■タイで「日本のコメ作り」を広めた精米業者
タイの富裕層向けスーパー、「ヴィラマーケット」の米売り場。長粒米が棚を埋め尽くす一角に、その袋は置かれていた。
「のりたけ米 無洗米コシヒカリ」。5キロで320バーツ(約1600円、2026年3月時点)。パッケージには「家族に食べさせたい安心安全なお米」と記されている。日本の感覚では手頃だが、タイの一般的なジャスミンライスは5キロ150~200バーツほど。現地では倍近い高価格帯にあたる。
炊き上がりの蓋を開けると、湯気の向こうで粒立ちのよい米が艶やかに光った。
だが、これはタイ産だ。炒め物やカレーに合うパラパラとした長粒米が主流のこの国で、長きにわたって「タイ産の日本米はまずい」とされてきた。その認識を覆したこの米は、在留日本人だけでなくタイ人からも支持を集めてきた。なぜ、どうやって――。
「のりたけファーム」(NORITAKE FARM CO., LTD.)代表、則竹祐哉(42)。彼は13年にわたり、タイ人農家とともに「日本式の米づくり」を追求してきた。
タイ北部で管理する農地は、約500ヘクタール(東京ドーム約100個分)。そこで生まれた米は、現地のコンビニや大手チェーンで扱われ、いまやタイを代表する日本米ブランドのひとつとなっている。その歩みは逆風の連続だった。
■運命を変えた新聞記事
1983年、愛知県名古屋市生まれ。
2009年、家業に入社。だが当時、国内の米市場はすでに縮小に転じ、業界全体にじわりと閉塞感が広がっていた。
入社から3年。ある日、自宅の一室で新聞をめくっていた手が、ふと止まる。
〈愛知県田原市の農家が、タイであきたこまちを栽培〉
日本米は、日本でしか作れない。そう思い込んでいた前提が崩れた。則竹は衝動に駆られ、記事に名前のあった田原市の農家に電話をかけた。数日後に訪ねると、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「3日後にタイへ行く。一緒に来るか?」
タイで日本米。
■タイの巨大財閥からの誘い
ラオス国境に近いタイ最北の地・チェンライ。山々に囲まれた盆地に、朝霧が立ちこめていた。
則竹が案内されたのは、日本米の試験圃場だった。南国の強い日差しの下、あきたこまちの苗が根を張っている。その圃場を管理していたのが、国民的ビール「シンハー」を擁するタイ最大級の財閥、ブンロード社だった。
本社の一室で、日本人顧問が切り出した。
「新規事業として、タイで日本米を作りたい。いま、そのパートナーを探しています」
2012年当時、タイは和食ブームの最中にあり、日系飲食店は約2000店に達していた。市場にはタイ産の「あきたこまち」や「ささにしき」も出回っていたが、品質は安定していなかった。則竹の話を受け、ブンロード社は名古屋食糧の精米技術に注目した。
「生産への投資はこちらでやる。だから、日本の精米技術を持ち込んでほしい」
タイで、日本米づくりを産業として根づかせる。その構想の入り口に、則竹は立っていた。
■現地で食べた“日本米”への静かな怒り
市場調査のため三度目に訪れたバンコク。その日、昼下がりの日本食レストランで、則竹は目の前の茶碗を見つめていた。米はぱさつき、ところどころ割れ、うまみも感じられない。隣の席のタイ人客に声をかけた。
「そのごはん、おいしいですか?」
「はい」
屈託のない笑顔が返ってきた。
「これが、この国で日本米だと信じられているのか……」
胸の奥に、怒りにも似た感情が込み上げる。その後も何十件も日本食レストランを回ったが、どれも自分が知る味ではなかった。
「タイの人に、ちゃんとした日本米を食べてほしい」
その瞬間、則竹のなかで静かに火がついた。
■「よそ者」に向けられた冷たい視線
タイで日本品質の米は作れるのか。則竹は月に一度チェンライへ通い、試験栽培に踏み出した。ブンロード社が用意したのは、2ヘクタールの圃場。栽培指導は田原市の農家が担い、則竹は精米と商品化の設計を引き受けた。
だが、集められたタイ人農家の表情は険しい。
「よそ者が何しに来た?」
彼らは過去にも、地元の精米会社から「日本米は儲かる」と委託の話を持ちかけられていた。だが契約後に技術支援はなく、出来が悪ければ半値で買い叩かれる。不信感は募り、則竹の話には誰も耳を貸さなかった。
ひとりの農家が、突き刺すような視線を向ける。
「どうせ、あとで値段を下げるんだろ?」
ミーティングの席で、則竹は何度も頭を下げた。
「疑われるのはもっともです。
