2026年3月、アサヒ飲料の新社長に近藤佳代子さんが就任した。同社において、プロパー初の女性社長だ。
「体育会系」の印象が強いアサヒグループにおいて、どのようにキャリアを築いてきたのか。ジャーナリストの永井隆さんが、近藤新社長に聞いた――。(前編/全2回)
■自分が女性という特別な思いはない
――アサヒ飲料に入社したのが1991年。それから35年が経過して、アサヒグループの中核企業では初の女性社長です。しかも、ビール4社のなかでもアサヒは、男性中心の体育会的な体質が強い体質に見えます。
【近藤】男性とか女性とか、性別に対する意識を、私はまったく持っていません。アサヒグループホールディングス(GHD)の経営会議で、私だけ女性ということはありました。でも、違和感はないし、自分が女性だからという特別な思いはさらさらない。
私は体育会出身(明治学院大学女子バスケットボール部の元主将)。攻めの姿勢で、いつも前に進んできました。35年前も、社長になったいまも。
――失敗をしたことは、ありますか?
【近藤】たくさんありますよ。
失敗談だけで、何時間だって話せます。もともと、営業をやりたくて総合職でアサヒ飲料に入社しました。
最初の配属先は横浜。「オハヨウゴザイマース」って、朝一番で問屋さんを訪問。問屋の営業マンと同行したり、地元スーパーのバイヤーにキャンペーンについて説明したりと、毎日が楽しかったんですよ。楽しさのあまり、営業車のルーフに鞄を載せたまま、次の訪問先に行ってしまい、いざ営業しようとしたら、鞄がない。前の訪問先の店先に落ちていて、拾ってもらってました。
問屋の営業マンのキャリーケースを、車をバックさせながら踏んづけて壊したこともありました。人間関係ができているから「いいよ、いいよ、気にしないで」と言ってもらいましたが、本当に申し訳なかった。
■27歳のときに経験した苦い失敗
――取引での失敗はありますか?
【近藤】いまでも、「私は悪くない」と思っている失敗があります。27歳のときでした。まだ、ビールを自動販売機で売っていた時代。
アサヒの自販機には、アサヒグループの商品だけを入れるという方針を会社は掲げました。ところが、私の担当エリアにあった「スーパードライ」をたくさん売る有力な酒屋さんは、「コカ・コーラ」や「ポカリスエット」も自販機に入れて売っていたんです。10台以上の自販機で、です。
――現場の営業担当とすれば、困りますよね。板挟みです。それで、どうしました?
【近藤】何度お願いしても、聞いてもらえない。そこで、私は言いました。
「分かりました。それならば、(自販機を)全部引き上げます」、と。
すると、酒屋さんの社長は激怒しました。人って、こんなに怒るのだと思うくらいに。結局、私ではどうすることもできずに、支社長が謝罪して、何とかことを収めた。
もちろん、私は支社長からも、叱られました。自販機はそのままで、他社の飲料も売り続けた。
――その失敗から、何を学びましたか?
【近藤】お客様の立場になって、営業は仕事をしなければいけない、ということです。若気の至りだったのかも知れません。でも、繰り返しますが「自分は正しかった」といまでも思い続けています。
青色をしたアサヒの自販機に、赤色の缶コーラが入っているわけで、自販機の利用者のなかには、ブランドを誤認する人も現れてしまう。「お客様」を取引先と見るのか、最終消費者として捉えるのかで、考え方も行動も変わる。
■「女性を信用しない」に闘志がわく
――この事例ともおそらく重なると思いますが、90年代は女性であるということで、営業をしていて何かと厳しかったのではないでしょうか?
【近藤】まったく相手にされないことは、ありましたよ。「何しに来たの」とか、「女性の営業がきて、大丈夫なの」とか。目を合わせてくれない人もいた。「女性を信用しない」と言い張る相手に、何度も遭遇したんです。
そんなとき、私は攻めの姿勢で臨みました。
前へ前へと攻め続けると、相手の意識は変わっていきます。これが楽しいんですよ。営業の醍醐味です。
――90年代までは男性中心のビジネス社会でした。取引先との接点となる営業職は、特にそうだったと考えます。あれから30年以上が経過して、ご自身の立場も変わったわけですが、日本のビジネス界は女性が活躍できる形に変わりましたか?
【近藤】90年代と比較すれば、ずいぶん改善されたと思います。特にリーダーである経営者の皆さんの考え方は、変わってきた。女性を軽視しない新しい世代の経営者も現れてきました。
でも、完全に企業社会が変わったのかと言えば、そうではない。「女性だから……」、「女性は信用しない」という男性は、いまでもいると思います。仮に、そういうタイプのリーダーに会ったなら、私は楽しくなります。毎日攻めて、攻めて、考え方を変えさせてやる、と闘志がわくから。

