かつてボクシングの世界戦は、地上波テレビの“特別な夜”だった。だが2026年5月2日、東京ドームで行われた井上尚弥vs中谷潤人は、日本ボクシングの景色を完全に変えた。
(文・本文写真=布施鋼治、写真=スポーツ報知/アフロ)
井上尚弥vs中谷潤人は“日本ボクシング史上最大級”
かつてマイク・タイソンは言った。
「リングの外では、すべてがあまりにも退屈だ」
そんな言葉を地で行くリングが5月2日、東京ドームに存在した。4団体統一王者・井上尚弥に中谷潤人が挑戦したWBA・WBC・WBO・IBF世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。試合は期待に違わぬ好勝負となったが、大会そのものも何もかもケタ外れだった。
5万5000人(主催者発表)という観客数は、マイク・タイソンvsジェームス・“バスター”・ダグラス(1990年2月11日に東京ドームで行われた統一世界ヘビー級タイトルマッチ)の5万1600人という日本ボクシング歴代1位の記録を塗り替えた。ペイ・パー・ビュー(有料配信/PPV)による視聴者数は那須川天心vs武尊という当時のキック頂上対決が組まれた2022年6月19日の『THE MATCH 2022』の50万件がトップといわれていたが、5月3日の一夜明け会見で大橋ジムの大橋秀行会長は数字こそ明かさなかったが、「視聴数もボクシング、格闘技、すべてでトップだったと聞いている」と記録を更新したことを口にした。
この会見に筆者も出席したが、開始30分ほど前に会見場所に到着すると、すでにマスコミが長蛇の列をなしており、会見場に入っても立錐の余地がないほどの盛況ぶりだった。
決戦12日前に行われた井上尚弥の公開練習にも180人の報道陣が駆けつけたが、中谷を撃破した衝撃は大きく一夜明け会見にはそれ以上の人数が集まったと推測される。
会場演出もド派手だった。井上の入場時にはオーケストラによる『Departure』の演奏でスタート。その後布袋寅泰が登場し『バトル・オブ・モンスター』を生演奏した。そして両雄がリング上に揃い踏みすると、藤井フミヤが国家を独唱した。
ボクシングはビッグイベントでも試合そのものにフォーカスする傾向があり、会場演出などはRIZINなどの格闘技イベントと比べると見劣りすることが多かった。しかしながら今回は決してそんなことはなかった。
当然興行収益も破格で、グッズ収益などすべてを合わせると100億円規模になるという報道もある。ファイトマネーも破格で、一部の報道によると現役世界王者である井上のそれは数十億円規模にもなるという話だ。かつて「軽量級ボクサーは稼げない」という時代もあったが、井上は自らの二つの拳によって固定観念をぶち壊した格好だ。
なぜ33万円のチケットと高額PPVが売れたのか?
そもそも日本人ボクサー同士による世界タイトルマッチをメインにしたビッグイベントが東京ドームで開催されることは史上初めての出来事だった。なぜこれほどまでに盛り上がったかといえば、王者の井上だけではなく、挑戦者の中谷も無敗で、ともに同じキャリア(32戦)を積んできたことが大きい。
両者のキャリアは市井の世間の関心を大いに刺激し、普段はボクシングにさほど興味を抱かないライト層をも振り向かせることに成功したのだ。
断っておくが、東京ドームの入場料は33万円から1万1000円、ドコモの映像配信サービスLeminoでのライブ配信も6050円(当日は7150円)と決してリーズナブルな価格設定ではなかった。にもかかわらず、なぜ会場の前売り券やライブ配信チケットは爆発的に売れたのだろうか。
それは、この一戦に特別な付加価値がついていたからにほかならない。
「無敗の王者に無敗の挑戦者が挑む」「日本人同士による頂上対決」「もしかしたらモンスター井上に初めて土がつくかもしれない」といったセールスポイントが市井の人々の「少々高いお金を払っても、ライブで見たい」という気持ちを刺激し購買意欲を煽ったのだ。
地上波、WOWOWからPPVへ。変化したボクシング観戦
かつてボクシングの世界タイトルマッチといえば、地上波の特別番組の花形だった。筆者は小学生から高校生にかけ、地元北海道のテレビで午後7時半から9時まで放送のボクシング中継を熱心に視聴していたことを思い出す。潮目が変わったのは1991年にBS放送のWOWOWが開局し、看板番組の一つとして海外のビッグマッチを中心に放送するプロボクシング中継番組「エキサイトマッチ」をスタートしたことがきっかけだった。
WOWOWは試験放送のときから当時全盛期だったマイク・タイソンの試合を放送しており、エキサイトマッチでもタイソンの試合は最大の目玉だった。開局から35年経った現在もエキサイトマッチはWOWOWの長寿番組として放送中。
コロナ後は大手のネット配信局がボクシング中継に続々と参入し、最近はビッグマッチともなればネット配信が当たり前の時代になりつつある。Lemino BOXING(2022年まではPXB WORLD SPIRITS)が初めて井上の世界戦をPPVで配信したのは2021年12月14日のvsアラン・ディパエンまで遡る。その後無料で配信することも多かったが、昨年12月27日のvsアラン・ピカソからは2戦連続PPVによる配信となっている。
その一方で、地上波での世界タイトルマッチ中継はほとんど姿を消してしまった。地上波で世界タイトルマッチを楽しんでいたオールドファンからは「どんどん新しい局、新しい試聴方法が出てきていて、どうやって契約していいかわからない」というボヤキも聞く。
筆者の知人は父親の「ボクシングが見たい」というリクエストをかなえるためだけに実家に里帰りし、視聴できるように自宅のパソコンをセッティングしてきたという。令和ならではの親孝行ながら、その一方で別の高齢の知人は「地上波で放送しないなら、興味がない」とあっさりと切り捨てた。
同じ昭和生まれとしてその気持ちがわからないわけではないが、時代は動き続けている。とりわけ映像の視聴方法はどんどん進化しているので、背中を向け続けたら置いてきぼりを食うだけではないか。
そういえば、WOWOWでタイソンの試合を放送し始めた頃、自宅で視聴する術がなかった筆者は近所の家電量販店まで出かけ、ノートにメモを取りながら観ていた。まだ世間にパソコンも流通していない時代だったので、隔世の感がある。
いまや東京ドームのような巨大会場で万単位の観客を集め、PPVによって地方の大都市の人口レベルの視聴者を募るやり方で収益スキームを確立させ、以前と比べるとケタ違いのファイトマネーを支払えるようになった。井上や中谷のような客を呼べるボクサーにとっては万々歳だろう。
オールドファンがどんな恨み節を口にしようと、もう後戻りはできない。
かつてボクシングは「テレビ局が支えるコンテンツ」だった。しかし今は違う。選手自身の価値と熱狂が、巨大興行を成立させる時代になった。
【連載前編】井上尚弥と中谷潤人はなぜ笑い合ったのか。日本人による世界戦が示した“KOのさらにその先”
<了>
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