サッカー日本代表は、1998年のフランス大会から8大会連続でワールドカップに出場している。森保一監督が率いるまでには、歴代監督による試行錯誤の歴史があった。
スポーツライター・木崎伸也さんの著書『世界一やさしいサッカーの見方』(朝日新聞出版)より、一部を紹介する――。
■欧州に後れを取っていた日本サッカー
〈ハンス・オフト監督時代〉(1992‐1993)
1994年W杯へ向けて日本代表を率いたのは、オランダ人のハンス・オフトでした。オフトはマツダを日本リーグの2部から1部へ昇格させた実績があり、1992年に外国人として初の日本代表監督に就任しました。
日本にプロリーグができる前夜で、ヨーロッパに比べてはるかに遅れていた時代です。オフトはコンセプトをとことんシンプルにし、次のキーワードを伝えました。
アイコンタクト:目を合わせ、パスと動き出しのタイミングを合わせる

トライアングル:斜めに角度をつけて立ち、三角形のパスコースをつくる

コンパクト:DFライン、MFライン、FWラインの距離をコンパクトに保つ
今となっては「いろはのい」ですが、当時の日本代表にとっては目からうろこが落ちる内容でした。ドーハで開催されたW杯予選の最終戦でイラクに追いつかれ、最終的に本大会へは行けませんでしたが、オフトによって多くの基礎がもたらされたことは間違いありません。
■ゾーンプレスは「絵に描いた餅」に
〈加茂周監督/岡田武史監督時代〉(1994‐1998)
1998年フランスW杯を目指して、オフト監督からバトンを受け取ったブラジル人のファルカン監督は7カ月の短命政権に終わり、1994年12月に加茂周監督が抜擢されました。
加茂監督が期待されたのは、横浜フリューゲルス時代にスロベニア人コーチのズデンコ・ベルデニックから吸収したゾーンプレスを実践することでした。
加茂監督によるゾーンプレスとは、DFラインを高く保って陣形をコンパクトに保ち、ボールをサイドに追い込んで奪う守備法です。ボールの位置に応じてポジションを修正し続ける必要があります。
当時は古典的なマンツーマンディフェンスが主流だったので、斬新な取り組みでした。

ただし、日本代表ではベルデニックのような頭脳となる右腕がおらず、まだ各個人の戦術レベルも高くありませんでした。ゾーンプレスは絵に描いた餅になり、特徴の乏しいチームになってしまいます。W杯予選で苦しみ、加茂監督は1997年10月に解任されてしまいました。
岡田武史コーチが監督に昇格してチームを立て直し、日本初のW杯出場を決めましたが、本大会では3連敗に終わりました。まだ日本人監督が戦術面でプラスアルファをもたらすのは難しい時期だったと言えるでしょう(図表1)。
■「教科書の3ページしか終わっていない」
〈フィリップ・トルシエ監督〉(1998‐2002)
日本サッカー協会はアーセナルを率いていたアーセン・ベンゲル監督の推薦を受け、2002年日韓W杯に向けてフランス人のフィリップ・トルシエ監督にチーム強化を託します。
トルシエが導入したのは「フラット3」でした。
フラット3とは、3バックのDFラインを果敢に上げてオフサイドを取る守備法で、世界的に見ても勇敢な戦術でした。
相手がバックパスをしたらラインを上げる、3バックが鎖のように連動して動く、といったルールをときに選手を挑発しながら落とし込んでいきます。
トルシエが繰り返し語っていた「500ページある教科書の3ページしか終わっていない」という言葉はやや大袈裟ですが、ヨーロッパでスタンダードになっていた守備の原則を日本にもたらす伝道師の役割を担いました。
2002年W杯で日本はホームの大声援を受け、史上初のベスト16進出を果たしました。
■自主性に任せたジーコ監督の失敗
〈ジーコ監督〉(2002‐2006)
トルシエ時代に選手がルールに縛られて発想が制限された反省を受け、ブラジルのレジェンド、ジーコ監督に白羽の矢が立ちました。

