戦国時代に最も悲惨な生涯を送った女性は誰か。歴史評論家の香原斗志さんは「明智光秀の娘、細川ガラシャをあげたい。
関ヶ原の戦い直前に38歳でなくなった彼女は、生涯を通じて『謀反人の娘』というレッテルから逃れられなかった」という――。
■明智光秀の娘の悲劇的な生涯
戦国時代の女性は、家の論理と戦いに絶えず翻弄された。むろん、男性の環境も苛酷だったが、男性と決定的に違うのは、自分には決定権がないまま、ただ翻弄されるばかりだったことだ。
どんなに身分が高くても、個人の意思はいっさい無視され、家を存続させるための「道具」として政略結婚を強いられた。しかも、嫁ぎ先と実家が争えば、離縁されて実家に帰されるならまだマシで、処刑されるリスクもあった。戦火に巻き込まれれば、自害できればいいほうで、敵軍による凄惨な処置を覚悟しなければならなかった。
そんな悲劇的な戦国女性として、一般にまず思い浮かべられるのが、目下、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で宮﨑あおいが演じている織田信長の妹、市だろう。政略結婚で浅井長政のもとに嫁ぎ、兄が夫を滅ぼす際に、娘たちとともに落ち延びた。その後、柴田勝家と再婚するも、勝家が羽柴秀吉に滅ぼされる際、覚悟を決めて北庄城(福井県福井市)で夫とともに自害した。
しかし、悲劇的な生涯という点では、市も到底かなわない戦国女性がいる。明智光秀の娘で、細川忠興の正妻だった玉。いわゆる細川ガラシャである(以下、ガラシャと呼ぶ)。

■「本能寺の変」で人生が変わった
江戸中期に編纂された細川家の家史『綿考輯禄』によれば、ガラシャと細川忠興との婚礼は織田信長の斡旋で、天正6年(1578)に行われた。おそらく8月に、細川家の居城だった勝龍寺城(京都府長岡京市)で。2人とも同い年で数え16歳だったというから、永禄6年(1563)の生まれということになる。
夫妻は三男二女を授かることになるが、そのうち長男の忠隆と長女の長は、天正10年(1582)6月2日以前に生まれている。そこまでの4年ほどが、ガラシャにとっては生涯でも平穏だった期間なのではないだろうか。だが、いま挙げた日を境に彼女の人生は転変する。父の明智光秀が本能寺の変を起こしたからである。
翌日、光秀謀反の情報が細川家に届けられると、藤孝と忠興の父子は、髻(もとどり)を落として信長への哀悼の意を示し、光秀にはくみしない意志を示した。その後、光秀は山崎合戦で敗れて討たれ、ガラシャの兄弟および姉妹、その子たちはほとんどが命を落とすことになった。ガラシャだけが生き残った。
しかし、世間の「明智の縁戚」への評価は厳しかった。なにしろ、信長の甥の織田信澄は光秀の三女(ガラシャの妹)が妻だというだけで疑われ、信長の三男の信孝と丹羽長秀に討ち取られていた。
そんな状況だから忠興はガラシャを、丹後(京都府北部)の人里離れた山間部で、冬は雪に閉ざされる味土野(みどの)(京丹後市)に隠棲させた。江戸時代に編纂された家譜類の多くは「離別」したとも記している。
細川家を守るためには、やむをえない決断だったのだろう。とはいえ、汚名を着せられた一族のなかでたった一人生き残った結果、山中に閉じ込められたガラシャの心中は、いかばかりだっただろうか。
■幽閉されてうつ病に
その後、夫婦は復縁している。『綿考輯禄』によれば秀吉が復縁を促したといい、藤孝から忠興へと代替わりした天正11年(1583)半ば以降のことと考えられる。その後は細川家の居城だった宮津城(京都府宮津市)のほか、大坂城下玉造や京都の聚楽第の周囲、伏見などに居住したが、いずれも細川家および羽柴政権の都合による。
また、いくら復縁しても「謀反人の娘」というレッテルは貼られたままだった。忠興も妻がそのように辱められることを、細川家の名誉のためにも嫌ったからだと思われるが、ガラシャに行動の自由をあたえなかった。彼女は外部の人間と会った形跡がほとんどなく、ルイス・フロイスの『日本史』にも、彼女が夫から極端な幽閉と監禁を強いられていた旨が書かれている。
彼女が父を助けなかった忠興と舅の藤孝を恨んでいたとする研究もあり、そうだとすれば、そういう夫に幽閉されているのは、さぞつらかったのではないか。フロイスは、ガラシャが部屋にこもったまま食事もとらず、子どもの顔さえ見ず、うつ病のような状態に陥っていたと記している。