沈黙が落ちた。やがて、数人が渋々うなずいた。
■農家を縛る「負のスパイラル」
「米なんて、植えて収穫を待つだけさ」
タイ人農家と付き合うなかで、則竹はそんな言葉を何度も耳にした。田んぼを見回すと、肥料は必要最低限。害虫対策も、被害が出てからでないと動かない。「肥料の栄養バランスを見直そう」と提案してみても、「金がかかる」と面倒そうに首を横に振る。
彼らに先を見通す余裕はなかった。田んぼでは数十年前の古い慣習が続き、収量は伸び悩んで赤字続き。取引の条件を決めるのは精米所で、農家に選択肢はほとんどない。目の前の作付けをこなし、今日を食いつなぐだけで精一杯。則竹は悟った。
「このままでは良い米は作れない。農家を追い詰める構造そのものを変えなくては……」
そこで、農家の収入構造を見直すことから始めた。ミーティングの場で、条件を一つずつ説明していく。
「皆さんが収穫した日本米の価格は、タイ米の相場に連動させます。契約分はすべて買い取るので、ご安心ください」
また肥料代は則竹側が立て替え、使った分だけを後から精算する「後払い制」を提示した。当初は「信用できない」という声が大半だったが、則竹は引かなかった。
■「あんたのおかげで生活が楽になったよ」
やがて、半信半疑ながらも数軒の農家が手を上げ、日本式の米づくりが始まった。当初、現場からは「面倒だ」「こんなやり方で本当に売れるのか」という不満の声が上がった。だが収穫期を迎え、代金が振り込まれた瞬間、空気は一変した。
「新しいテレビを買った」
「冷蔵庫を買い替えた」
そんな報告が次々に届くようになる。招かれて酒を酌み交わす席では、「あんたのおかげで生活が楽になったよ」と農家たちの笑顔がこぼれた。
一度信頼を得た農家は、村の“発信源”になった。噂は人づてに広がり、米作りの参加者は少しずつ増えていく。その光景を前に、則竹は確かな手応えを感じていた。
タイでは条件がそろえば、年に2度の収穫ができる。初回のテスト栽培は、思うような味も収量も出なかった。だが半年後、肥料設計や水管理を見直した2度目の収穫で、ようやく則竹自身が「出せる」と思える水準に届いた。
ある日、精米を委託していた工場の一角に農家たちを招き、試食会を開いた。テーブルに並んだ茶碗に、ごはんがよそわれる。ひとり、またひとりと箸を運び、やがてある農家が箸を置いた。俯いた肩が、小さく震えている。
「俺の田んぼで、こんな米ができるのか……」
その光景を前に、則竹は確信した。
――この米なら、いける。
■30歳、タイで精米卸業を起こす
事業を本格化させるにあたり、則竹は当初、ブンロードとの合弁会社設立を視野に入れていた。だが、則竹が賭けたかったのは米づくりそのもの。一方のブンロードが見据えていたのは、レトルトなど加工分野の拡大だった。協議の末に合弁は見送られ、それぞれが自らの構想を追う道を選んだ。
ちょうどそのころ、世界では「和食」への関心が高まり、日本米にも市場拡大の兆しが見え始めていた。
2014年2月。則竹はタイに移住し、精米卸業「Rice Creation」を立ち上げた。30歳だった。当時、タイで流通していた日本米の大半は国内生産だった。価格はタイ米より2割ほど高い。だが精米は長粒米向けの精米設備が使われることが多く、短粒種に最適化されていなかった。
白さを重視するあまり、必要以上に削られ、食味は安定しない。現地では「ジャスミンライスより少し柔らかい米」と受け止められていた。
高温多湿なタイでは、害虫対策として薬剤による燻蒸処理が一般的だ。現地の安全基準上は問題ない。だが則竹が目指したのは、日本で通用する味と品質を、タイで再現することだった。
■「問屋任せ」の限界
2014年5月、バンコク近郊のパトゥムタニーに精米工場を設立した。チェンライで育てた米を、新鮮な状態で届けるためだった。
導入したのは日本製の精米設備。燻蒸に頼らず、低温管理と脱気包装で鮮度を保つ。さらに残留農薬ゼロを掲げ、日本への輸入時の基準をベースに、約500項目の検査を設けた。
当時のタイで、ここまで踏み込んだ精米業者はほかにいなかった。
「良い米をつくり、きちんと精米すれば、あとは問屋が広げてくれるはずだ」
則竹はそう考えていた。複数の食品卸から「ぜひ扱いたい」と声もかかった。だが、半年が過ぎても売上は立たない。倉庫には、精米済みの米袋だけが積み上がっていく。
大手の問屋に状況を尋ねた。「取引先は2000社ある」と聞いていたが、実際に紹介されていたのは50社ほどだった。数千の商品を抱える問屋では、新商品はどうしても後回しになる。
