「大阪弁というどうにもならないもののために、大阪の人間はユダヤ人と同じように、生まれながらにして、差別されているのである。その差別をはね返そうとするところから、大阪の人間には東京人にないド根性が備わっているといえる」と語った日本マクドナルド創業者の藤田田。
著書として『ユダヤの商法』を上梓するほど、ユダヤ人に入れ込んだ。同書よりその理由を解説。■「ジュウ!」と呼ばれる連中
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 私がユダヤ人に興味を抱くようになったのは、昭和24(1949)年に、当時、皇居前の第一生命ビルにあった、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters)にアルバイトの通訳として勤めるようになってからである。

 G・H・Qに勤めるようになって、私は奇妙な連中に気がついた。

 将校でもないくせに、日本の女を専属(オンリー)にし、車を乗りまわして、将校以上の贅沢な生活をしている兵隊の存在である。

「一兵卒のくせに、どうして彼だけが優雅な生活をしているのだろう」

 私は、贅沢な生活をしている兵隊たちを、それとなく観察しはじめた。

 不思議なことに、そんな連中は、同じ白人でありながら、軍の中でも軽蔑され、嫌われているのである。

「ジュウ!」

 彼らを蔭で呼ぶ時、兵隊たちは憎々しげに、吐き捨てるような調子でこういう。

「ジュウ」──〝Jew〟は、英語で「ユダヤ人」という単語である。

 面白いことに、大多数のGI(ジーアイ)たちは、ユダヤ人を軽蔑しながら、ユダヤ人にまったく頭が上がらないのだった。ユダヤ人のGIは、遊び好きの戦友たちに金を貸し、高利を取った上に、給料日には厳しく取り立てるのだった。GIたちが、ユダヤ人に頭が上がらない理由もそこにあった。

 軽蔑されながらも、ユダヤ人はケロリとしていた。くよくよするどころか、逆に、そういった軽蔑してくる輩(に金を貸し、金銭で実質的には征服しているのである。差別されながらも愚痴ひとつこぼさずに強く生きていくユダヤ人に、いつの間にか、私は親近感さえ抱くようになっていた。そして、ユダヤ人を敬遠するどころか、彼らに自分の方から近づいていったのである。

■外交官への夢と挫折

 私は大阪の生まれである。しかし、大阪商人の子ではない。父親は電気関係のエンジニアだった。だから、私自身、貿易をやって商人として身を立てる考えは毛頭(もう とう)なかった。

 小さい頃から、私は外交官になりたかった。近所に栗原さんという外交官の家があって、私はよく遊びに行ったものだが、栗原さんのような外交官になるというのが私の夢だった。

 ある時、私は自分の夢を栗原さんに話した。

「君は絶対に外交官にはなれないよ」

 即座に、冷たい返事が帰って来た。

「なんでやね」

 私は、ムッとなった。

「その大阪弁がいけないんだ。外交官は大阪弁をしゃべる奴はダメだという不文律がある。東京弁じゃなきゃだめなんだ」

 栗原さんは哀れむような眼でこう言った。

 私の外交官への夢は一瞬にして消え去った。

 大阪弁というどうにもならないもののために、大阪の人間はユダヤ人と同じように、生まれながらにして、差別されているのである。その差別をはね返そうとするところから、大阪の人間には東京人にないド根性が備わっているといえる。

 差別は、相手が劣等な場合の優越感からくるものと、相手が優秀な場合の恐怖感からくるものとの二つの種類がある。

 GIたちが「あいつはジュウだ」と指差して差別するのは、ユダヤ人に有り金をすっかり巻き上げられるのではないかという恐怖心から出た差別のためである。同様に、東京の人間が大阪の人間を差別してかかるのは、東京人が大阪人に商売ではかなわないからである。デパートの『大丸』にしても、銀行の「三和銀行(現・三菱UFJ銀行)」や「住友銀行(現・三井住友銀行)」にしても、映画にしても、全部関西から東京へ攻めのぼったものばかりだ。東京から下って来て成功した商売は皆無といっていい。

 私は、これは歴史の古さと大いに関係があると思う。歴史が古いということは、惚れた、だまされた、ケンカした、結婚した──といったことが、歴史の浅い国よりも数多く繰り返されたということである。その繰り返しから、さまざまなケースで起こる問題に対してとるべき最善の手が編み出されている。だから、歴史の浅い国は、歴史の古い国には、逆立ちしてもかなうわけがないのである。

 歴史の浅いアメリカ人が、5000年の歴史を持つユダヤ人に思うがままにあやつられるのも当然だし、仁徳(にん とく)天皇以来2000年の歴史がある大阪人に、400年の植民地の歴史しか持たない東京人が、かなうわけはない。

 そこで、東京の人間は腹立ちまぎれに、大阪弁にインネンをつけて、外交官にはさせない、などと理不尽なことをいう。大阪弁で英語をしゃべるわけではないのだが、そこのところは東京の人間にどう説明したって分からない。

 ともかくも、そういうわけで、私は外交官になるのを断念しなければならなかった。

■ユダヤ商法見習い時代

 G・H・Qの通訳になった当時、私は東京大学法学部の学生だった。父はすでになく、母ひとりを大阪へ残していたが、私は食うための生活費と学資をアルバイトで稼がなければならなかった。敗戦によって、それまでの、哲学、道徳、法律などの一切の価値体系は混乱し、破壊され、生きていくための精神的な支柱は何もなかった。

 その時、私に残っていたのは、大阪人独特の「負けてたまるか」という根性だけだった。

戦争には負けたかもしれないが、社会の混乱や空腹には負けたくなかった。占領軍にすら、負けたくなかった。

「どうせアルバイトをやるなら、敵地に乗り込んでやれ」

 通訳を始めた時は、そんな気持だった。外交官を志したことがあるだけに、八方破れの乱暴な英語だったが、なんとか英語をあやつれる自信はあった。

 しかも、ほかの学生アルバイトにくらべ、通訳の報酬は飛び抜けてよかった。1カ月、3、400円のアルバイトが常識だった頃、通訳は1カ月で1万円になった。報酬は少ないよりも多い方がありがたいことはいうまでもない。

 敗戦国の人間、黄色い人種──そんな差別をいやというほど味わいながら、私は通訳の仕事を始めた。

 生まれながらに大阪弁という言葉のために差別されなければならなかった大阪の人間である私が、「ユダヤ人」だというだけで身に覚えのない差別をされながらも、金を持ってる奴が勝ちさ、といわんばかりに、黙々と同僚のGIを金で征服していく、生命力の強いユダヤ人にひかれていった裏には、こうしたいくつもの要因が、複雑にからみ合っていたのである。

 ユダヤ商人の持つたくましさは、敗戦ですべての精神的なよりどころを叩きつぶされていた私の目に、これから生き抜いていくための方向を暗示しているようだった。

『ユダヤの商法』より構成〉

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