関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(18)

(連載17:前田日明が起こした長州力「顔面襲撃事件」と解雇 アントニオ猪木に「なんとかなりませんか」>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第18回は、新日本からの2度目の退団と新生UWFへの加入、その後の人気絶頂期について語った。

【プロレス】藤原喜明は「君程度(きみていど)」と言われて新日...の画像はこちら >>

【新日本との契約更改で退団を決意】

 年号が昭和から平成に変わった1989年。その3月に、藤原は新日本プロレスを再び退団した(1度目は1984年6月。1986年に復帰)。移籍した先は、前田日明が再興した新生UWF。その経緯について、こう明かす。

「前にも言ったけど、前田がUWFを復活させた時、アイツから『来てくれ』って言われてたんだよ。だけど、俺は面倒くさいのは嫌だから『行かないよ』って言ってたんだ。それでな、年が明けて新日本と契約更改があってな。その交渉の相手は......」

 意味深にほほ笑み、言葉をつなげた。

「倍賞鉄夫って言うんだけどな、フフフ......。交渉の席で彼に『ギャラは、君程度(きみていど)ならこれで十分だろ?』って言われたんだよ。『君程度』って言葉を聞いて、『あぁ、俺は必要とされてないんだ』となったよ。

『だったら、もうこことは別にいいや』と思って、前田に電話して『俺を使ってくれよ。ギャラはいくらでもいいから』と言ったんだ。そうしたら前田は、『わかりました』って即答してくれたんだ」

 倍賞氏は当時、選手の契約交渉を担う事実上のトップだった。その幹部からの心ない言葉に、藤原のプライドは傷ついた。

「俺は(この連載で)ずっと言っているけど、必要とされているところでやりたいんだ。それを『君程度』って(苦笑)。そう言われたら『上等だよ。じゃあ違うところで働くよ。さようなら』ってなるわな。逆に前田は『ぜひとも来てくれ』って言ってくれたからな。これがUWFに行くことを決めた理由だよ」

 もし『君程度』と言われていなければ......。藤原は「新日本を辞めなかったかもしれないな」とつぶやいた。

 退団を決断した藤原の、新日本での最後の対戦相手はアントニオ猪木だった。

【猪木との一騎打ち後にUWFへ】

 3月16日、横浜文化体育館。試合は第一試合での一騎打ち。この一戦が第一試合になったことには理由がある。猪木が2月22日の両国国技館大会で長州力にピンフォールで敗れ、同25日の沖縄・奥武山体育館大会から、原点回帰として第一試合で試合を行なっていたためだった。

 試合は、伝統的な新日本のストロングスタイルの原型とも言えるグラウンドでの攻防に。最後は猪木の卍固めで、藤原は敗れた。

「第一試合だろうがメインイベントだろうが、猪木さんは猪木さんで、俺は俺だよ」

 猪木とのラストマッチを終えた藤原は、新生UWFへの移籍を発表した。同じく新日本から欧州へ武者修業中だった船木優治(現・誠勝)、若手の鈴木実(現・みのる)も退団してUWFに入団した。ふたりは藤原とスパーリングを重ねていた"師弟関係"でもあったが、弟子たちの退団と移籍に関わったのか。

「俺は小賢しいことは嫌いだし、そんなことやるわけねぇだろ。だいたい、俺は人にものを頼むってことを知らねぇからな」

 新生UWFの1年目の所属選手は、前田を筆頭に6人。そこに藤原、新日本の次代のエースとして期待されていた船木、急成長していた若手の鈴木が加入し、団体の飛躍が期待された。

 その3人は、4月14日の後楽園大会に登場。藤原と船木はあいさつのみだったが、鈴木はいきなり安生洋二と対戦して敗れた。藤原の移籍初戦は、5月4日の大阪球場大会。対戦相手は船木だった。

 その大会は主催者発表で超満員の2万3000人と、UWFとしては第一次を含めて過去最高の観客を動員した。そこで藤原は、ヒザ十字固めで船木を破った。船木は前座時代から、試合前に藤原とスパーリングを重ねていたが、そんな教え子との一戦に感慨はあったのだろうか。