問屋任せの流通では、まだ無名の日本米が現場に届くはずがなかった。倉庫に積まれた米袋を前に、則竹は方針を切り替えた。
「自分たちの足で売りに行こう」
■炊飯器2台を抱えて街に出る
さっそく日系フリーペーパーの飲食店マップを机に広げ、営業リストを作った。サンプル米を手に、一軒、また一軒。照りつける日差しの下、バンコクの日系飲食店を汗だくで回った。ところが、サンプル米の試食で返ってきたのは、厳しい一言だった。
「まずい」
理由がわからなかった。ある店の厨房をのぞき、則竹は驚いた。タイ人スタッフが洗剤で米を洗っている。水加減を指の関節で測る光景も目にした。こうした炊き方では、本来の味を引き出せない。そこで、ひらめいた。
「米じゃない。“ごはん”を持っていこう!」
翌日から、則竹は日本人スタッフと共に、炊飯器を2台抱えて街に出た。ミネラルウォーターで炊いたごはんを店先で茶碗によそう。日本人シェフが箸を運び、一口。一瞬の沈黙のあと、表情が変わった。
「……うまい。これ、どうやって炊いてる?」
こうして「炊飯サポート」が始まった。店ごとに炊飯器のクセを見極め、火力や水量を細かく調整する。炊き方を紙にまとめ、専用のマニュアルとして手渡した。
やがて、街にこんな噂が広がった。
「炊飯器を抱えて歩く日本人がいる」
その営業スタイルを面白がり、米の味にも惹かれて、取引を始める飲食店が少しずつ増えていった。
■追い風に乗り、業界首位へ
2015年、「とんかつ和幸」のタイ進出が、日本米市場に新しい風を吹き込んだ。炊きたての艶やかな米を窯で提供するスタイルが、日本米特有の粘りと甘みを印象づけた。タイ人富裕層を中心に、「高い米」から「おいしい米」へと、日本米のイメージは引き上げられていく。
高級日本食への関心の高まりを追い風に、則竹の米も次第に存在感を増していった。「日本人の栽培指導が入ったタイ産日本米」として認知が広がり、契約店舗は約1500店へ。セブン‐イレブンやファミリーマートといったコンビニエンスストアをはじめ、大手外食チェーンの厨房でも次々と使われるようになった。
2016年には、一般向けブランド「Noritake Rice」を発売。スーパーの棚に並び、家庭の食卓へも広がっていく。2017年。タイの日本米市場におけるシェアは約5割に達し、首位に立った。
「やっとここまで来た」
そう思った、矢先だった。
■顧客の7割が消えた
2018年のある日のこと。則竹は一本の売り込みを受けた。
「この米、安いですよ」
示された価格に、言葉を失う。原価は3割も安い。ベトナム産だった。その米が市場に回ると注文は急減。競合も次々と同じ米を扱い始め、気づけば、顧客の7割が離れていた。追い討ちをかけるように、2020年にはコロナ禍が直撃。外食産業は止まり、耐え忍ぶだけの日々が続いた。
「俺たちの存在価値は、この程度だったのか……」
倒産。その二文字が、夜ごと頭をよぎる。眠れない日々が続くなか、ある日、右耳に水が詰まったような違和感を覚えた。ストレスによる突発性難聴だった。「このままでは一生聞こえなくなる」と告げられ、即入院。病室のベッドで天井を見つめながら、則竹は自問し続けた。ここまでして、自分は何を成し遂げたいのか――。
■「もっと“川上”へ行くしかない」
2023年2月、タイ在住25年の友人、安藤理智が事業に加わった。則竹は初めて、経営の悩みを率直に打ち明けられるパートナーを得る。
同時に、精米業という立ち位置そのものに、限界が見え始めていた。委託農家ごとに生産量や品質にばらつきがあっても、栽培には踏み込めない。その歪みは、クレームや品質不安となって顧客側に表れていた。
2023年12月。答えが、ようやく固まる。
「品質で勝負するなら、もっと“川上”へ行くしかない」
自社で土地を借り、米づくりそのものに踏み込む。栽培から精米、袋詰めまでをチェンライに集約する。それは、精米業にとどまっていれば背負わずに済んだ天候不順や品質不良までも、自分たちの責任として引き受けるということを意味していた。
ある夜、安藤と向き合い、則竹は静かに言った。
「もしこれが実現できたら、何千人、下手をすると1万人以上の農家の家庭を支えられるかもしれない」
安藤は、黙って頷いた。
■全員が農業初心者、5ヘクタールからの挑戦
