森士(元浦和学院野球部監督)×二宮裕次(漫画家)~UNREAL TALK‼︎(後編)

 高校野球の監督に求められるものとは何か。選手を育て、競争を促し、ひとつのチームとしてまとめ上げる──そこには野球の技術だけではない「マネジメント」の力が必要になる。

浦和学院を率いて2013年春のセンバツで全国制覇を果たした森士氏が、「BUNGO−unreal−」の作者・二宮裕次氏と語り合った。「キャプテン」に夢中になった少年時代から、経営学や心理学を取り入れた独自のチームづくり、「最後の最後までが競争」としたメンバー選考、そして自身が一度も高校野球でベンチ入りできなかった知られざる選手時代まで。名将の指導哲学はいかにして形づくられたのか。

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【チームづくりに取り入れた経営学と心理学】

 僕が子どもの頃によく読んだ野球漫画は「キャプテン」(ちばあきお)です。初代キャプテンの谷口タカオが素朴で、野球がうまくなかったのに努力でサードのポジションをつかむ。ついには墨谷二中のキャプテンとして、強豪の青葉学院をやっつけて中学の全国大会で優勝する......。

二宮 森さんも監督として浦和学院を率いて22年目に念願の全国制覇を成し遂げました。あれは2013年のセンバツでしたね。今はロッテで活躍している小島和哉投手がエースでした。

 「巨人の星』」や「侍ジャイアンツ」、サッカーにも「キャプテン翼」が、バスケットボールには「SLAM DUNK」がありました。スポーツにおける漫画の影響は大きいんです。漫画を読んで、このスポーツをやってみたいなと思うきっかけになっている。二宮先生の「BUNGO−unreal−」でも、桜花高校は春季大会のベンチ入りメンバーを決めるための紅白戦を行なっていましたね。

新入生チームと上級生チームで......中学時代に名を挙げた黄金世代の1年生が、高校野球のトップレベルで鍛えられた上級生にどんな戦いを挑むのか。常識にとらわれず、チームを活性化させようという桜花高校の監督さんが取り組むマネジメントには大変、興味を持ちました。

二宮 中学時代、静央シニアで全国優勝を果たした石浜文吾や野田幸雄が入学した桜花高校の青木竜人監督は、元企業経営者で、データや環境を重視した合理的なチームづくりを目指しています。ただ、まだ描いていない部分ですが、昔ながらの根性や理屈を超えた強さも大切にする監督なので、うまく融合させたいです。

 監督にもビジネスにおけるマネジメントの感覚は必要だと考えています。目標を掲げて選手たちにモチベーションを与え、成果やプロセスをもとにわかりやすい評価をして、全員で納得しながらひとつのチームをつくっていく。選手というのはお互いの力を試合で実感するものですから、紅白戦で競わせてメンバーを決めるというマネジメントはすごくいいと思いました。僕もそういうタイプの監督だったんじゃないかと、自分ではそう思っているんですけど(笑)。

二宮 ハイ、たしかに森さんにはそういうイメージがありました。青木監督も高校野球の仕組みに関しては「おい、このシステムって変じゃねえか?」とか「これじゃ、やりづれえな」的なことを平気で言い放ってくれそうな、そんな雰囲気を感じさせる指導者です。

 僕が浦和学院の監督をしていた時に参考にしていたのは、経営学や心理学でした。もともと本を読むのが好きで、自分のチームづくりにビジネススキームを取り入れる発想は必要だと思っていたんですよ。

だから桜花の監督さんの感覚もよくわかります。選手たちが自分自身のポテンシャルを、野球の技術だけじゃなく、心の部分で高めていくためには、チーム内での競争を通してプレッシャーを感じたり、一体感を味わったりすることは欠かせません。

甲子園出場が決まっても競争は終わらない】

二宮 森さんがベンチ入りメンバーを決める時に大切にしていたのはどんなことだったんですか。

 それは『最後の最後までが競争』ということです。埼玉大会で勝って甲子園へ出場できるとなって、20人のメンバーがそのままかといえば、そうじゃありません。

二宮 3年前の夏から、甲子園のベンチ入りメンバーは18人から20人になりました。それまでは埼玉大会を戦った20人のメンバーから2人を減らさなければならなかったんですよね。

【特別対談】元浦和学院・森士監督が「BUNGO」に見た理想のチームづくり「紅白戦で競わせるマネジメントはすごくいい」
浦和学院の監督として甲子園通算28勝を挙げた森士氏 photo by Masashige Ogata
 僕が監督になった1991年は甲子園のベンチ入りメンバーは15人でした。それが94年に16人に、2003年に18人に増えました。90年代は埼玉大会のベンチ入りは甲子園と同じ人数だったんですが、2000年から選手の出場機会の増加とケガの防止を理由に埼玉大会のベンチ入りの人数が20人に増えたんです。

