「たった一日で何もかもが変わった」――柔道家・菊田早苗がMM...の画像はこちら >>

ジャケット総合格闘技の元祖ともいえる『ザ・トーナメント・オブ・J96』に参戦した菊田

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第56回

立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。

UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

前回につづき、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。

【「K-1ファイターになりたかったんです」】

「柔道の闘い方と本当に似ている」

95年秋のことだ。友達が持ってきてくれたVHSビデオで、菊田早苗はUFCの試合映像を初めて見た。柔術衣を着用して裸絞めや腕ひしぎ十字固めを使うホイス・グレイシーの闘いぶりを目の当たりにして目から鱗(うろこ)が落ちた。

「なんだ、柔道をやればいいのか」

目の前に立ち込めていた霧が一気に晴れた気分になった。というのも、それまで柔道と格闘技は全くの別物ととらえていたからだ。

「柔道の技術は格闘技では使えないと勝手に思い込んでいました」

もう少し具体的にいうと?

「新日本プロレスやUWFインターの道場でも寝技をやったら自分は全然ダメだった。そのときは何がダメなのか理由がわからなかったけど、ホイスの動きを見て謎が一気に解けた気になりました。たった一日で何もかもが変わった気がしました」

柔道では寝技で下から両足を絡めると、主審から「待て」がかかる。

柔術やMMAでいうところのガードポジションだ。ホイスがガードポジションから反撃に転じるプロセスは従来の「寝技で下になったら、絶対に不利」という常識を覆すものだった。

レスリングベースで「寝技は上になったほうが絶対に有利」という固定観念に縛られていた者にとって、グレイシー柔術の闘い方は受け入れがたき新たな価値観だった。とはいえ、柔道ベースの者だと、その捉え方はちょっと違ってくる。菊田はまさにそうで、「柔道って完全にスポーツだと思っていたけど、見方を変えれば完全に闘いのルールなんだ」と柔道と格闘技を結びつける糸口となった。

もっとも、菊田にとって総合格闘技は当初、自分でやるものとは考えてもいなかった。かつてスーパータイガージムに通っていたので、佐山聡が創設したシューティング(のちの修斗)の存在は知っていたが、「たぶんあんな打・投・極みたいな苦しいことは自分にはできない。寝技も下手なのに、さらに打撃だなんて」と否定的な捉え方をしていたのだ。

UFCのビデオに出会う前は1年ほどワーキングホリデーを利用してオーストラリアに滞在した。現地では当時K-1で活躍していたスタン・ザ・マンのジムに一般会員として通っていた。

「実はあの頃の僕はK-1ファイターになりたかったんですよ」

プロレスがダメなら格闘技で、という気持ちが芽生え始めていた。

「ただ、格闘技をやっても、生活ができるイメージは全くといっていいほど湧かなかったですね。

40歳まではアルバイトをしながらできるかな、というふうに考えていました」

しかし、95年秋、タイ経由で帰国すると、菊田を取り巻く状況は急に動き出す。きっかけはオーストラリアのときと同様、「K-1ファイターになりたい」という思いから正道会館東京本部に平直行を訪ね、フリーという立場で通い始めたことだった。

「とりあえず打撃をちょっとやってみたいという感じだったと思います。そうしたら、ある日、本間さんから『練習相手がいないから、寝技の練習をやらない?』と誘われて......」

平直行や本間聡が中心となって行なわれていた総合格闘技の合同練習に参加したことで、菊田の運命は変わっていく。そこで菊田は初めて寝技に真剣に取り組んだ。

「柔道時代は立ち技中心でずっとやっていたので。寝技? 好きじゃなかったですね(苦笑)。しかも、柔道時代は本当に寝技が弱かった」

平がアメリカでカーウソン・グレイシーから学んだグレイシー柔術のレッスンを受けたことも大いに役立った。MMAを想定した柔術を思い描いていた平は菊田に「絶対亀になるな」と教え込んだ。

「柔道ではよく亀になっていたので、その切り替えはすごく難しかった。柔道では寝技に付き合いたくなかったら、亀になって『待て』を待てばいいだけの話ですからね」

仰向けの体勢をとったら、簡単に押さえ込まれてしまう。そんな固定観念を持つ菊田にとって、相手に腹を見せながら対処していく柔術やMMA的な発想を受容することに抵抗があるのは仕方ないことだった。

「その教えを徹底的に叩き込まれたおかげで、体に染みついていた〝亀癖〟は徐々になくなっていったと思います」

もうひとつ、川口健次や山田学とシューティングのライトヘビー級王座を争っていた本間が足関節技の名手だったことを挙げる。

「柔道家がMMAで通用しない理由のひとつが、柔道にはない足関節技なんですよ。本間さんは本当に足関節がうまく、バキバキやられているうちに少しずつ対応できるようになっていきました」

練習は打撃なしのグラップリングが中心だった。

「練習には平さんや本間さんだけではなく、佐藤ルミナ君、桜井〝マッハ〟速人君、そして今、THE BLACKBELT JAPANの代表を務めている鶴屋浩さんなど、いろいろな方が来ていましたね」

【伝説の『ザ・トーナメント・オブ・J』】

95年12月に出場したアマチュアシュートボクシングの全国大会で早くもその成果が出た。「パンチやキックだけではなく、投げもあり」というシュートボクシングルールを最大限に活かして優勝することができたのだ。

「散々、相手の打撃を受けたあと、相手の首根っこを捕まえて投げる。シュートボクシングでは普通に投げてもポイントにならないので、きれいに投げることを心がけていました」

96年3月30日には和術慧舟會が主催した『ザ・トーナメント・オブ・J96』に参戦した。

「当初は8人制のトーナメントでやる予定だったようで、僕はリザーブ扱いだったんですよ。でも16人制でやるということで、本戦に出ることができるようになりました。今思うと、このチャンスが格闘技人生のターニングポイントでしたね」

このとき菊田はジャケット総合格闘技の元祖ともいえるワンデートーナメントを4試合勝ち抜き、見事優勝している。2回戦ではエンセン井上の兄・イーゲン井上を、決勝ではのちに修斗世界ライトヘビー級王者となる須田匡昇を破っての勝利だった。

「たった一日で何もかもが変わった」――柔道家・菊田早苗がMMAに開眼した日
須田匡昇にヒールホールドで一本勝ちして優勝

須田匡昇にヒールホールドで一本勝ちして優勝

もっとも、この大会のカテゴリーはアマチュア。

オープンフィンガーグローブを着用していたとはいえ、試合展開のほとんどは組み技や寝技だった。

「ジャケットを上に着て、寝技になると打撃がないルールでしたからね。僕からしたら柔道から転向してすぐだったので、バリバリやり合えるルールでした」

何年もの間、プロレスに苦しめられたのに、海外から帰国してわずか6ヵ月、菊田は「短期間のうちに人はこんなに変われるものなのか」と驚くしかなかった。

しかし、『トーナメント・オブ・J』で優勝した4ヵ月後には思わぬ落とし穴が待ち受けていた。             

(つづく)

●菊田早苗(きくた・さなえ) 
1971年生まれ、東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。「ザ・トーナメント・オブ・J」を96年、97年と連覇し、リングス、PRIDE、パンクラスなどで活躍。2001年にアブダビコンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝。総合格闘技戦績31勝9敗3分1無効試合。

取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪

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