■90年代前半の「女性の営業」の状況
ザル法とも称される男女雇用機会均等法の施行は1986年。91年入社の近藤氏は「入社した頃、女性の営業も数人いた」と話すが、営業職に従事する女子総合職はまだ珍しかった。
大手食品の人事部長は1994年秋の取材で、筆者に次のように話した。
「営業に異動する女子総合職に対し、人事部は事前に『やれますか』と聞き、『やれます』と返ってくる。それでも、仕事の厳しさ、辛さからか、短期間に辞めてしまうケースは多い。こうなると、人事部は異動先の上司に対して、実に都合が悪いし、申し訳なくなる。その上司から、人員補充の要請が来るわけですが、すぐには対応もできない。総合職であっても、女子の場合は“辞める”という切り札を簡単に切ってくる。なので、人事部としては女子を営業へ異動させるのには慎重になり、結果として彼女たちの職域を広げる機会を逃している」
1995年当時の都銀(現在はメガバンク)に総合職で入社した女性は言う。
「就活で差別を受けました。男子と女子とで、銀行から送られてくる就活用資料が違ったのです。同じ大学の男子には、詳細で厚い資料が送られ、私たち女子に送られたのは薄い表面的なものだった。
総合職でも女子には期待しない、銀行の姿勢が表れていた」

■パワーの原点は高校時代の部活動
――攻めの姿勢で前へ進む、近藤さんのパワーの原点には何があったのですか?
【近藤】原点はバスケットボールです。中学、高校、大学とやってきましたが、特に高校(神奈川県立茅ヶ崎西浜高校)では、指導者が厳しかったし、怖かった。試合でミスをすると、すぐにベンチに下げられた。そのままシュンとしていると二度と、ゲームに出させてはもらえない。「お願いします! お願いします!」と強く訴えなければ、コートには戻れなかった。
試合後は、一人で居残り練習をしたり、朝練をして、ミスの修正に取り組む。「みんなで勝とう!」と、部員は支え合っていたけど、その一方で競争はありました。みんな、レギュラーの5人にどうしても入りたかったから。だから、厳しい指導者のもとで、練習を続けたのです。
いまなら問題でしょうが、指導者が選手にボールを投げつけるようなことは普通でした。昭和の時代は。
■怒られてもへこたれない
――大学でもバスケットを続ける。遊びたい気持ちはなかったのですか?
【近藤】高校時代はバスケ漬けでしたから、大学生になったら、遊ぼう、青春を楽しもうと考え、最初はバスケ部には入らなかった。でも、部の先輩たちから何度も勧誘を受け、根負けして1年の夏練習から入部する。4年時にはキャプテンでした。なぜ、キャプテンかと言えば、コーチからどれほど怒られてもへこたれないタイプだったため、私は選ばれた。練習がたるんでいると、「お前、走ってこい」と私が代表して白金のデコボコした道を一人で走ってました。
高校時代は、私立の強豪校もひしめき、県予選を突破することは叶わなかった。大学でも最後の試合に負けてしまい、2部に昇格できなかった。
それでも、正面から全力でバスケに取り組んだから、前向きになれる自分ができたのだと思います。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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近藤 佳代子(こんどう・かよこ)

アサヒ飲料社長

1968年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。明治学院大学文学部仏文科を卒業し1991年アサヒ飲料入社。営業部に配属。2019年アサヒGHDサステナビリティ部門ゼネラルマネージャー、22年同社執行役員、24年アサヒ飲料取締役兼執行役員、25年同社常務執行役員、26年3月同社社長。

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(ジャーナリスト 永井 隆、アサヒ飲料社長 近藤 佳代子)
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