NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」。先週5月5日放送の第17話は、このドラマを見続けてきてよかったとしみじみ思った回だった。


前回、第16話では、主人公・金栗四三(中村勘九郎)が1916年のベルリンオリンピックをめざし、すべてを投げ打ってトレーニングを重ね、世界記録を立て続けに更新するほどにまで力をつけるが、そこでオリンピック中止という事態に直面した。まさに絶頂からのどん底である。続く第17話では、そのどん底から四三が立ち直っていくさまが描かれた。この2話分は、四三の人生のなかでもおそらくもっとも劇的な局面だったはずだ。ドラマでは、それを四三と妻・スヤ(綾瀬はるか)、また嘉納治五郎(役所広司)との関係を通して見事に描き出していた。
「いだてん」オリンピック中止どん底で綾瀬はるかに冷水を浴びせかけられて覚醒、東海道駅伝再起17話
イラスト/まつもとりえこ

上京したスヤに周囲は「誰!?」


スヤは前回、オリンピックを目指す四三を励まそうと、わざわざ上京したにもかかわらず、追い返されてしまっていた。だが、そのオリンピックが中止になったと知り、四三を慮ってたまらず再び東京に向かう。四三は、嘉納からオリンピック中止を伝えられ、案の定、すっかり落胆して下宿に引きこもっていた。

四三と親しい俥屋の清さん(峯田和伸)や東京高等師範学校の後輩である野口源三郎(永山絢斗)たちは、彼をどうにかして外に連れ出そうと、下宿である足袋の播磨屋にやって来ていた。柔道日本一の徳三宝(阿見300)が、あっさり部屋のふすまを突き倒し、清さんが2階の部屋から四三を引きずり降ろして一緒に走ろうと誘うも、彼は「俺はもう走れんです」と拒絶する。家族とはベルリンまでの4年だけとの約束でやってきたのだから、これ以上迷惑はかけられないというのだ。

そこへ上京したスヤが現れ、四三を井戸端に連れていくと、いきなり冷や水を浴びせかけた。みなは驚くが、スヤは毅然として「こん人、水ばぶっかけるとおとなしゅうなりますけん」と言ってのける。
そもそも播磨屋の家族以外に、東京の四三の友人知人は誰もスヤの存在を知らなかった。野口や清さんたちはこのあと、あの女性は誰かと噂し合うが、まさか“マラソン馬鹿”の四三が結婚していたとは思いもよらない。

四三と二人きりになったスヤは、しきりに熊本へ帰ろうと言うが、四三は聞き入れない。スヤも話しているうち、夫がまだ夢をあきらめきれていないことに気づく。気づくきっかけとなったのは、夫婦のふとしたやりとりからだった。このときスヤは、四三がオリンピックで優勝したものと仮定して祝福し、四三もそれに乗って笑みを浮かべた。しかし彼女は、夫が本心では喜んでいないと思い、もっと口角を上げて「終わった〜終わった〜」と笑うよう言って聞かせる。これに対し、四三が「そら終わっとらんけん(笑えない)」と返す。ここから四三の気持ちを察したスヤは、「そぎゃんたい。始まってもないもんが、終わるわけがなか」と、彼のすべてを受け止めたのだった。四三もスヤのその言葉(北野武監督の「キッズリターン」のラストシーンでの「俺たち終わっちゃったのかな」「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねえよ」という主人公たちのセリフを思い起こさせる)を聞いて、彼女の膝に泣き崩れる。

妻の膝でひとしきり泣いたのだろう、四三はついに再び走り出す。
それを見て、播磨屋の夫婦も大いに喜んだ。

四三が次なる目標を見出したのも、スヤとの何気ない会話からだった。その夜、久々に(おそらく結婚初夜以来)床を並べ、そろそろ将来について考えねばならないと語る二人。しかしどうも話が噛み合わない。スヤが「いまはよかばってん、子供の生まれでもしたら……」と言いかけたのに対し、四三は自分が走れなくなったときのことを想定し、後身を育てる必要に思いいたる。四三の頭は、あくまで家庭よりマラソンにあった(このあたりの話は、きょう放送の第18話にもつながってきそうだ)。このとき、自分一人で才能を見つけて満遍なく指導するのは至難の業だと言う四三に、スヤが思わず「金栗四三が50人いたらよかばってんね」と漏らす。これを聞いて、四三の頭のなかでは、50人に増殖した自分の姿が駆け回る(そのイメージはまるでYMOのアルバム『増殖』のジャケット写真のようだった)。

