■「増えすぎて管理不能」の実態
「奈良を出て行ったシカを連れ戻すことはできない」(山下真・奈良県知事3月25日記者会見より)
大阪市に現れた2歳のオスとおぼしき奈良のシカ。奈良市からはるか30km先まで悠々と闊歩したことになる。この個体はあまりにも人に慣れていることから奈良のシカでほぼ間違いないだろうという意見が専門家の共通認識となっている。
さて、冒頭の山下知事の発言通り、天然記念物の奈良のシカは「奈良市一円」に所在すると記載されている。よって、現在このシカは大阪市にいるわけだし、法的にはこの個体は鳥獣保護管理法に基づいて大阪府・大阪市が対処すべき、という論理自体は成り立つ。
迷いジカに幸いしたのは、大阪市の配慮だろう。警察署に迷い込んだ奈良のシカを捕獲後、長年シカを飼育していた大阪府能勢町の温泉への受け入れを決定。「シカやん」と名付けられ、鹿せんべいをもぐもぐ食べる姿は「やっぱり奈良のシカやなぁ」と全国のシカファンを安堵させた。
これで一件落着、とはいかない。なぜ大阪にまで遠征するシカが出てきたのか。実は以前から、奈良公園に生息するシカの数が多すぎて、管理不能になっているのではないか、という課題が専門家の間では囁かれていたのだ。
■奈良のシカは過去最多の頭数
図表1の通り、奈良公園に生息する奈良のシカは2025年に1465頭と、過去10年間で最多を記録。動物学者も奈良県関係者も口を揃えて「明らかに数が増えすぎている」と語っている。
折しも、迷いジカでひと騒動起きていた3月26日に第15回奈良のシカ保護管理計画検討委員会が開かれ、筆者もこれを傍聴した。
同委員会委員長の村上興正氏は冒頭「奈良公園に生息するシカが増えすぎている。野生動物は密度が高まれば分散するのが当然だ」と問題提起。さらに同委員会では昨今のオーバーツーリズムも意識したのか、「奈良のシカはペットではなく野生動物。観光客はシカを『見守る』ことを原則とし、体に接触してはいけない」という基本方針(案)を打ち出すことも確認された。
奈良のシカにかかわる専門家の痛切な危機意識の命題は以下のようにまとめられる。奈良公園の環境が激変する中、神鹿を神鹿のまま、次世代に継承できるのか――本稿では、この命題を解きほぐすことにしよう。
■オスジカは「旅に出る」
野生動物の生態学が専門で、奈良のシカの研究に30年以上にわたって従事しているのが、奈良大学文学部教授の立澤史郎氏だ。
山下知事を含め、いくつかの専門家は「奈良市内で増えすぎたシカの間で生存競争が激しくなっているのでは」という仮説を提示したが、立澤氏は“生存競争”という表現は正鵠を得たものではないと指摘する。
「(奈良のシカも含めた)ニホンジカのオスは、1~2歳になると母親の元を離れ、単独で行動する。
“シカやん”は生存競争に負けたのではなく、元々のオスジカの習性として大阪に「修行」に出た可能性があるということだ。であれば「一度奈良市を出ると、自動的に奈良のシカではなくなる」という処置は少々酷にも思える。
そもそも、天然記念物の「奈良のシカ」と野生のニホンジカには法的にどのような違いがあるのだろうか。それを理解するためには奈良県のシカの保護管理体制とその歴史を説明せねばならない。
■「神鹿」だけが持つ遺伝子型
768年に武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から奈良・春日大社に移る際、白鹿の背に乗っていたという伝承から春日大社の「神鹿」として保護されてきた奈良のシカ。
江戸時代にもツノ切りや鹿せんべいの起源が見られるなど、人間に馴致した野生動物としては世界的にも稀なケースだ。
神鹿はまったくのフィクション、というわけでもないのが不思議なところである。福島大学の兼子伸吾教授らが調査した結果によると、奈良市に生息する奈良のシカは、日本列島の他のニホンジカとは異なる「遺伝子型」を持っていることが明らかになっている。
シカさんは「神さんの使い」と奈良市民はよく言うが、そのアニミズム的感性が、人間と野生動物の類を見ない共生を実現させ、奈良のシカを奈良のシカたらしめていたのだろう。
ところが時代が進み、春日大社の「神鹿」ということで全てが許されるわけではなくなってきた。
