日本ボクシング世界王者列伝:三浦隆司 リングに刻んだ「ボンバ...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち26:三浦隆司

 典型的なスラッガーだった。結末は行方知れずとばかりの猛烈打撃戦の末に、豪打で勝利をもぎ取る。

それが三浦隆司(帝拳)というボクサーの魅力だったし、世界王座へと向かう足取りの確かな手応えでもあった。やがて、WBC世界スーパーフェザー級王者となって念願を叶えたこのサウスポーは攻防の巧みな切り換え、多彩な攻め口を身につけ、世界的なスターに育つと信じさせるほどの強みを発揮し始める。(本文敬称略)

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【世界初挑戦は内山高志にTKO負け】

 日本を代表するボクシングジム、帝拳は21世紀を迎えると、続々とスターチャンピオンを輩出した。そのなかでも2010年代に輩出したふたりのサウスポー、山中慎介(WBCバンタム級)と三浦はプロボクシング史上でも傑出したハードヒッターと言っていい。切れ味の凄みで魅せた山中の"ゴッドレフト"に対し、どこまでも重く、烈(はげ)しい三浦の強打は"ボンバーレフト"と呼ばれた。

 叔父の三浦政直(リングネームは三政直)が1970年代に日本フェザー級チャンピオンとして活躍したこともあり、早くからボクシングには馴染みがあった。中学生のときに地元のジムに通い始め、高校は野球とともにボクシングでも強豪校である金足農業高校に進む。2002年の国体(現・国スポ)で優勝し、卒業とともに横浜光ジムに入門した。

 同ジム会長の関光徳(2008年に死去)はかつて東洋フェザー級タイトルを12度も防衛し、世界王座へも5度も挑戦した名サウスポーで、「(三浦は)すごいパワーパンチャーなんだ」と大きな期待をかけていたという。プロテストでは6回戦を戦えるB級ライセンス試験に合格し、華やかなスタートを切る。

 ただ、下積みの時代は意外に長かった。2007年、負けなしの12連勝(10KO1引き分け)で挑んだ初の日本タイトルマッチ(スーパーフェザー級)は、のちのWBA世界ライト級チャンピオン、小堀祐介(角海老宝石)に2度のダウンを奪われて判定負け。2009年には矢代義光(帝拳)が新たに座った同タイトルに挑んだが、引き分けで王座獲得ならず。

半年後の再戦で7ラウンドTKO勝ちし、やっとチャンピオンベルトを手にした。ちなみに矢代とのこの2戦はとんでもない打撃戦の連続で、初戦は三浦が2度のダウンを奪い、2戦目もダウン応酬の末の劇的な勝利だった。

 しかし、世界王座はなお遠く、日本王座4度防衛後の2011年1月、WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン、内山高志(ワタナベ)への挑戦はTKOで敗退する。左ストレートでダウンを奪いながら、"ノックアウト・ダイナマイト"の長い左ジャブで右目が塞がり、棄権を余儀なくされた。

 帝拳に移籍するのは、その後のこと。チャンピオンクラスのジム移籍がまだ珍しかった時代だったが、三浦は強くなるためにどこまでもどん欲だった。

【新しい環境で攻防ともども大きく開花した】

 三浦を支えたのは、その一本気な性格にほかならない。2025年に99歳で天寿を全うされた長野ハル・帝拳ジムマネージャーが「三浦はね、一番早くジムに来て、一番遅くまでずっと練習しているの」と話していたことを思い出す。その圧倒的な練習量こそが、このボクサーを強くさせた一因なのは間違いない。あるいは、三浦本人から「強くなるためには肉が必要」とキャリアの序盤は「毎日、牛丼ばかり食べていました」というエピソードも聞いた。格闘技、なかでも極北にあるボクシング。本人が信じたものこそ、成し遂げるための最強のツールである。

 新しい環境で、次第に変化の兆しが見え始める。

それまでは最強武器である左ストレートにこだわるあまり、一本調子になってしまうこともままあった。負けん気むき出しで、いいパンチを食らうと、守りがおろそかになったまま打ち合うこともある。「とにかく敵をぶん殴る」的な三浦のそんな戦い方に、幅が見えるようになってきたのである。

 2013年、帝拳ジムの同僚、粟生隆宏からベルトを奪っていったWBC世界スーパーフェザー級チャンピオン、ガマリエル・ディアス(メキシコ)を4度もキャンバスに叩きつけて9ラウンドTKO勝ちし、ついに世界の頂に立った。メキシコで行なった初防衛戦では、これまた果敢な好戦型、セルヒオ・トンプソンと派手に倒し合って判定勝ちを収める。三浦のパワーファイトの本領がもっとしっかりとした形になり始めたのは、この後だった。