もし自分が50人いれば、50倍の距離を走れるじゃないか! そうひらめいた四三は、翌日、さっそく嘉納のもとを訪ねると、これから教職の採用口を相談するとともに、このアイデアを伝えた。嘉納も、マラソンの普及にもなるとすぐに乗り気になる。何より、四三がオリンピックに続く新たな目標を見出したことを喜んだ。

協力者として「ヤジ将軍」が再登場


1916(大正5)年、神奈川師範の教員となった四三は、教壇に立ちながら、寸暇を惜しんで後輩たちと走り込みを続け、指導法や足袋の改造を模索する(神奈川師範は鎌倉にあったが、東京から遠くて何かと不便だということで、1年後には嘉納に呼び戻され、独逸学協会中学に転任している)。東京から遠くて何かと不便だという嘉納に呼び戻され、独逸学協会中学に転任している)。
そしてついに東京〜大阪を走り継ぐという夢に着手する。協力者も次々と現れた。嘉納とミルクホールで打ち合わせをしていたところ、こっそり聞き耳を立てていた読売新聞の記者の大村(竹森千人)と社会部長の土岐(山中聡)が、ぜひ協力したいと名乗りを挙げる。大村たちが相談役に合わせると言うのでついていくと、そこは浅草十二階のあの天狗倶楽部のサロンで、「天狗のヤジ将軍」こと吉岡信敬(満島真之介)がいた。天狗倶楽部解散後、新聞社に入っていたらしい。

十二階の窓からは富士山がよく見えた。そこから土岐が「どうせなら東海道五十三次をたどったらどうかな」と思いつく。嘉納もこの計画に触発され、眼下に広がる東京の街を見渡しながら、ここに立派な競技場を建設すると言い出した。ちょうど造営中だった明治神宮の広い敷地の一角に競技場をつくり、オリンピックを開こうというのだ。

こうして、東海道を23区に分け、京都から東京までの516キロを、関東・中部・関西の3チーム各23人の選手で走り継ぐという計画が立てられ、嘉納が会長を務める大日本体育協会の理事会で諮られた。理事の岸清一(岩松了)は「そんなに走って何になるんだね」と計画を疑問視するが、これに対し、吉岡が、マラソン人口の拡大につながると説得。名称についても、オリンピックとつけるのにこだわる嘉納に対し、永井道明(杉本哲太)がことごとく「反対!」と退けたものの、副会長の武田千代三郎(永島敏行)が「駅伝はどうだろう」と提案すると風向きが変わる。
「52の宿場、つまり駅がある。その駅を伝って走る大会だから駅伝」ということで、名称は「東海道五十三次駅伝競走」と決まった。ちなみに駅伝とはもともと、古代の律令期、中央政府と地方との連絡・通信のため、各街道に一定の区間ごとに馬を備えた宿舎(駅)を置いた制度のことである。

体協での名称決定後、開催に向けて着々と準備が進められる。四三は家事をするスヤが肩からたすきをかけているのを見て、これをバトン代わりに使うことを思いつく。20キロもバトンを持って走るのは大変だから、というのがその理由だ。播磨屋の主人・黒坂辛作には、たすきとあわせて、さらに足袋の改造も発注するが、そこで四三が示した改造案は、ひもがつくなどもはや靴だった。当然、辛作は渋るが、それをスヤは「あなたがつくれば、靴も足袋です」と強引に引き受けさせてしまう。

駅伝終わって子ができる


そして1917(大正6)年4月27日、ついに日本初の駅伝レースの号砲が鳴る。「いだてん」ではこれまで、羽田のオリンピック予選会や、ストックホルムオリンピックのマラソンと、各レースを実際に選手が走る映像で表現してきた。これに対し今回は、四三が選手として最後の区間を走る場面以外は、地図やアニメ、また少年時代に浜松で観戦したという田畑政治(阿部サダヲ)の回想などを通してレースの模様が描かれた。この間、関東軍の一選手が見附(静岡県)の第13区でケガのため棄権したと伝えられると、四三は即座に、次の14区の選手を戻して代走させるよう指示する。四三は指導者としても見事にその役割を果たしていた。


