連続テレビ小説「半分、青い。」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第3週「恋したい!」第16回4月19日(木)放送より。 
脚本:北川悦吏子 演出:田中健二

16話はこんな話


梟町には土地開発の波が、高校生たちには恋の波が押し寄せる。

バブルの闇


おもむろにブラジルの香りが漂う。
地方都市開発の魔の手は徐々にのび、東京から来たリゾート会社の人たち(斎藤歩、鈴木伸之、佐藤江梨子)が、ふくろう商店街の人々を集めて【ぎふサンバランド】のプレゼンに余念がない。


ブラジルの食べ物、飲み物、本場のサンバダンサーズのパフォーマンス・・・。
最初は、物珍しい食べ物飲み物を楽しんでいた商店街の人々だったが、ブッチャーの父で地元の不動産屋を営む西園寺満(六角精児)がプレゼン側にいて、「もう一歩上にいけるチャンスでしょう」と煽るので、はたと我に返り、「なんやろ。この押されれば押されるほど引く感じ」(和子・原田知世)と不信感をいだきはじめた。

経済考証のスタッフも入れて、バブル期の地方都市開発状況をかみくだいて描く「半分、青い。」。
朝ドラや大河ドラマは地域活性ドラマであるにもかかわらず、地域活性に潜む欺瞞を描くところがなんともブラックな気もしないでない。ドラマがはじまる前と放送中は、舞台となった地域は盛り上がるが、放送が終わるとぱたりと客足がとだえてしまうことが問題視されている。
以前、「真田丸」の吉川邦夫プロデューサーに話を聞いたとき、レガシー問題は考えていく必要があるという話になった。以下、引用してみる。

“「レガシー問題は考えていく必要があると思います。『真田丸』では全国展開して、上田をはじめ関係する地元も大いににぎわいました。大河ドラマにしても朝ドラにしても、例年、舞台になる地域には、史跡を訪ねたり、イベントが行なわれて、凄まじい数の人が来るんです。ただ、放送が終わったあとの落差が激しいので、終わったあとも人が呼べる方法論を考える必要があると感じています」
ーそういう意味では3年経っても、朝ドラ『あまちゃん』の舞台、久慈にはいまだに人が訪れていますね。

「『炎立つ』(94年)では、江刺(現・奥州市)にオープンセットを作ったのですが、平安鎌倉室町期の建物を本建築で建てたもので、おかげでいまも機能していて、時代劇の撮影に使っているんです。『真田丸』でも使いましたし、『おんな城主直虎』でも使っています。たいていのオープンセットは、ハリボテですから撮影が終わると壊してしまうので、稀有なことなんです。歳月が経つごとに味わいを増して、『炎立つ』の頃よりいまのほうがいいんですよ(笑)。地域活性化に貢献するためにも、その地域に長いこと人が訪れるような種を、毎年の大河や朝ドラが蒔いていけたらと思います」“
(Yahoo!ニュース個人 「ダメ田十勇士、佐久間象山……最終回も遊び心の連続だった『真田丸』を経て、大河ドラマの今後の課題」より)

結果的には「ウーちゃんがいたら どこだって ふるさと」(晴・松雪泰子)とまとめる。
この時代が、いわゆる朝ドラに向いてないと思うのは、高度成長期と比べて希望がないからだ。お金に任せた虚業はあっという間に泡と消えることを、いま生きている人はみんな知っている。
風俗、文化が懐かしいと思っても(16話では「ねるとん紅鯨団」〈87〜94年 フジテレビ〉的な番組が出てきた。石橋貴明的な人の後ろ姿の声は原口あきまさ)、結局、なんだったんだ、あの時代? という虚しい気持ちに行き着く。
もっとも、希望があって、みんな頑張っていて良かったとされる高度成長期も、「ALWAYS 3丁目の夕日」のような作品があるから素敵に見えるだけで、実際はそれほどいい時代でもなかったと「ひよっこ」の岡田惠和が語っていたくらいだから、バブル期の「ALWAYS 三丁目の夕日」を描くことが「半分、青い。」の課題なのかもしれない。
「半分、青い。」16話「なんやろ、この押されれば押されるほど引く感じ」
『NOW and THEN 北川悦吏子』―北川悦吏子自身による全作品解説 54の質問 角川書店
89年のデビュー作から、この本が出版された97年の「最後の恋」まで解説されている。