二宮 それはいいことだと思いますが、甲子園出場を勝ち取ったあとで、監督としては苦渋の選択を迫られてしまうというわけですね。

 だから僕は足切りをしないように心がけました。埼玉大会の19番、20番を外すのではなく、甲子園が決まったら、1番から選び直します。

埼玉大会での結果をもとにチームを再編成するんです。

二宮 それはシビアなマネジメントですね。ベンチ入りメンバーを選手間の投票で決めるチームもありますが、それはいかがですか。

 僕はその方法を選んだことはありません。責任は自分で取る。僕自身、高校時代は一度もベンチに入っていないんです。中学の時には全国大会で準決勝まで行ったんですが、高校に入ってすぐにケガをしてしまって......。

【故障と向き合った高校時代】

二宮 プロで活躍した山崎裕之さんや仁村徹さんが活躍した埼玉の強豪、上尾高のご出身です。森さんはピッチャーで、アンダースローだったそうですね。

 アンダースローというか、サイドスローでした。小学5年生の頃から大会で投げるようになったらヒジを痛めてしまったんです。その頃に曲がったヒジは今も伸びないままです。

二宮 ホントだ......曲がったままですね。

 中学に進んでからもヒジは痛かったんですが、同じ野球部に右のオーバースローがいて、ノーコンでしたが135キロは出ていました。僕は110キロが精一杯だったので、顧問の先生が「普通に上から投げていても限界があるから、横から放ってみたらどうだ」って言うんです。それで見様見真似で横から投げたら、それがハマって......。

二宮 横から投げたらヒジの痛みを感じなくなったんですか。

 そうなんです。当時はビデオがなかったので動画は残っていないんですが、その頃のフォームの写真を見ると、ヒジの使い方がうまいんですよね。上から投げていた時よりヒジをうまく返して投げていたんです。アンダースローといえば山田久志さんですが、どちらかといえば小林繁さんのサイドスローに近いフォームでしたね。

二宮 同じ上尾高校の先輩、仁村徹さんがアンダースローでしたから、森さんもそんなイメージかなと思っていました。

 実際、高校では僕のサイドスローがぎくしゃくしていて中途半端だと言われて、アンダースローで投げるように指導されました。ただ、アンダースローは僕には合っていなかったんでしょうね。結局、パンクしちゃいました。

二宮 ヒジは手術したんですか。

 はい......高校野球の2年4カ月のうち、ヒジのリハビリで1年は棒に振りました。入学した頃は180センチで58キロというヒョロヒョロの体型でしたし、腰の痛みにも悩まされました。

【人生のメンバー外になるな】

二宮 森さんは1964年生まれ、同学年には早実の荒木大輔さんや池田の畠山準さん、同じ埼玉には市立川口の斎藤雅樹さんがいました。荒木さんは1年生で夏の甲子園に出場して準優勝しましたし、畠山さんは3年の夏、甲子園で優勝しています。斎藤さんは甲子園には出られませんでしたがドラフト1位で巨人に入団......そういう同学年の選手たちをどんなふうに見ていたんですか。

 大輔の早実が出ていた3年春のセンバツには上尾も一緒に出ていたので、僕は控えの控えの控えぐらいのピッチャーでベンチにも入れませんでしたが、大輔にはライバル意識みたいな感覚はありました。中学時代に投げていた自分のボールを取り戻せば、オレもできるはずだ、という気持ちがあったんです。だから大学(東洋大)でも野球を続けましたし、当時の上尾の野本(喜一郎)監督から「アイツが一番練習した」と言ってもらえるくらい、頑張れたんじゃないかと思います。高校時代の僕はひたすら走りましたし、みんなが飲んでいた炭酸飲料も一度も口にしたことはありません。通学も片道20キロの道のりを自転車で往復しました。それを野本監督が見てくれていて、「アイツはいい指導者になれるよ」と言ってくれたことが、今の僕につながっていると感謝しています。

【特別対談】元浦和学院・森士監督が「BUNGO」に見た理想のチームづくり「紅白戦で競わせるマネジメントはすごくいい」
『週刊ヤングジャンプ』にて「BUNGO−unreal−」を連載中の二宮裕次先生 photo by Masashige Ogata
二宮 ベンチに入れなかった経験がその後の指導に生きているんですね。

