NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、小一郎(のちの豊臣秀長)が初めて総大将として竹田城を攻めるシーンが描かれる。「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれる絶景に、難攻不落を想像した視聴者も多いだろう。
だが史実では、竹田城攻めは『信長公記』で「退散」の一言で終わる。ルポライターの昼間たかしさんが、資料をもとに「天空の城」の知られざる実態に迫る――。
■難攻不落のイメージを抱く“天空の城”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第21回は「風雲!竹田城」。秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)は、荒木村重(トータス松本)に代わって織田と毛利の間で揺れる播磨の攻略にあたることになる。そして、小一郎は初めて、総大将として竹田城攻めに取りかかるのだ。
この数カ月で成長した小一郎が、ついに総大将に。その攻略にあたる竹田城はいわずとしれた兵庫県朝来市の観光名所である。標高353.7mの山頂に築かれた城は、廃城から400年近く経った現在でも、石垣がほぼ当時のままに保存されており「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれて、多くの観光客を集めている。
今回の大河ドラマでの登場は地元でも期待されているのか第21回「風雲!竹田城」の放送を前に、兵庫県朝来市の公式サイトは「予告編に登場しました」とわざわざ告知したほど。地元の期待感が伝わってくる。
無理もない。GoogleのCMにも登場した竹田城の雲海に浮かぶ石垣の風景は、いまや日本を代表する絶景スポットである。

だから、大河ドラマで竹田城が登場すると聞いて、こう思った視聴者も多いだろう。
「あの難攻不落の石垣の城を、小一郎が攻め落とすのか! どんな戦いだったんだ!」
■“石垣の竹田城”は小一郎と無関係
その気持ち、よくわかる。
しかし……まったく関係ない。あの石垣のある竹田城は小一郎とは無関係。
現在、観光客が訪れ、写真を撮り、SNSに「絶景!」と投稿しているあの石垣のすべてが、小一郎とは1ミリも関係がないのだ。
現在残っている石垣は、小一郎が攻略した後に、1585年から城主となった赤松広秀によって整備されたものだ。小一郎が総大将として攻め落とした天正年間の竹田城は、石垣すらろくにない、戦国時代には一般的な土塁と木柵の山城にすぎなかった。
つまり「天空の城」の絶景を見て「難攻不落だ」と思った人は知ってほしい……その城、別の人が後から建てたやつなのだと。
でも、いくら石垣がなく土塁だけの城だったとしても竹田城は難攻不落っぽく見える。
なにせ、山間部の谷に面した独立峰の頂上を固めているのである。今でも、谷側から見上げれば、これを攻め落とすのは容易にはいかないと考えるだろう。でも『信長公記』では、こう記されている。

先、山口岩淵の城、攻め落す。此の競に、小田垣、盾籠る竹田へ取り懸け、是れ又、退散。即ち普請申しつけ、木下小一郎を城代として、入れおかれ候へき(『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)。

■信長公記では“作業報告レベルの扱い”
たったの一言である。
「取り懸け、退散」それだけなのだ。攻城戦の描写など一切ない。『信長公記』において竹田城攻めは、「あと岩洲城も落としといた、抵抗していた連中も退散、小一郎を城代にした」という、ほぼ作業報告レベルの扱いである。
では小一郎が総大将だったというのはどこからきたのか。それは『武功夜話』の記述だ。『武功夜話』は、史料的価値に疑問が残る書物だが『信長公記』よりも記述は詳しい。
太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。
寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり。

こちらには「岩石を投げ落として抵抗した」「鉄砲三百挺で制圧した」という描写がある。つまり、竹田城も、それなりに抵抗はしたものの、鉄砲三百挺の銃撃には敵わないと、城を明け渡して降参し退散したというわけである。
整理すると、信頼度の高い『信長公記』では「退散」の一言、信頼度に疑問符がつく『武功夜話』でも「遂に叶わず降参」とどちらも、激戦があったとも苦戦したとも記してはいない。いかにも難攻不落の城みたいにみえるのに、なんでこんなに見かけ倒しなんだ?
■城主・太田垣氏は「山名四天王」の名族だが…
別に竹田城は見かけ倒しではない。小一郎が攻めた当時も堅固な城ではあったろう。それでも竹田城は、長期間の抵抗はできない宿命を持つ城だったのだ。
和田山町教育委員会『史跡・竹田城跡:但馬・和田山』(1994年)によれば、経緯はこうだ。1577年10月に姫路城に入った秀吉は、1カ月足らずで播磨の国人らを帰属させた。
その後、軍を二手に分け、秀吉本隊は西へ回り込んでから北上して上月城を攻め、小一郎はまっすぐ北上して岩洲城を経て竹田城を攻撃。わずか三日で竹田城が降参した後はさらに北上し養父郡までを平定している。
この進軍スピードをみると、城の堅固さ以前に、小一郎に敵対する国人たちに問題があった事実が浮かび上がってくる。

