コレクション行為を意味する「蒐集(しゅうしゅう」という熟語も、頭の「蒐」の字にはやはり集めるという意味がある。しかも字の中に“鬼”が棲んでいる。つまり鬼のように集めまくるのだ。なんと業の深い言葉だろうか。
南陀楼綾繁の新刊『蒐める人 情熱と執着のゆくえ』は、書物に関する同人雑誌『sumus(スムース)』に掲載された様々な“蒐める人”たちへのインタビューをまとめたものだ。

スクラップブックの完全復刻という難事業
南陀楼氏自身も“蒐める人”のひとりだ。本業である編集者のかたわら、谷中・根津・千駄木を中心に開催されている「不忍ブックストリート」の代表を務めたり、各地の古本市の開催に関わるなどしている。そんな著者だからこそ、インタビューでは蒐集家の気持ちをうまくすくいあげていく。
収録されているのは7組(8人)に加えて、巻末では都築響一氏と著者の対談も掲載されている。このなかで、ぼくがもっともシビレたのが、東京創元社の戸川安宣氏と文献資料の保存修復業を営む花谷敦子氏へのインタビューだ。このふたりは、江戸川乱歩の『貼雑年譜(はりまぜねんぷ)』の完全復刻事業に携わったコンビである。
ここで「『貼雑年譜』ってナンデスカ?」という人のために、簡単に解説しよう。
江戸川乱歩という人は、探偵小説界の巨星として知られているのは当然のことながら、実は強烈な“自分マニア”でもあった。自分に関するものは、ナンでもカンでも保存しておく。とくに、〈第二次大戦の最中、執筆の注文が途絶えたのを機にそれまでスクラップしていた新聞記事や手紙などを整理し、それに自筆で解説を施し、あるいは新たな図版を付け、丁寧に製本までして拵え上げた偉大な自分史の記録〉が、『貼雑年譜』だったというわけだ。
この『貼雑年譜』は、1989年にも講談社から復刻されたことがある。何を隠そうぼくも“自分マニア”なので、広告を見た瞬間に予約を入れた。
ところが、そのときの復刻版は原価を抑えるために全ページカラーでの再現を断念し、貼り込みの重なりなども再現されておらず、おまけに原本が二分冊のところを一冊にまとめてしまっている。それでも定価は3,000円もした。
ただ、原本などを見たことのないぼくは「まあ、こんなものか」と満足したが、そうはいかなかったのが戸川安宣氏だ。
〈『貼雑年譜』をじっさいに見て中身を知っているだけに、ちょっとやそっとでは復刻できないぞと思っていました。乱歩の手書きの文字はかなり読みやすいので、その部分を活字に起こすよりはこのまま復刻する方がいい。ただ、ネックになるのは、原本に貼り込んである新聞広告や葉書、パンフレットなどです。なかには、二つの貼り込みが重なっていて、上のものをめくらないと下が読めなくなっている。
「完全復刻」を謳うためには、これをクリアにしなければならない。そこで登場するのが、紙資料の修復を専門にやっている花谷敦子氏だ。
〈原本を剥がせるかどうかを判断するために、「スポットテスト」を行いました。二ミリ四方の小さな部分を使って、表面の文字や紙を傷めないでも剥がせるか、どういう材料を使えば剥がせるかをチェックして、大丈夫な部分とまったくダメな部分に分けました。この原本のように戦時中につくられたスクラップブックでは、糊もセロファン・テープもいろんな銘柄が使われているんです。たぶん乱歩さんも手元にあるものを意識せずに使ったと思います。だから、見るからに違う種類の糊がいくつもあるんです。貼られてからどれくらい年月が経っているかによって、原本を傷めなければ剥がせないものが必ずでてくるのです。〉
シビレるでしょう? 戦慄するでしょう? 彼らがこの難事業をクリアして、どれほどのクオリティの復刻版を作り上げたか。実際に確認したかったのだけど、さすがにこのバージョンは買えなかった。だって30万円もするんだも〜ん。
「蒐める」を仕事にした人たち
興奮して『貼雑年譜』の話ばかりしてしまったが、もちろん他の蒐める人からも、いい話が続々と出てくる。
串間努氏は、『日曜研究家』『まぼろし小学校』『昭和レトロ商品博物館』など、多数の著書を持つ昭和B級文化の研究家だ。小学生の頃から図書館通いをしていたそうが、そこで借りるのは小説や童話──つまり架空のお話ではなく、実際にあった話が書かれたものばかりだったという。
〈ぼくが借りるのは図書館の分類(日本十進分類表)でいうと「総記」の中の「雑著」、番号が049に分類されている本。そのコーナーに行って、うつみみどりやあのねのねなどのいまでいうタレント本とか、『欽ちゃんのどーんと行ってみよう』などのテレビやラジオの本を借りたり、それと毎日新聞社が出していた「雑学シリーズ」をよく読みました。続、続々、新、新々、新新新なんて何冊もつづいていたヤツ。〉
もう、いきなり図書館の分類コードの話とかするあたり、「ああこの人もこっちの人か」と嬉しくなってしまう。串間氏が「ヘンな本というのも読んだよ」と言うと、すかさず「野末陳平の?」と問い返す南陀楼氏もいい。古本好きだけにわかる呼吸。
このあとコレクションの話になって、串間氏がいちばん最初に集めたのが「仮面ライダースナック」の袋だったと語るくだりで、ぼくは大きく頷いた。カードではないのだ。カードは熱心に集めている人がたくさんいるから数では敵わない。
“蒐める人”の話をしているといくらでも書いてしまってキリがないので、最後にひとり。巻末に収録された都築響一氏と著者の対談を少しだけ紹介する。
都築氏といえば現代美術、建築、写真、デザイン、アウトサイダーアートなどの分野で数多くの書籍を編集し、自身でも執筆活動を続けてきた人物だ。その活動領域は広く、その独自の視点にいつも驚かされる。
以前は雑誌などの紙媒体で仕事をしてきた都築氏だが、ネットで記事を書くようになって、考え方が変わったと言う。雑誌だとページ数の制限があるので取材したものをすべて掲載できるわけではない。写真は枚数を絞り込まなければならないし、文字数にも限界がある。ところが、ネットにはそんな制限はないので、いくらでも写真が掲載できるし、文章も4万字書いたっていい。
〈僕の場合は作品をつくっているわけではなく報道だと思っているので、カッコよく起承転結があってまとめるよりも、聞いたことをなるべく全部伝えてあげたい。たとえば、写真だって、そこに行けるチャンスがあったんだから、本人のポートレートだけじゃなくて、部屋の隅っことか何でも出したい。
意地悪な見方をすれば、それは編集の放棄なのでは? とも受け取れるわけだが、都築氏は「そういうのにはもう興味がない」と言い切る。
取材というのはある意味で蒐集であり、それを取捨選択(編集)して読者に提示する。しかし、編集を加えた時点でオリジナルは少なからず改変されたことになる。それよりも、いまの時代は集めてきた剥き出しの情報を、そのまま提示してやること。それが“蒐める人”の仕事なのだと、ぼくは理解した。
(とみさわ昭仁)