野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・鈴木孝政(後編)

 1974年7月17日、後楽園球場での巨人対中日戦。1対8と中日が大量リードを許して迎えた3回。

三番手で登板した鈴木孝政は8番・矢沢正、1番・長嶋茂雄に本塁打を浴びて3点を失い、この回で降板した。ベンチに帰ると担当コーチの近藤貞雄から長嶋に対する配球を責め立てられ、その怒りは宿舎に戻ってもおさまらなかった──。その後の顛末を鈴木に聞く。

【プロ野球】「なんでカーブを投げるんだ」 長嶋茂雄に本塁打を...の画像はこちら >>

星野仙一に代わって抑えに抜擢】

「長嶋さんに、僕のカーブを後楽園球場のレフトスタンド中段まで運ばれたんです。あれは自分のなかで、とてつもなく大きなインパクトとして残っています。だって、憧れに憧れた大好きな選手ですからね。だから全然悔しくなかった。

 でも、もちろん打たれていいわけがない。すると近藤さんが『なんでわざわざカーブを投げるんだ』と。たしかに相手は大ベテランですし、真っすぐよりカーブのほうが打ちやすかったのでしょう」

 この時、長嶋は38歳。打率も2割3分台と衰えが目立ち、監督の川上哲治は中軸に置かず、1番で起用することが増えていた。それだけに鈴木は近藤から厳しく叱責されたようだが、本人としては捕手のサインどおりにカーブを投げただけである。「真っすぐでいいんだ」と言われても、実質1年目の20歳の選手が、先輩のサインに首を振るわけにもいかない。

「『自分の一番の武器は何か、ちゃんと自覚しておけ』とも言われました。武器はわかっていますよ。でも、ピッチングってそんな簡単なもんじゃない。僕は240本ホームランを打たれましたけど、長嶋さんに打たれたあの1本だけは悔しくなかった。でも、近藤さんにこっぴどく叱られたのは悔しい。たぶん、『おまえは真っすぐで生きるんだぞ』ってことを叩き込もうとしたんじゃないですかね」

 コーチと選手という立場上、納得できない部分もあった。それでも鈴木はこの年、近藤からフォークボールを伝授され、新たな武器として習得する。1974年は35試合に登板して64イニングを投げ、4勝、防御率3.52を記録。リーグ優勝に貢献すると、ロッテとの日本シリーズでも第2戦と第5戦で先発を任された。

「最初は先発として育てられていましたからね。それが翌年、シーズン当初は星野(仙一)さんが抑えもこなしていたんです。でも、先発と抑えの二刀流なんて、やっぱり無理がある。

そしたら5月頃、近藤さんに『星野を先発に回すから、おまえはケツをやれ』と言われたんです。『ケツ?』って思いましたよ」

 リーグ優勝の1974年にセーブ制度が導入され、投手分業制が本格化する追い風となった。とはいえ、当時の星野はまだ分業の枠に収まる存在ではなかった。先発と抑えの両方をこなし、49試合に登板して188イニングを投げ、15勝10セーブで初代セーブ王に輝いただけでなく、7完投で沢村賞まで受賞している。

 つまり、星野自身は「分業制」の投手ではなかったのだ。さすがに翌年は先発に専念することになり、そのあとを引き継ぐ形で鈴木が「ケツ」、つまり抑えを任されることになった。

【球数管理から生まれた独自の投手カルテ】

「こっちはまだ実績も経験もありませんからね。そんな大事なポジションを任されても......。もちろん『どうなっても知りませんよ』とは言いませんでしたけど、腹の中ではそんな気持ちでした。抑えなんて未知の世界でしたし、まったく自信はなかったです」

 近藤はその頃、チームの各投手が「試合で、ベストの状態で何球まで投げられるか」、限界の見極めに努めていた。結果、各投手は4タイプに分けられると見立て、<A=100球、B=80球、C=50球、D=30球が限界>というカルテを作成。ゆえに投手分業=継投については、<AプラスD>、<BプラスC>といった組み合わせを基本とした。

 もちろん、登板間隔による限界もあるが、それでも近藤の評価では、鈴木は十分にA。

中3日で先発し、120球を投げても球威が落ちない。チームの大黒柱になれる投手だと判断していた。

 ならば抑えに回した場合2日続けて登板したとしても、1試合30球ならベストの状態で投げられるはず──。それが近藤の考えだった。それを聞いた鈴木は、「それぐらいだったら毎日だって投げられると思っていますが......」と答えたという。

「でも、実際は30球じゃなかったです。中3日空いたら3イニング、2日空いたら2イニングという感じで、空いた日数分のイニングを投げることを求められました。雨で試合が流れたり、移動日が入ったりすると、『うわぁ、次は3イニングか......』って思いましたね(笑)。3イニングはきついですよ。そりゃ規定投球回にも到達しますよね」

