スイカだったか芋だったかは忘れたが、何かの蔓が捨てられているのを見つけたぼくは、それをずるずると引きずり出し、農道を横断させたらおもしろいのではないかと思いついた。それの何がおもしろいのか、いまとなってはわからないが、子供の考えることに意味はない。
1本、2本と蔓を渡し、次は3本めを……と手にかけたところで、誰かに「こらっ」と怒られた。振り返ると、水路で釣りをしていたおじさんがこちらを見ていた。
おじさんは、「バスが引っかかったら事故になるぞ」と言って去っていった。頭頂部がハゲていて、口のとがったそのおじさんは、背中に甲羅を背負っていた。
ぼくはいまでも、あの人は河童だったと思っている。
失われかけた思い出の一片
おくやまゆかの新刊『むかしこっぷり』は、著者が身の回りの人々から聞きとった、ちょっと奇妙な体験をマンガにしたものだ。

浜辺で砂遊びをする少女に無言で10円玉をくれる学生さん。縁の下で1匹ずつ消えていく子犬。猫に襲われて死んだ鶏の目をじーっと見つめる仲間の鶏。
どのエピソードもつかみどころがなく、それでいて心に強い印象を残す。初めて読む話であるはずなのに、なぜか自分も似たような体験をした気持ちにさせる。誰もが心の隅っこに眠らせている、おかしな記憶の断片。
前作『たましいいっぱい』で、第19回文化庁メディア芸術祭[マンガ部門]新人賞を受賞したおくやまだが、彼女の持ち味でもある浮遊感と開放感をともなった表現は、個人の消えかけた思い出を形にするという本作のテーマと合体することで、いっそうの深みを増している。
娯楽のなかった時代は、夕飯を終えて眠りにつくまでの時間、囲炉裏の周りで子供たちは老人の言葉に耳を傾けた。山で見た不思議な生き物の話、川で遭遇した奇妙な体験。
家庭の中にラジオやテレビといった娯楽装置が入るようになると、子供たちはもう老人の話など聞かなくなる。人々の暮らしから“物語”が消えていくのだ。そのかわり、あらたな“物語”はテレビや小説、マンガ、映画などといった新しい娯楽の中に生まれるようになった。
たとえ現実にあったことでも、誰にも語り継がれなければ消え去ってゆく。とうてい事実とは思えないことでも、誰かが語り継いでいけば永遠に記憶される。
(とみさわ昭仁)