年明けの2024年1月。安藤の主導で、知り合いを辿りながら借地探しが始まった。だが、外から来た者への警戒は強い。水の来ない“外れ”の田んぼをつかまされることもあった。農家探しはさらに難航した。直接契約に応じる農家はなかなか現れない。
「だったら、まずは自分たちで結果を出すしかない」
2024年6月。ようやく確保した5ヘクタールの借地で、「あきたこまち」を用いた最初の自社栽培が始まった。作業スタッフは、日本人1人とタイ人2人。則竹を含め、全員が農業の素人だった。
まず取り組んだのは、田んぼのインフラ整備だ。泥にまみれながら水路を掘り直し、ポンプを組み替える。雨が続けば雑草が伸び、暑さと湿気で虫や病気が広がる。年末年始も作業は続いた。
結果は散々。収量も品質も、周囲のタイ人農家に及ばない。自分たちが農業の現実をほとんど理解していなかったことを思い知らされた。
同年8月。生産拠点を集約するため、パトゥムタニーの精米工場を閉じ、チェンライへ移した。もう、後戻りはできなかった。
■転機となった“4軒の成功”
2作目の準備が進むなか、4軒の農家が「一緒にやってもいい」と直接契約に名乗りを上げた。そのひとりが、40代のソムチャイだ。タイ農業の先行きに危機感を抱き、独自に肥料や作付けを工夫してきた農家だった。
2024年12月。40ヘクタールの借地で、4軒の農家は長年の“勘”をいったん脇に置き、則竹チームと設計を共有しながら手を動かした。作業は目に見えて効率化していく。
半年後。4軒すべての田で、黄金色の穂が重く垂れていた。この試験栽培で、収穫量は従来のタイ米を上回り、単価も上昇。農家の収入は30~50%増え、品質と食味も、市場で十分に通用する水準に達していた。
周囲の農家は、その田んぼを食い入るように見つめた。そして、噂が瞬く間に広がった。
「ノリタケのやり方、効くらしいぞ!」
4軒の成功をきっかけに、「俺も参加したい」という声が次々と上がった。日本式の農技法に感銘を受けたソムチャイは、技術面の要として、則竹チームと農家をつなぐ存在になっていった。
2025年5月、3作目。新しい村で開かれた農家ミーティングには、約110ヘクタール分の申し込みが集まる。協議の末、契約は80ヘクタールで固まった。
歯車が噛み合い始めた。そう、見えた。
■作付面積は“東京ドーム32個分”に到達
その日、則竹のもとに一本の電話が入った。相手は、80ヘクタールの契約をまとめていた村長だった。
「今回の契約は、なかったことにしてほしい」
表向きの理由は、「日本企業は信用できないから」だった。だが後に、農家を束ねる仲介人が別の精米業者とも交渉を進めていたことが判明した。農家はより条件の良いほうへ、一斉に流れていたのだ。
怒りは湧かなかった。これが、この国の農業の現実だった。
この出来事を機に、方針を改めた。ひとつの地域に依存しない。仲介人を介さずに、農家と直接向き合う。急ぎ拠点を探すなかで、日本米プロジェクトを率いた経験を持つ農家グループのリーダーと出会った。構想を聞いたその人物は、短く言った。
「やってみよう」
数日後、65ヘクタールの農地が用意されていた。そこを起点に、6つの村を回り、農家ミーティングを重ねていった。農家の関心は一つだけだった。本当に儲かるのか。その問いに、数字で応えた。若いタイ人スタッフが農家を一軒ずつ回り、想定収量、買取価格、手元に残る額まで示した。
最初は数人だった参加者は、口コミで40人規模へと増えていく。そして4作目。作付面積は、150ヘクタールに達していた。
■収量は3倍、4倍に増やした“収穫カレンダー”
品質を安定させるため、則竹たちは農家ごとに「つくり方」を言語化するところから始めた。まず農家に、いつ収穫したいのかを問う。そこから逆算し、農家ごとに「収穫カレンダー」を作成した。種もみの浸水から苗づくり、肥料や薬剤の種類とタイミングまで数枚にまとめ、一軒一軒に手渡した。
日本ではJAが担う役割だが、タイにはその仕組みがない。多くの企業が「種を渡して終わり」とする中で、彼らは工程管理にまで踏み込んだ。収穫後は農家ごとにサンプルを回収し、粒の大きさや水分量など27項目を数値化。次作へとフィードバックした。
試行錯誤を重ねるうちに、この設計は目に見える成果を生み始める。収量は、3倍、4倍に跳ね上がった。「面倒だ」と渋っていた農家たちが、今度はこう聞いてくる。
「次は、どうすればいい?」
■「日本の味」を再現する
品質は川上からつくる。則竹は品種そのものにも踏み込んだ。
