90年代の料理対決番組といえば、『料理の鉄人』(フジテレビ系・1993~99年)の知名度が非常に高い。『料理の鉄人』と同時期に料理対決のコーナーを開始した『浅ヤン』について、「中華大戦争」を知らない方は「パクり?」と思われるかもしれない。
だが『料理の鉄人』と「中華大戦争」は似て非なるものだ。というか、完全に別物である。真剣な料理対決を売りにしていた『料理の鉄人』に対して、「中華大戦争」の料理対決シーンはあくまでおまけで、メインは料理人たちが謎のパフォーマンス合戦を繰り返すおふざけコーナーなのだ。
なぜ中華料理人たちはドタバタ喜劇役者になっていったのか――。
周富徳登場、中華大戦争勃発!
最初に『浅ヤン』に登場した料理人は周富徳だった。周はまだテレビで有名になる以前で、街の中華料理屋に素人と称して弟子入りし実は有名料理人だったといったドッキリコーナーに出演していた。
しかしその飄々とした雰囲気やコメントが面白かったため、周は次第に人気タレントとなっていく。そこで企画されたのが「第一次中華大戦争」だった。周の対戦相手には、周の同級生でもあり数々の中華料理店で総料理長をつとめた譚彦彬が選ばれた。
周は、カメラを向けるたびに10秒以上もこちらを見つめ続ける必殺技「周先生のカメラ目線」などを駆使し、勇敢に戦い抜く。しかし勝利の女神は譚に微笑んだ。
究極の中華料理「芸」人・金萬福、見参!
だが、ここでひとつの問題が発生する。譚は料理の腕前は一流だが、性格がきわめて真面目でまったくボケないのだ。これでは「中華大戦争」が本物の料理対決番組になってしまう。
そこで、「第二次中華大戦争」から急きょ招へいされたのが金萬福である。金は、香港と日本の名門ホテルや中華料理店で料理長をつとめてきた一流料理人だ。にもかかわらず、金はコメディアン顔負けの体当たりパフォーマンスを繰り広げる。
金が「料理修行」として行ったパフォーマンスには次のようなものがある。
・木からロープで逆さづりになってキャベツを千切りする。
・金魚の入った水槽に顔をつっ込み口で金魚を捕まえる。
・相撲部屋に入門しぶつかり稽古。(まわし一丁に調理帽子姿)
・20メートルの中華麺を作り、クレーンにつりさげられながら鍋に入れてゆでる。そして最後には鍋に落ちる。(海パン一丁に調理帽子姿)
金は、ロックミュージシャンのレニー・クラヴィッツにも似たその濃ゆい顔で謎の「料理修行」を連発し、視聴者の心をわしづかみにした。
その間、譚が行ったのは厨房での調理練習、周が行ったのは店を何件かめぐっての料理研究だけだった。もはや「第二次中華戦争」は金萬福オンステージといえた。
――しかし優勝したのは周だった。
そのため、金は「料理もできる芸人」と見なされ、一時期はホテルやレストランでは雇ってもらえないこともあったという。一流料理人である金が、番組のためにアホを演じた結果、本業の料理の世界で干されてしまったとはちょっと笑えない話である……。
中華料理人たちのその後
『浅ヤン』の中華料理人シリーズは、1995年にオーディションを中心とした『ASAYAN』に番組がリニューアルされるまで続いていった。その間、周の弟である周富安・周富輝なども巻き込み、盛り上がりを見せた。
金萬福は、次第に料理の実力も知られていき、本物の料理番組に先生として呼ばれるようになっていく。現在は宇都宮東武ホテルグランデ「竹園」総料理長として腕を振るっている。
譚彦彬は現在、中華料理店「赤坂離宮」オーナーシェフをつとめるかたわら、テレビ出演や講演を続けている。
周富徳は、2014年に横浜市内の病院で亡くなった。料理人の宿命というべきか、糖尿病を患っていた。
周は、『浅ヤン』ではカメラ目線を繰り出すユーモラスなシーンばかりが取り上げられた。だが『料理の鉄人』で無敗を誇った道場六三郎に初めて土をつけたのも周である。
――『浅ヤン』の「中華大戦争」は、本物の超一流料理人を集め、料理よりもお笑いをメインディッシュにするという贅沢なテレビ企画だった。
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