 メキシカンばかりを相手に防衛戦を続け、さらに2度のTKO勝ちを重ねるのだが、左のパンチにさまざまな角度ができてきた。ストレートに加え、アッパーカット、時にはワイルドなオーバーハンド。一瞬の隙に意外な角度から拳をねじ込むことも。それまで、ほとんど"つなぎ"に過ぎなかった右フック、アッパーをも決定打に加えた強力なコンビネーション攻撃が生まれた。

 ボディブローも多彩になった。加えて、頭や上体をわずかに揺らせるディフェンスも向上した。

横浜国際プールで行なった3度目の防衛戦(2014年11月)、エドガル・プエルタ(メキシコ)を鋭いアタックでレフェリーストップに追い込んだ戦いを見て、「この三浦なら層の厚い中量級でも、海外リングで飛躍できるのではないか」と多くのファンが感づいたはずだ。

 2015年5月、ティーンエイジャーの頃から注目を集めたビリー・ディブ(オーストラリア=元IBF世界フェザー級チャンピオン)の身軽な動きに浮かんだ苦戦の予感を、3ラウンド、連打からの左ストレートであっという間に打ち消した。この一戦は、三浦の生涯24のノックアウトのなかでも、おそらくベストのものだった。

【一瞬の逆転劇で取り逃がした世界的スターの評価】

 その秋(11月21日)、三浦はアメリカ・ネバダ州ラスベガスに飛んだ。メインイベント、サウル・アルバレス(メキシコ)対ミゲール・コット(プエルトリコ)のミドル級タイトルマッチの前座だった。しかし、若きスーパースターがカリブのヒーローと対したスーパーファイトを、現地で取材した私はほぼ記憶していない。興味の大半がセミファイナル、三浦が五輪代表の技巧派フランシスコ・バルガス(メキシコ)の挑戦を受ける戦いに集まっていたのだ。そして、その戦いは期待どおりの猛烈打撃戦ながら、結末はあまりに残酷だった。

 距離をとってアウトボクシングに出るものと思われたバルガスだったが、打撃戦に打って出た。受けに回った三浦だったが、4ラウンド、あざやかな左ストレートを強打してダウンを奪う。8ラウンドにも左パンチが爆発し、ストップ寸前にまで追い込んだ。しかし、9ラウンド開始からわずか8秒、バルガスの左アッパー、さらに右ストレートを浴び、三浦は前のめりに倒れ込む。

立ち上がったがまた倒れ、ふらつきながらも再び起き上がる。両手を上げて大丈夫だとアピールしたが、ダメージは甚大だった。挑戦者の追撃に応戦するも、やがてディフェンスレスになり、レフェリーに試合を止められた。この激戦は同年のリング・マガジン『年間最高試合』に選ばれたものの、世界にとどろく「ボンバーレフト」の夢は潰えた。

 三浦は2017年、ロサンゼルス近郊イングルウッドで、WBC王者ミゲール・ベルチェルト(メキシコ)に挑むが、初回にダウンを奪われたあとは、チャンピオンのアウトボクシングを崩せないまま大差判定負け。この一戦で現役生活にピリオドを打っている。

 引退後は郷里の秋田県に帰った。後進の指導にも積極的で、時には帝拳時代の恩師、葛西裕一が経営するジムで特別コーチを買って出たこともあった。現在は母校・金足農業高校のボクシング部監督を務める。普段はひたすら温順、リングに入れば一転、KOの鬼になった男が、どんなボクサーを育てるのか。楽しみで仕方ない。

●Profile
みうら・たかし/1984年5月14日生まれ、秋田県三種町出身。

小学生の頃からボクシングに興味を持ち、金足農業高校時代にはアマチュアで活躍。2002年のよさこい国体で優勝を飾っている。卒業後、プロに転じて6回戦でプロデビュー。2009年に日本スーパーフェザー級チャンピオンに。世界初挑戦は敗れたが、2013年、2度目の挑戦でWBC同級チャンピオンを獲得した。4度防衛後に米国リングに本格的に進出したが、痛恨の逆転TKO負けでタイトルを失う。2017年に世界復帰をかけた一戦で敗れて引退。サウスポーのすばらしいパワーパンチャーだった。身長169cm。37戦31勝(24KO)4敗2分。

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