

 個人的には、ゴールを決めたあとのジーコが好きだった。住金での試合でも、記念すべきJリーグの開幕戦でも、その後のリーグ戦でも、彼は全身で歓喜を表現した。

 監督としてチームを率いることになっても、ゴールシーンでは力強く拳を握りしめた。スタッフと抱き合った。拳を突き上げた。

「それはそうだろう。サッカー選手は試合でゴールをするために、毎日、毎日、練習しているんだ。そのがんばりが報われた瞬間に、喜びが沸き上がって来ないはずがないじゃないか。その瞬間に喜ばないで、いつ喜ぶっていうんだ?」

 純粋な情熱は、いつでもまぶしかった。歓喜に慣れることはなく、あきらめることもないその姿が、見る者の心を動かすのだろう。

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