 快速球とフォークを武器に、鈴木は1975年から3年連続でセーブ王を獲得した。リリーフエースとして一躍脚光を浴び、「セーブ王というタイトルは鈴木のためにつくられた」と称賛された。

 ただし、当時の抑えは現在のような1イニング限定ではない。

イニング途中からの登板は当たり前で、ときには3イニングを任されることもあった。そのため鈴木は3年連続で規定投球回に到達。1976年には最優秀防御率のタイトルまで獲得している。

 しかし、その代償は小さくなかった。登板過多の影響もあったのだろう。1978年、鈴木は右ヒジを痛め、シーズン後半を棒に振ることになる。それは、監督がウォーリー与那嶺から中利夫へと代わり、近藤が退団したあとのことだった。

 試合での投球過多を否定し、投手の限界を見極めていた近藤だが、鈴木の故障をどう見ていたのかは定かではない。ただ、1989年に出版した自著『野球はダンディズム'88』(近藤貞雄著/朝日新聞社)でこう述べている。

<どううまく調整しても、リリーフ投手の疲労の蓄積は三、四年で限界に達する。そうなったらもう抑えは無理だ。先発に戻し、抑え役のプレッシャーから解放してやらなければいけない>

【休ませて勝つ合理的野球】

 1981年、近藤は監督として中日に復帰する。そして翌82年5月、鈴木が抑えに失敗した試合をきっかけに、先発に転向させている。

投手コーチの権藤博からの助言もあり、投球の幅を広げた鈴木は9勝を挙げ、同年のリーグ優勝に貢献。この起用法からもわかるように、近藤の考えでは抑えは先発復帰が前提であり、現在の抑えとは別物と言える。当時の分業制はあくまで先発本位だった。

「自分にとっては、抑えをやらせてもらったことで顔と名前を覚えてもらう大きなきっかけになったと思います。それでヒジを痛めて、抑えで失敗しても先発として生きる道をつくってくれた人です。今振り返ると、近藤さんが監督だった頃は楽しかったなと思いますね。『移動日は移動するのが仕事なんだ』と言って、練習なんかしませんから。『やりたい奴は勝手にやれ』っていう感じでね(笑)。

 もう心配になるぐらい、休みを大事にする。キャンプでも連休があって。でも、それで優勝するんですよ。ここが大事なところです。

近藤監督の野球は、とても合理的だった。その合理的な野球で結果を出しているのに、日本ではあまり評価されないんです。権藤さんもどちらかと言えば合理的で、横浜(現・DeNA)で日本一になったけど、監督としては評価されない」

 権藤もかつて、「私は近藤さんに似ています」と語っていた。その理由として挙げたのが、「よその人がやらないこと、人と違うこと、新しいことをやろうとする姿勢」だった。では、その「新しいもの」とは、突き詰めれば、合理的な野球につながるものだったのか。

「何か新しいことをやるのって、監督として相当な勇気がいると思うんですよ。20歳そこそこの若造を抑えに抜擢したのだって、勇気でしょう。もちろん、そこにはギャンブル性もあります。だから失敗することだってたくさんあった。近藤さんの座右の銘は『七転八起』ですからね。でも、不思議とそういうふうには見えなかった。近藤さんはいつもスマートなんですよ。試合が終わって風呂に入ったあとなんて、到底『七転八起』のおっさんには見えなかったですね(笑)」

【最期まで貫いた美学】

 現役引退後、解説者として球場を訪れた際、鈴木は記者席で近藤と顔を合わせた。当時はまだ禁煙ではなく、ふたりで喫煙していると、「なんだ、おまえタバコ吸うのか、やめろ!」と近藤に叱られた。「自分も吸ってんじゃないですか」と返すと、「馬鹿野郎、オレはいいんだ、ここまで生きたから」と。

 その近藤も2006年1月2日、東京都内の病院で呼吸不全のため逝去した。

「お葬式には出ましたけど、お見舞いは断られたんです。病院へ行く前に、『こんな姿は見せたくない』と言っていると聞かされてね。『近藤さんらしいなあ』と思いましたよ。風呂にサッと入ってサッと出てくる。オレンジ色のシャツを着て、髪を七三にきっちり分けて、スーッと帰っていく。ずっとそんなイメージなんです。とにかくダンディーな人でしたからね。だから、『見せたくない』というのも、いかにも近藤さんらしいなあと思いました。

 でも、ダンディーなんだけど、試合になると短気で『瞬間湯沸かし器』って言われていました。新しいものが好きで、勢いのある若い選手を使うのも好きだった。欲深いところもあるんだけど、懐が深いんです。それに監督をやれば、ふつうは誰だって『勝ちたい、勝ちたい』という気持ちが出るものです。でも、近藤さんにはそれがあまり感じられなかった。少なくとも、僕の目にはそう映っていましたね」

(文中敬称略)

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