参加した選手たちは、たすきを渡したあとも後続のランナーに伴走し、その集団は東京に近づくにつれてどんどん増えていったという。四三は川崎でたすきを受け取り、東京市内に入ったころには、大勢の観客が沿道に詰めかけていた。群集にもみくちゃになりながら、彼は一路、ゴールを目指す。吉岡が「駅伝! 駅伝!」と声援を送り、スヤも夫の疾走を見守った。

そのまま四三はトップでゴールし、東海道駅伝は成功裏に終わる。スヤは笑顔で熊本へと戻っていった。後日、スヤの義母の幾江(大竹しのぶ)が、四三の兄・実次(中村獅童)のもとを訪ねてくる。いつもなら怒鳴り込んでくるところだが、このときばかりは幾江の顔は晴れやかだった。それもそのはず、スヤが懐妊したからだ。東京でも、電報で知らされた四三が「でかした〜!」と物干し台から叫ぶ。
東京で結婚後初めて水入らずですごした夫婦は、駅伝を成功させるだけでなく、子供まで儲けたのだった。まさに幸せの絶頂の金栗夫妻だが、きょう放送の第18話ではまたしても危機を迎えるとか……!?

東海道駅伝、実際の発案者は読売新聞の記者だった


さて、ドラマでは駅伝について、四三や嘉納が発案し、それに読売新聞社が主催者として名乗りを挙げたというふうに描かれていたが、じつは史実では逆である。

東海道を走破するマラソンリレーは、明治天皇が京都から東京に移ってから50年を祝う記念行事として企画された。その発案者が、劇中にも出てきた、読売新聞の記者・大村幹と社会部長の土岐善麿である(土岐は歌人や国文学者としてもその名を残す)。

大村と土岐は、大会の実現に向け、実行委員会の会長を嘉納治五郎、副会長を武田千代三郎に依頼し、選手は、四三のほか愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)校長の日比野寛(ゆたか)らに選考してもらうことにした。日比野は、先のレビューでも紹介したとおり、四三が東京高師卒業するにあたって教員としてスカウトした人物である(四三はベルリンオリンピックを理由に愛知一中への赴任を保留したため、神奈川師範に赴任が決まった際には、日比野に断りを入れたという)。当初、大会には関東と中部のほか、関西勢も参加予定であったが、選手がそろわず、結局2チームのみとなった。

このころ、読売新聞社は経営が傾いていたため、土岐によれば、ぎりぎりのところで予算を捻出したという。選手たちの宿泊費も、1区間ごとに東西二人の選手が走って泊まるという計算で数字を出したが、いざフタを開けてみれば、先述のとおり選手たちが次々と後続のランナーに伴走したため、各宿場に大勢が押し寄せることになり、その費用がすべて読売に請求されてきた。このほか、自動車の手配などにもカネがかかり、結局、予算を大幅に超過してしまう。おかげで、大会自体は大成功に終わり、読売新聞も一躍その名をあげたにもかかわらず、企画者の土岐は予算超過の責任を問われ、やがて退社を決意するにいたった(土岐善麿『駅伝五十三次』。蝸牛社)。翌1918年、読売をやめた土岐は、ライバル会社の朝日新聞に移り、定年まで勤めている。

なお、東海道駅伝での全コース所要時間は、四三がアンカーを務めた関東軍が41時間44分、当時数えで52歳だった日比野寛がアンカーを務めた中部軍は43時間8分だった。読売新聞では、東海道駅伝開催にあたり、事前に読者からその所要時間予測の懸賞募集を行なっており、もっとも近い41時間42分を予想した人のほか、前後5名が当選者として記念品が贈られている。このあたりも含め、東海道駅伝は新聞社主催のスポーツイベントの走りであった。読売新聞はその後、四三の協力を得ながら、箱根駅伝を主催することになるが、「いだてん」ではその経緯がどんなふうに描かれるのだろうか。
(近藤正高)

※「いだてん」第17回「いつも2人で」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:一木正恵
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は放送日の午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)
編集部おすすめ