まず、竹田城の素性を確認しておこう。『史跡・竹田城跡:但馬・和田山』によれば、竹田城は室町時代の嘉吉年間に山名持豊(宗全)によって築城され、太田垣光景が守護代となって以来、代々太田垣氏が城主を務めた。この太田垣氏、「山名四天王」と呼ばれた名族である。応仁の乱では但馬に侵攻した細川氏を撃退するなど、確かな武功も持っている。
ここまで聞くと、なかなかの家柄に思える。しかし実態はどうか。
1512年、太田垣氏はほかの国人と組んで但馬守護・山名致豊に離反し、弟の誠豊を擁立しているのである。つまり、主君に刃を向けることに、さほど躊躇がない。その上、小一郎に攻められると、さっさと降伏して臣従している。
■主君を裏切り、強者に降伏…“地方国人の典型”
つまり太田垣氏の正体はこうだ。
「山名四天王」という立派な肩書きはある。しかし山名氏に絶対的な忠誠があるわけではない。
つねに『強い方につく』国人勢力なのである。
難攻不落に「見える」城を構え、名族の看板を掲げているといえば、聞こえはいい。でも、いざとなれば主君を裏切り、強者が来れば降伏する。戦国時代の地方国人の典型にすぎなかったのだ。
これを責めることはできない。生き残るためにそうするしかない時代だったのだから。
そういう勢力が守る城に「死ぬまで戦う」籠城戦を期待すること自体、最初から無理な話だった。
石垣は後世のもの、激戦の記録なし、降参で終わり、目的は銀山、そして城主は強い方につく国人。「天空の城・竹田城」の実態は、これである。
でも、当時の城郭の配置図を見ると早々に降参を決めるのは当たり前だとよくわかる。竹田城は「生野銀山を確保するための城」とも言われている。ところが、こちらの竹田城周辺の城郭の配置図(図表1)を見てほしい(資料をもとに筆者が作成した)。
生野銀山は竹田城よりも南の岩洲城の、さらに南にある。
つまり小一郎が岩洲城を落とした時点で、生野銀山はもう織田方のものとなっている。竹田城が銀山を守れる位置にそもそもない。
この配置図(図表1)を改めて見てほしい。竹田城を守る支城群は、ことごとく北・東に展開している。南からの侵攻など、最初から想定していない配置だ。小一郎が南から北上してきた瞬間、このネットワークは完全に裏側を向いたまま機能停止したのだ。
■太田垣氏の「退散」は、当然の生存戦略
整理しよう。
小一郎の侵攻に対して、抵抗した太田垣氏をはじめとする国人は、銀山を取られた上に、いきなり本城に取りつかれてしまったのだ。支城との連絡線も切れてしまった……詰みである。
この時点で、戦う理由も、戦える状況も、すでに何一つ残っていない。太田垣氏が「退散」して降伏するのは、当然の生存戦略だ。
それに、常備軍を率いる織田勢に対して守る国人たちの軍勢は半農の者が当たり前のはず。岩洲城が落ちた時点で「ちょっと田んぼの様子を見てくる」と逃亡している者が続出してもおかしくはない。竹田城での戦いも「いきなり開城したら降伏しても軽く見られるかもしれない」という形だけの抵抗だったのかもしれない。
つまり『信長公記』が竹田城攻めを「退散」の一言で終わらせたのは、手抜きでも省略でもない。実態がそうだったから、そう書くしかなかったのだ。
では、なぜ竹田城の支城群は北・東にしか展開していないのか。答えは単純だ。太田垣氏にとって、敵は歴史的に北と東にしかいなかったからである。
■「南から大軍が来る」発想が構造的になかった
これは太田垣氏の脅威となる勢力がなんだったかを考えれば明白だ。山名氏内部の内紛、但馬東部の国人衆、北方からの勢力である。だから城は北と東を向いて配置された。戦場は但馬の内部だった。南の播磨は同じ山名傘下の勢力圏であり「そこから大軍が来る」という発想が、構造的に存在しなかった。
そもそも、太田垣氏が想定していた「戦争」と、織田軍がやってきた「戦争」は、根本的に別物だった。
但馬の国人同士の合戦というのは、せいぜい数百人規模の兵が衝突し、どちらかが優勢になれば交渉が始まり、人質を出して帰服する……そして、また数年後に離反することの繰り返しだ。勝った方も負けた方も、翌年には同じ但馬で生きている。戦争とは、秩序の中の交渉手段だったといえるだろう。
だから城の設計も「死ぬまで戦う」ためではなく、「交渉の時間を稼ぐ」ためで十分だった。連郭式の縄張り、連絡線重視の支城配置は、全部、この「戦争観」に最適化されている。
■ローカルルール崩壊、太田垣氏は“詰んでいた”
織田軍は違った。
兵農分離の常備軍が、補給を維持しながら、しらみつぶしに城を落としていく。交渉の余地を与えず、逃げ場を塞いでから来る。国人レベルの合戦では、そもそも存在しえた規模ではない。
太田垣氏が「退散」して降伏したのを臆病とは言えない。彼らは100年間通用してきたルールで戦おうとしたが、相手はそのルールごと持ってこなかった。ゲームが変わっていたことに、気づいた時にはすでに詰んでいたのである。
そんな太田垣氏の思考を示すのが、その後の歴史である。数年間、城代として竹田城にあった小一郎だが、1579年に信長の命令で明智光秀の支援のため丹波に出陣。
結果空き家になった城には、今度は毛利についた太田垣輝延が入城したようである。しかも、この男、毛利についたというのに翌年小一郎が再び侵攻すると瞬く間に降伏……さすがに、これは許されなかったのか、以降太田垣氏は没落している。
小一郎が3日で落とし、太田垣氏が「強い方につく」を失敗して没落し、誰も住まなくなった廃城の跡地に、別の人間が後から石垣を積んだ。
それが「難攻不落の天空の城」の正体である。
そうだよな、マチュピチュがあってもインカ帝国は滅びたし、ラピュタは物語が始まった時点で滅びていた。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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