■全てを変えた「鹿害訴訟」
転機となったのは「鹿害訴訟」である。1979・1981年に提起されたこの訴訟は、奈良市に住む農家が、春日大社と奈良の鹿愛護会、奈良市・国を「奈良のシカが農作物を食い荒らす」として訴えたのだ。
訴訟中、春日大社は奈良のシカの民法上の「所有権」を主張しなかったとされる。
宙に浮いた奈良のシカを「誰が」「どのように」管理するのか。動いたのは文化庁だ。訴訟の和解条項(1985年)において、平坦部を中心とする奈良公園(A地区)、春日山原始林など公園山林部(B地区)、周辺地域(C地区)、その他地域(D地区)と分けた。
A・B地区は歴史的にも奈良のシカと言えるから殺してはいけない。C・D地区は鹿害防止のために、悪さをする個体を麻酔銃で生け捕りにする。これまで明文化されていなかった保護管理体制を、行政があらためて組み直した。
奈良のシカの保護管理体制が「近代化」したのである。
■1年で450頭が捕獲されている
2026年の保護管理体制では、A地区を《重点保護地区》B地区を《保護地区》C地区を《緩衝地区》D地区を《管理地区》と細かく、それぞれゾーニングをしている(文化庁が作成した当時のA~D地区と現在の奈良県における基準のA~D地区は面積が少し異なることを留意されたい)。
ざっくり言えばA・B地区の奈良のシカは「殺してはいけない」、C地区は「農作物を食べた個体を、麻酔銃などで生け捕りする」、D地区のシカは「(第二種特定鳥獣管理計画に基づく管理として)捕獲する」。
つまり、現在手厚い保護を受けているのはA・B地区の個体のみである、ということだ。実際、奈良県によると、D地区のシカは2025年5月~2026年2月にかけて450頭が捕獲(箱わな・くくりわな)されている。
■奈良公園のシカの頭数はやっぱり多い
ただ、奈良のシカは「野生動物」であるから、「シカやん」のようにA・B地区を出て歩き回る個体も珍しくない。A地区からC地区へ、B地区からD地区へと移動するシカも存在する、ということだ。であればこれまで神鹿として手厚い保護を受けてきたシカが、野生動物としての習性を発揮して遠出したばかりに捕獲対象になることも考えられる。
立澤氏はシカやんは「おそらくA地区由来の個体だと推察される」と見立てた上で、個体の移動の詳しい経路はわからない、とする。
「シカやんが生存競争に負けたのではないにしても、そもそも奈良公園に限らず、A・B地区に生息する奈良のシカの頭数が飽和状態にあるのは紛れもない事実。これだけ頭数が増えると、奈良市外に出ていく個体が出てくるのも不思議ではない。しかも、数年後に帰ってくるオスジカもいる。詳しい個体調査のためにはやはりマイクロチップと発信機を活用して追跡調査をするしかない」(立澤氏)
■奈良公園のシカは人間に合わせて移動する
「神鹿」として長年保護されてきた天然記念物、という側面がありながら、奈良のシカはペットではなく、他地域と同じニホンジカという野生動物である――。
かつて「ふれあい」を推奨した奈良県が今、「野生動物」を強調するのは、昨今の人間による不適切な接触行為に加え、人間の食べ物を与えるなどシカを「ペット」と勘違いする人が増えてきた、という問題意識があるからだ。
実際、奈良公園はインバウンドの成功もあり連日観光客で賑わっているが、それに伴いシカの人間依存度も高まっている。
奈良県が2025年12月から2026年3月にかけてカメラでシカの動向を調べたところ、奈良のシカが観光客にあわせて移動していることが推察された。観光客は午前中奈良公園に滞在し、午後からは春日大社に向かう、というパターンが多いとされるが、シカも同様、人間についていくような行動を示したとされる。
■例がないレベルの“人間依存”
長年シカを研究してきた立澤氏も近年のシカの人間依存は「例がないレベル」だと危機感を強める。
「現在14歳ほどの中年の母ジカに発信器をつけて7年間追跡している。彼女は若いときは比較的人と距離を置いて子育てをしていたが、今では『鹿せんべい』をもらうべく、人間を追い回すようになってしまった。奈良公園のシカの主食はシバとドングリだが、それと比べて魅力的でないはずの鹿せんべいを求めてしまう。人間に食べ物をもらう癖がついてしまったのだろう」