運命を静かに待っている。


「岐阜県人、保守的だよ 貯金額多いよ、借金しないよ」という律(佐藤健)。

「恥ずかしがり屋さんなんだから」とも。とすれば、恥ずかしがり屋ぽい律は典型的な岐阜の人なのだろう。
喘息でインドアだった律が治ったからといってバスケやっているのがヘンという見方もあるようだが、
律は、鈴愛(永野芽郁)の英雄(マグマ大使)であり、彼女を守ろうと思っているのだから、密かに、強くなりたいと考えていて、でも照れ屋だからひっそりやっているだけなのでは。
だがしかし、そんな律は、ほかの女の子に心を射抜かれてしまった。
「運命を静かに待っている。なんつって」と律。「なんつって」も恥ずかしがり屋の現れだろう。

「みんな恋をしている!」


バブルの時代は、お金と恋と笑いの時代。テレビドラマでもラブストーリーは人気で、「君の瞳に恋してる!」(主演:中山美穂 脚本:伴一彦)や「愛しあってるかい!」(主演:陣内孝則 脚本:野島伸司)や「季節はずれの海岸物語 ‘89夏」(主演:片岡鶴太郎 脚本:遠藤察男)や「同・級・生」(主演:安田成美 脚本:坂元裕二)などが放送されている。
ちなみに、朝ドラは、お母さんが離婚して、若い男の人に心揺らす、朝ドラにしては異色の現代劇「青春家族」(作:井沢満)だった。

恋したのは、律だけでなく、菜生(奈緒)もラブレターをもらって、その相手とつきあいはじめた。
弟の草太(上村海成)も好きな子がいるらしく、取り残された感じがする鈴愛だったが、風呂の中で漫画雑誌を読んでふやかしたり(こういうディテール描写は良い)、祖父・仙太郎(中村雅俊)が歌う「故郷」で、こどもの頃のようにうたた寝したりするこどもぽいところもまだまだあって・・・。

「早めに夏を迎えに行く」
風鈴を早く提げて、こう言う鈴愛。

乱暴で、失礼なところがある鈴愛だが、詩的なセンスももっている。こういうところは、“青さ”があっていい。

それが、ある朝、「出会ってしまった系の?」(ナレーション・風吹ジュン)の出会いが・・・。
カセットテープを落とした少年を追いかけると、振り返った少年は、「べっぴんさん」(16年)で新人社員だった森優作(クレジットでは小林役)。
鈴愛は「び・・・微妙・・・」とつぶやく。
森優作さんに失礼だろ!
森優作は、「べっぴんさん」でも、気の弱そうな素朴な男の子役だったが、以前、何かの映画の舞台挨拶に出席したのを見たら、ふつうの今時の男の子で、求められる役を的確に演じられる巧者なんだなと思ったものだ。

ところで、この時代、北川悦吏子は何をしていたかというと、89年は、彼女のテレビドラマデビューの年だった。
テレビ東京の「赤い殺意の館」というサスペンス。これは佐治乾との共作で、そのあと「偽りのダイアモンド」で初めてひとりで全部書いたという(参考文献:「NOW and THEN 北川悦吏子」(角川書店))。

押されれば押されるほど引く感じ


ナレーションの風吹ジュンが「付文」と言って「いま年がバレましたね」「死んじゃっといて年もなにもないものですけどね」とか言っているのも、朝ドラ名物化してきた感じ。はじめて誰かがやったときは、画期的!と騒がれたことが、こうして淡々と流し見しする箇所になっていくのだなあと思う。まさに虚業。

「ねるとん」などのなつかしアイテム、ほかの番組での朝ドラ押し受けの数々・・・
「なんやろ。この押されれば押されるほど引く感じ」という和子の台詞は、視聴者の気持ちを代弁してくれているように思う。作り手はすべてわかってやっているのだろう。なぜなら、以前、NHKでやっていたテレビについて考える番組で、例えば、視聴者側から自然発生した「バルス」祭りは盛り上がったが、送り手側からそれをやるとたちまち引く、という見解を、日テレのプロデューサーが述べていたから。
作り手が、ほんとうに描きたいこと、愛しく思うものを全力で描き、それが視聴者と偶然合致するとき、何年に一回の皆既日食とか月食とかみたいに、ドラマは記憶に強く残るのだと思う。
今週は、鈴愛のこどもと大人の境界の時代とともに、ドラマも岐阜と東京編のブリッジという印象だ。ここでちょっと休んで、また全力疾走がはじまるだろう。
何年かに一回の宇宙的な大イベントみたいな朝ドラを、北川悦吏子先生は描いてくれると信じてる。
「木俣冬)
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