ジーコはブラジル人らしく、組織のバランスよりもスター選手がなるべく多くピッチに立つことを優先してファンを魅了します。練習をほぼすべて公開にし、日本代表の人気アップに計り知れない貢献をしました。
しかし、決まり事をつくらず、選手の自主性に任せるマネジメントは大失敗に終わります。選手同士で話し合って細部をつめようとしたところ、意見がまとまらず、チームに亀裂が走ってしまったのです。
戦術的に上積みがほぼなかった4年間で、日本は中田英寿選手や小野伸二選手ら黄金世代を擁しながら2006年ドイツW杯で1勝もあげられずにグループリーグで敗退しました(図表2)。
■スター選手を特別扱いせず「全員でプレー」
〈イビチャ・オシム監督〉(2006‐2007)
旧ユーゴスラビア代表監督を務めた名将イビチャ・オシムは、「考えて走る」ことを求めました。日本サッカーの技術レベルは少しずつ上がっていましたが、判断力と走力が欠けていると分析したのでしょう。
選手たちは6色のビブスを使って「特定の色の選手にしかパスを出してはいけない」といった思考力を問われる練習メニューにもまれ、全員で攻撃して全員で守備をするチームができあがりつつありました。
オシム監督はヨーロッパでプレーするスター選手を特別視しませんでした。日本代表に「全員でサッカーをする」という文化を定着させたのは、オシム監督の功績でしょう。
しかし2007年11月、オシム監督は千葉県内の自宅で脳梗塞で倒れてしまいます。多くの選手に惜しまれながら、退任せざるをえませんでした。

〈岡田武史監督〉(2007‐2010)
急遽引き継ぐ形になった岡田武史監督は、強気なサッカーを志向します。守備では「ハエがたかるような」と表現したハイプレスにトライし、攻撃では大木武コーチを招聘(しょうへい)してスモールフィールドでパスをつないで大きく展開する「接近・連続・展開」を目指しました。
しかし志にまだレベルが追いついていなかったのかもしれません。2010年南アフリカW杯の直前、岡田監督は方針を覆して低い位置で守備を固める4‐1‐4‐1を採用します。それでもセンターFWの位置に置いた本田圭佑選手目掛けてロングボールを蹴るカウンター戦術により、日本として初めてアウェーのW杯でベスト16進出を果たしました。残念ながら決勝トーナメント1回戦では、パラグアイにPK戦の末に惜敗してしまいます。
勤勉な日本人選手が全員で粘り強く守れば、簡単にやられないことを示した大会になりました。
■「最も細かかった監督」ザッケローニ
〈アルベルト・ザッケローニ監督〉(2010‐2014)
日本代表史上、最も戦術に細かかった監督はイタリア人のアルベルト・ザッケローニでしょう。
さすがACミラン、インテル、ユベントスを率いた経験があるイタリアの名将、4バックのうち1人が前へ出たら他の3人が中央に絞って後方のスペースを消す、センターバックが外へつり出されたらサイドバックが交差するように動いて中央を埋める、といった原則を丁寧に落とし込みました。
日本サッカー界にとって目新しかったのは責任を明確にしたことです。
■強気なサッカーだけでは世界に勝てない
「背後のスペースは、後ろにいる選手の責任。勇気を持って前へ出ろ」
監督がそう伝えたことで、選手は背後を気にせずアグレッシブにボールを奪いに行くようになりました。

その守備力と本田圭佑選手、香川真司選手、遠藤保仁選手らの攻撃力が噛み合い、親善試合ではありますが、ホームでアルゼンチンに、アウェイでフランスとベルギーに勝利しました。
本田選手を中心にボールポゼッションにこだわり、日本代表史上最も強気なサッカーを志向していたと言っていいでしょう。
しかし、強者のサッカーでW杯に挑むには、それでもまだ早かったのかもしれません。ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で南米大陸の移動距離の長さと暑さに苦しみ、仕込んだ連係を発揮できず、1勝もできないまま大会を去ることになりました。本田選手は優勝を公言していたため、大きな批判にさらされました。
ただ、W杯で結果こそ伴いませんでしたが、すべてを過小評価する必要はないでしょう。4年間のチームのつくり込みは、日本代表が代表チームでありながらクラブチーム的に進化できる可能性を示しました(図表3)。
■八百長疑惑後、期待された監督は…
〈バヒド・ハリルホジッチ監督〉(2015‐2018)
ザッケローニ監督後に就任したメキシコ人のハビエル・アギーレ監督は、攻撃的なサッカーを志して選手からの評判が良かったのですが、スペインリーグ時代の八百長疑惑が浮上し、解任されてしまいました。
後任を探す時間が限られた中、日本サッカー協会が選んだのはボスニア・ヘルツェゴビナ出身のバヒド・ハリルホジッチ監督でした。
ハリルホジッチ監督は2014年W杯でアルジェリアをベスト16に導き、決勝トーナメント1回戦ではドイツと延長戦に突入する接戦を演じました。番狂わせを起こせる監督として期待されたのです。
ところが、ハリルホジッチ監督はマネジメントに失敗してしまいます。