 控えの選手がやる気を失っていたら「オレはやったよ、メンバー外だったけどメンバーの誰より練習したよ」と言えますからね。僕が監督としてチームをうまくまとめられたとしたら、それは僕が控えだったからだと思います。その時の経験から背番号をもらえない辛さがよくわかるんです。だからこそ、それを誰かのせいにさせたくない。このベンチ入りメンバーは、あの監督が責任を持って選んだんだから」と、選手たちに納得してもらわなければならないと、常に思っていました。

二宮 そんな森さんが引退する3年生にはどんな言葉を贈るんですか。

 僕はまず、選手たちが夢と希望を胸に入学してきた時、みんなの前で「ここの全員がメンバーには入れるわけじゃないのは人数を見たら物理的にもわかるよな。でも最後の1分1秒まであきらめずにやり切るという約束ができるなら部員になってくれ」と伝えます。引退する3年生はその約束を守ってくれたわけですから、最後までやり切ってくれた彼らには「人生のメンバー外になるな」という言葉を贈ります。高校野球ではメンバー外だった僕も、みんなのおかげで甲子園に連れてきてもらえたわけで、メンバー外の子たちにもいつか人生でメンバーとして活躍できる場が必ず来るから、と......。

【高校野球の先の人生にどう生かすか】

二宮 森さんが考えるチームづくりを現実のマネジメントに落とし込むとすると、たとえばキャプテンはどんなタイプなのか、ベンチに入れないメンバーに対してはどう働きかけるのか......そういう組織としてのチームを運営していくために必要なこと、大事なことはどんなふうに考えていましたか。

 そこは会社経営のような感覚でした。キャプテンを社長に見立てて、周りに幹部を置くんです。さらにチームのなかに会社の部署の如きグループをいくつもつくって、それぞれに主任を決めます。バッテリー主任とか内野主任、外野主任、あとは長距離バッター主任や中距離バッター主任、短距離バッター主任......それぞれのグループには副主任を置くんですが、主任は3年生に、副主任は2年生に、書記を1年生に任せたりしました。

二宮 短距離バッター主任もいるんですね(笑)。

 僕は監督を30年務めたんですが、その半分を過ぎたあたりでキャプテンひとりにチームを背負わせるのは難しい時代になってきたなと感じたんです。キャプテンが野球を頑張って、チームをまとめることも頑張るとなると、会社で言うなら現場と経営を両方こなすに等しいわけで、それだけの能力をひとりに求めるのは厳しいと思いました。だからキャプテンの周りを幹部で固めて、幹部ミーティングを頻繁に行ないます。

二宮 幹部は3年生だけでなく、1、2年生も加わるわけですね。

 チームづくりは1年で終わるわけではありません。ずっと続いていくものですし、リーダーがチーム全員を包み込むためには、学年の壁を超えなければなりません。そういうマネジメントがうまくいった年は甲子園に出られましたし、だから全員野球が大事なんです。

二宮 森さんが高校野球の監督としてもっとも大事に考えてきたことは何だったんでしょうか。

 高校生が高校野球を頑張れる期間って、2年4カ月しかありません。だからこそ大事なのは高校野球で学んだことを、のちに社会へ出ていかに生かすかということ。社会へ出ていく時、甲子園を目指して苦しい練習に耐えたとか、競争に勝ち抜いたとか、そういうことだけでなく、チームマネジメントを勉強して社会の仕組みを知っておくことも役に立つと思うんです。

二宮 青木監督も、野球では生活できないからとプレーをあきらめる子に、マネジメント能力を極めれば社会で生きていけることを伝えたいと考えているようです。

 野球は自分の道を極めるためのひとつのツールですからね。高校野球で学んだことをうまく人生に生かしてほしいと願っています。


森士(もり・おさむ)/1964年6月23日生まれ。埼玉県浦和市出身。高校時代、県立上尾高校では一度もベンチ入り叶わずも、名将・野本監督に見出され指導者の道へ進む。恩師亡きあと、浦和学院で指導者に。1991年から監督に就任、2021年夏に退任。甲子園には春夏通算22度出場、通算28勝21敗(2013年春優勝)。現在はNPO法人ファイヤーレッズメディカルスポーツクラブ理事長。

二宮裕次(にのみや・ゆうじ)/1981年10月26日生まれ。愛知県東浦町出身。2013年、週刊少年マガジンにて「LAST MAN」で連載デビュー。「BUNGO−ブンゴ−」は週刊ヤングジャンプにて2015年3号から2025年4&5合併号まで連載され、現在の高校生編となる「BUNGO−unreal−」を2025年45号から大好評連載中。待望のコミックス3巻は9月17日発売!

石田雄太●文 text by Yuta Ishida

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