■中年のシカなのに歯が老年並み
さらに立澤氏は、奈良公園内の芝生の状態が悪化している点も指摘する。
「(上記の)母ジカの歯を最近調べる機会があったが、ほとんど歯が磨滅していて驚いた。14歳ではまだ中年と呼ぶべき年齢だが、20歳近くの老境のような状態になっていた。理由ははっきりしていて、奈良公園のシバが(人間の踏圧とシカの食圧により)短くなっていて、シカがシバの地際まで齧るから。根っこを齧ると同時に、砂も混じり、歯に『やすり』をかけたような状態になっている。
人間と同じく、奈良公園のシカも超高齢化社会に生きているのかもしれない。
■神鹿は本来、人間に関心はなかった
奈良公園に生息していて、元気に大阪市まで歩いて行った若いオスのシカやんは捕獲され、奈良公園にとどまるシカたちは人間依存が止まらず、徐々にペット化していく――。どちらが「野生動物」なのか、分かりにくい事態だ。
立澤氏は、本来の奈良のシカは、夜は春日山山麓で眠り、朝になると春日大社周辺まで出てきて、シバやドングリを食べる、という生息パターンを示していたと推測する。奈良のシカは「神の使い」として、人間のことはほぼ無視していたというのだ。シカたちに神聖を感じる人間のほうも、シカを遠目で見守るように暮らし、過剰な干渉はしなかった。シカがペットではなかったからである。
「現在でも人間嫌いのシカが20~30頭いる。母親から過度に人間に依存しないことを学び、古くからの行動パターン、つまり朝夕は春日山山麓、昼は春日大社周辺という暮らしを墨守している。ショックなのは、人がB・C地区でも食べ物を与え始め、人間嫌いなシカまで、人間の食べ物の味を覚えてしまったことだ。コロナ後に観光客が急増し、鹿せんべいをはじめ人間由来の食べ物の供給量が増えて、春日山山麓から奈良公園・市街地に生息地を移した元・人間嫌いもいると思われる」(立澤氏)
■観光客はシカを見守ることが原則
筆者はあらためて奈良公園に赴き、シカたちを見ていたが、確かになんとも言えない可愛さがある。可愛いさあまり、食べ物をたくさんあげたくなる気持ちは理解できなくはない。だが、それは本来のシカと人間の付き合い方ではないのだろう。
「頭数についても、人間のエゴとは別の論点が必要だ。現在の1465頭というのは面積単位で見ると明らかに多いのは確かだが、頭数だけで適正か否かを議論できないのもまた事実。江戸時代の記録を見ると、春日山の東側(現在のC・D地区)では、鹿を捕獲していたことも明らかになっている。捕獲対象のシカは、現在と同じように農作物被害を起こした個体だったようだ」(立澤氏)
奈良県は「奈良のシカ保護に関する基本方針案」の中で、「観光客はシカを『見守る』ことを原則として、体に触れるなどの接触はしない」と確認した。
確かに、方針としては正しいのだろう。だが、神鹿が神鹿であるためには、細かなルールだけでは不十分で、人間が対象に対して畏れを見つけなければならなかった。当然、行政は人に認識まで強要できない。シカの方は、どうだろうか。神の使いからペットになるという気持ちは――。
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湯浅 大輝(ゆあさ・だいき)
フリーランスジャーナリスト
1996年生まれ。米アリゾナ州立大学に留学後、同志社大学卒業。ジャーナリストとして活動開始。経済メディア→小売専門誌→フリーに。教育、小売、海外スタートアップ、国際情勢、インフラなど多岐にわたるテーマで寄稿する。過去携わった書籍に『フリースクールを考えたら最初に読む本』(主婦の友社)、主な特集記事に『出生数75.8万人の衝撃』『奈良のシカ』(JBpress)『リニア20世紀最後の巨大プロジェクト』(NewsPicks)『精肉MDの新常識』(ダイヤモンド・チェーンストア誌)など。
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(フリーランスジャーナリスト 湯浅 大輝)

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