■ロシアW杯2カ月前の「電撃解任」
当時の日本代表選手たちは守備でマンツーマン、攻撃でロングボールを志向する「弱者」のサッカーに慣れておらず、反発が起こってしまいます。ハリルホジッチ監督は次々に主力を招集外にし、選手のクオリティーが大きく低下する事態に陥ってしまいました。
対話する姿勢があれば決裂は避けられたかもしれませんが、ハリルホジッチ監督は一切妥協しなかったため、最終的に主力選手が投票をして監督解任を西野朗技術委員長に要求。ハリルホジッチ監督は2018年ロシアW杯の約2カ月前に解任されました。
この“事件”は日本代表の監督選考に大きな影を落とすことになります。コミュニケーションリスクを考慮して、外国人監督は敬遠されるようになりました。
〈西野朗監督〉(2018)
西野朗監督は緊急登板となり、2018年ロシアW杯に向けた準備期間は約1カ月しかありませんでした。
西野監督がそれまでの監督と決定的に異なっていたのは、「君たちの方がヨーロッパのサッカーを知っている」と言って選手たちに意見を求めたことです。いわゆるボトムアップ式のチームづくりです。
これによって全員にとって戦術が自分ごとになり、「チームのためになんでもやる」という空気が生まれました。もはや個人のエゴは見られず、自己犠牲の精神は過去のどの日本代表より高かったでしょう。
西野監督は選手たちにアイデアを出させたうえで、最終的にメンバー選考によって攻撃時に4‐2‐3‐1、守備時に4‐4‐2になる戦術を採用します。
香川真司選手が攻撃時はトップ下に入り、守備時はFWの位置に上がってプレスをかけるというものです。
■ゴタゴタ劇にもかかわらず、強豪に肉薄
この4‐4‐2によるミドルゾーンプレスがどハマりします。献身性と走力という日本人選手の特徴が、見事にピッチで表現されたのです。そして後半途中にジョーカーとして本田圭佑選手をトップ下に入れるという交代策も機能しました。
本田選手の1ゴール1アシストもあり、西野ジャパンはロシアの地でベスト16に進出することができました。
決勝トーナメント1回戦では終了間際にカウンターからベルギーに逆転を許し、史上初のベスト8は果たせませんでしたが、結果的に大会3位となるベルギーを追い詰めた戦いぶりは世界に大きなインパクトを残しました(図表4)。
そして、西野監督の次に就任した現監督の森保一監督はどのような軌跡をたどったのかは、で詳しく解説しています。

----------

木崎 伸也(きざき・しんや)

スポーツライター

1975年生まれ、東京都出身。中央大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程修了。2002年日韓W杯後にスポーツ紙の通信員としてオランダへ移住。2003年から拠点をドイツに移し、日本代表FWの高原直泰の担当としてブンデスリーガを取材。2006年ドイツW杯では、現地在住のスポーツライターとして記事を配信した。2009年2月に帰国し、現在は『Number』『BRODY』『footballista』などに寄稿している。著書に『2010年南アフリカW杯が危ない!』(角川SSC新書)、『サッカーの見方は1日で変えられる』(東洋経済新報社)、『直撃 本田圭佑』(文藝春秋)、『サッカーと地政学』(ワニブックス)、『逆転監督 森保一』(文藝春秋)がある。

----------

(スポーツライター 木崎 伸也)
編集部おすすめ