そんな彼女に救いをもたらしたのがキリスト教の教えだった。基本的にフロイス『日本史』など、宣教師の記録にもとづいて記述する。
■ガラシャの意味
意外にも、ガラシャがキリスト教の話を最初に聞いたのは、忠興からだという。忠興はキリシタン大名の高山右近の話をしたのだ。もっとも、興味をもったところで、忠興の監視のもと教会に行くことなど不可能だが、天正15年(1587)2月、夫は九州征伐に出兵して長期不在となった。
またとない好機と考えたガラシャは、侍女たちに教会に行きたい旨を伝え、侍女たちが数人で彼女を囲んで姿を隠し、教会まで連れていったのだという。禅宗の教養が豊富だったガラシャはさまざまな角度から質問しては議論し、ベテランの日本人修道士である高井コスメは、彼女の明晰な判断力に驚嘆している。
屋敷の者が迎えに来てしまって短時間の滞在となり、これがガラシャには最初で最後の教会訪問となった。しかし、キリスト教への思いは日増しに強まり、自分は教会に行けないので、侍女たちに行かせた。信頼の厚い侍女の清原いとに教会で説教を受けさせ、いとの帰宅後、自分に伝えさせた。結局、いとは受洗して清原マリアとなった。ほかの侍女も次々と教会に送り、洗礼を受けた侍女の数は16人におよんだという。

そうこうするうちに、同年6月19日、羽柴秀吉が伴天連追放令を発布した。ガラシャはこれを悲しみ、西国に赴いて殉教する決意まで固め、受洗を急いだ。しかし、教会に行くことはできないので、清原マリアが代理で洗礼をほどこした。洗礼名のガラシャはラテン語で恩寵(神の恵み)を表す。
■怒り狂って乳母の鼻と耳を削いだ夫
とはいえ、ガラシャは九州から戻った忠興に、洗礼を受けたことを伝えなかった。知らせたのは8年後の文禄4年(1595)だという。秀吉が伴天連追放令を出したのは、九州の箱崎(福岡市東区)。近くにいた忠興はキリスト教を憎悪するようになり、ガラシャは自分と周囲を守るためには、秘密にするしかなかった。実際、忠興は受洗したとわかった乳母の鼻と耳をそぎ、ほかにも受洗が発覚した侍女は、髪を切ったり追い出したりした。
そんな状況だから、ガラシャは離婚を決意する。忠興が何人もの側室をもうけるようになったのも嫌だったようだ。しかし、離婚は教会に容認されず、教会に導かれて、困難な状況に耐える道を選んでいる。

だが、悪いことばかりではない。味土野に幽閉中に生まれたと思われる次男の興秋が洗礼を受け、忠興の弟の興元も受洗。しかも、興元は興秋を養子にし、その後、興秋がすでに受洗していると知ってよろこんだという逸話が伝わる。次女の多羅(たら)も受洗したようで、それらはガラシャにとってうれしいことだったはずだ。
そんな状況があって、ガラシャの話を聞く機会、さらには秀吉の姿勢の軟化もあって、忠興もキリスト教に理解を示すようになってきた。夫婦関係も本能寺の変の前を除くと、一番マシな状況になったのではないだろうか。
■石田三成による急襲
しかし、最期は唐突にやってきた。徳川家康が率いる上杉攻めに忠興が供奉して東国に向かう最中、家康を糾弾して挙兵した石田三成らは、大坂城下の玉造の細川屋敷にいるガラシャを人質に取ろうとした。ガラシャのねらい撃ちだった。三成の襲撃事件に参加し、三成の娘婿(福原長堯)から奪われた領地を加増され、家康に人質を出し……と、三成側から恨まれる要素しかないのが、このときの忠興だったからだ。
そして忠興は、万が一の事態を想定し、自分が不在のあいだに妻の名誉が冒されたら、まず妻を殺し、追ってみな死ぬように――という指示を、留守居にしていたのである。
キリスト教では自殺は厳禁なので、ガラシャは悩んだようだ。
宣教師のオルガンティーノにも再三質問し、最後には納得がいく答えが得られたという。死が回避できない場合の名誉の死は、許してもらったのだろう。
だが、それにしても忠興の指示がきつい。たとえば忠興と同様に上杉攻めに参加した黒田長政は、万が一のときは妻を本国に逃がすように指示していた。
■遺言は「側室を正室にしないこと」
では、黒田長政の妻とガラシャとの違いはなにか。それは明白である。長政の妻は家康の養女なのに対し、ガラシャは「謀反人の娘」である。山田貴司氏は〈忠興はガラシャが「謀反人の娘」だと辱められる可能性を、徹底的に潰したかったのである〉と書くが(『ガラシャ』平凡社)、的を射た論だ。
忠興は「謀反人の娘」を外に出すことを嫌って、徹底的に幽閉したのだろう。その延長で人質に取られることも、過剰なまでに嫌ったのではないだろうか。結局、ガラシャは父の謀反による負の十字架を、生涯にわたって背負い続けざるをえなかったことになる。
慶長5年(1600)7月17日夕刻、三成方から催促の使いがやってきて、玉造の屋敷は囲まれた。侍女たちには暇を出したが、とくに霜とおくという2人の侍女には、遺言を伝えた。神に祈りを捧げ、イエスとマリアの名を口に出し、小笠原少斎の介錯で果てた。享年38。その後、留守居たちは火をつけ、少斎らも腹を切った。
むごい一生だが、「謀反人の娘」のレッテルをいくら貼られても、強いプライドを捨てない女性だった。霜とおくに伝えた遺言のなかに、「側室の藤を正室にしないこと」という項があるのは、彼女のプライドを象徴している。そのことも、ガラシャが「美女だった」という伝説につながったのかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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