「『成長したな』とは感じたけど、それくらいだよ。そもそも俺は、アイツを教え子だとか弟子だとか思ってねぇ。俺としては技の研究相手なんだよ」

 新生UWFの試合は、基本的に月1回。全国各地を巡業し、年間200試合近くを行なっていた新日本時代とは激変した。

「確かに試合数は違って、練習する時間は増えたけど、俺自身は何も変わらないよ。

与えられた仕事を、一つひとつ一生懸命にやるだけだ」

【東京ドームに6万人を動員】

 藤原、船木、鈴木の加入で、新生UWFの人気は加速した。プロレス業界以外の媒体でも紹介され、新日本、全日本をも上回る勢いがあった。そんな"UWFブーム"が起こった理由について、藤原はこう語った。

「やっぱり、スタイルじゃないのか。第一次の時に俺が言ったことだけど、全日本と新日本と同じことやっても絶対に勝てないから、練習でやってるスパーリングをそのままやればいいんじゃないかってやつだ。それが正解だったってことじゃないのかな。確かに、すげぇ人気だったよな。それは、ありがたかったよ」

 一方で、入場でのレーザー光線などを使った派手な演出には、「ずいぶん無駄なとこにカネを使ってるなと思ったよ。フフフ......」と、ニヤリと笑った。

 当時の人気を象徴する大会がある。1989年11月29日に行なわれた東京ドーム大会だ。

 大会名は「U-COSMOS」。世界から格闘家を招聘し、UWFの6選手との異種格闘技戦が組まれた。

東京ドームでのプロレス興行は、同年の4月24日に新日本が初めて開催したばかり。2団体目のドーム興行は、主催者発表で6万人の観客を動員した。これは新日本を上回る、当時のプロレス興行での新記録だった。

「東京ドームはどうだったかって? ただ『デカイな』と思っただけだったよ。俺らは立派なデカイところだろうが、原っぱでやろうが気持ちは変わらないんだよ」

 メインイベントでは前田が、オランダの柔道家であるウィリー・ウイルヘルムと対戦。藤原はオランダのキックボクサー、ディック・フライと3分7ラウンドで激突した。のちに人気格闘家となるフライは、この大会が初来日で未知の相手だった。

「キックボクサーだから、一発食ったら終わり。丁か半か......そんな試合だったな」

【トランクスで闘った理由】

 この試合で藤原は、通常の黒のショートタイツではなく、キックボクサーやムエタイ選手が着用するトランクスを身に着けて闘いに挑んだ。

 藤原がトランクスでリングに上るのは異例だった。「異種格闘技戦への対策か?」といった憶測が流れたが、真相をこう明かした。

「家で支度をしていたら、いつものタイツにほころびがあったんだよ。

『あぁ、これは使えねぇな』って思ったけど、面倒くさいから『これでいいわ』ってキックボクシングのトランクスを持って行っただけなんだ。当時、キックのジムでも練習してたからな。特別な意味はないんだよ。

 見ているお客様にいろんなことを想像させて、思い込ませるのがプロだからな。着るものを変えるだけで、ファンはいろいろ考えてくれるんだよ。あの時もいろんなことを想像してくれて、ありがたかったな」

 試合ではフライの蹴り、パンチに苦戦。それでも2ラウンドにミドルキックをキャッチすると、スタンディングのままアキレス腱固めを極めて勝利した。

「フライは体がデカイし、筋肉もすごかったな。力も半端じゃなく強かったよ。だから、『長引かせちゃいけない』と思ったんだ」

 2ラウンド37秒の勝利に、東京ドームは大歓声に包まれた。リング上の藤原の目に、光るものがあったが......。

「俺が泣いた? 泣くわけねぇだろ。目にゴミが入ったんじゃないの? フフフ......。俺が人生で泣いたのは、おふくろが死んだときだけだ。俺が思うに男ってのはな、泣いていいのはおふくろが死んだ時の1回だけ。だから、見間違いだろ」

 新生UWFは、東京ドーム大会後も勢いが衰えず、興行も経営も順風満帆......と思われていた。しかし、1990年の秋、団体は選手とフロントが分裂することになる。

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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