2024年、タイでコシヒカリが品種登録された。種子センターから提供された種を起点に増殖と改良を重ね、半年余りで商品化にこぎつけた。在留日本人を中心に、「これを待っていた」という声が上がった。
次に応えたのは、使う側の声だった。「洗米が手間だ」「ミネラルウォーターで洗うのはもったいない」。同年、厨房や家庭の現実を踏まえ、無洗米を商品化した。
続いて「炊飯ラボ」を立ち上げる。米の価値は、炊き上がる瞬間まで含まれると考えたからだ。タイの水質や調理環境でも、日本の味を再現できるよう検証を重ねた。売って終わらせない。その姿勢が、次第に信頼を生んでいく。
「お米のことは、まずノリタケファームに相談しよう」
こうした口コミは、自然と広がっていった。2025年2月。則竹は社名を「のりたけファーム」に改めた。精米業の枠を越え、川上から米づくりを担う立場へ。農業生産法人としての覚悟を示すためだった。
■タイ産日本米で初めて「一等米」に
こうした取り組みは、数字にも表れている。現在、タイ全土の日本食店は6000店以上。その市場で、のりたけファームは「プレミアム日本米ブランド」として独自の立ち位置を築いてきた。導入店舗は約500店。管理する農地は500ヘクタール、年間生産量は約3000トンに達した。AIやドローンも活用し、生産体制の効率化を進めている。
2026年1月22日、チェンライ。その日、則竹は、のりたけファームが手がける最上位グレード「Noritake Selected米」の等級検査の日を迎えた。
当日、プロジェクトに関わった10人の社員が会場に集まった。張りつめた空気のなか、誰もが言葉少なに、その時を待つ。やがて、検査員が静かに口を開いた。
「一等米です」
次の瞬間、通訳が口を開くより先に、社員たちから拍手と歓声が湧き起こった。タイ産の日本米として初めて、農林水産省が定める検査基準で「一等米」と認められた瞬間だった。
則竹は、その場で深く息をついた。
■赤字脱却、120軒以上の農家と協業へ
「自分が作った日本米しか食べないよ」
そう言って笑う農家の仕事ぶりに、かつての惰性はもう見られない。
以前は赤字続きで、借金を抱える農家が大半だった。だがいまでは、1ヘクタールあたり約3万バーツ(約15万円)の純利益が残る家庭も出てきた。6ヘクタールを耕せば、バンコクの平均世帯に並ぶ収入が見えてくる。
ソムチャイは、ある晩の酒の席で、ぽつりとこう語った。
「俺は、タイの農業をどうしたら良くできるかって、ずっと考えてきた。でも、誰も興味なんか持っちゃくれなかった。そこに、あんたらが現れたんだ。仲間ができた。……それが嬉しかった」
現在、のりたけファームは120軒を超える農家とともに、新しい試みを続けている。タイ農業が抱える次の課題に向け、かつて袂を分かったブンロード社とも再び協業を模索している。
■国産でも外国産でもない、第3の選択肢
創業以来、則竹はタイ全土20カ所以上で試験栽培を重ねてきた。安定した収穫が見込めたのは、チェンライだけだった。新潟・魚沼に近い条件がそろうこの地なら、日本に引けをとらない米が作れる。そう考えている。
担い手不足が進む日本では、10年、20年先に国産米は足りなくなる。
国産か、外国産か。その二択ではない。日本人が、日本の技術をもとに海外でつくる「日本レベルの米」。それが、則竹の示す第三の選択肢だった。
「将来、日本で外国産の米を選ばざるを得ない時代が来ても、安心して手に取れる米を、このチェンライから届けたいんです」
2025年10月、則竹は父になった。いつか娘に、「このお米は、お父さんが作ったんだよ」と言える日を思い描きながら、今日も田んぼに立つ。
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日向 みく(ひなた みく)
タイ在住ライター
岡山県出身。住宅リフォーム会社で4年間営業を経験後、中南米やアフリカなど世界各国を巡る。2019年にタイへ拠点を移し、2021年からライター活動を開始。経営者や企業の挑戦を企画から取材・執筆し、日本およびタイのメディアに寄稿。現場の熱量を伝え、社会に小さくても確かな一歩をもたらす記事づくりを目指す。著書に『人生デザインのロードマップ』(Kindle版)。
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(タイ在住ライター 日向 みく)

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