2004年アテネ五輪で野球日本代表監督を務めた長嶋茂雄さん(享年89)を当時、チームのマネジャーとして支えたのが、現在は日本野球機構(NPB)で事務局長を務める中村勝彦氏(58)だった。脳梗塞(こうそく)を発症し、現地で指揮を執ることを断念したミスターとの思い出や知られざる秘話を明かした。

(取材・構成=長井 毅)

 03年にアテネ五輪の日本代表監督に長嶋さんが就任し、マネジャーとなった中村氏。翌年8月の本番を前に「時差対策」としてイタリアで行う事前合宿地が急きょ変更された一件が思い出深かった。当初はアテネまでの空路移動がスムーズで食事面などの環境が整っているミラノが最有力の候補地だった。使用予定の球場を視察すると、長嶋さんがすぐさま難色を示した。

 「これ、お客さんはどこで見るの?」

 スタンドがなく、観客席はバックネット裏に仮設されていた粗末なものだった。

 球場視察後、中村氏は指揮官と共にミラノから車で2時間ほど南下したパルマへと向かった。国際野球連盟のアルド・ノタリ会長(当時)の元へ、あいさつを兼ねて現地のプロ「セリエA」選抜チームとの練習試合を申し込むためだった。

 ノタリ会長のオフィスが置かれていたのが現地チームが使用する「ニノキャバリ球場」。この球場の観客席は当時「500~600程度」だったものの、スタジアム型で、ミスターは一目ぼれした様子で言った。

 「お客さんで満員になるよね。みんなに(プレーを)見せられるよね。中村君、ここでやろう」

 中村氏は思わず「えっ、ここでですか?」と切り返したが、すぐさま「ちょっとお時間をください。

調整します」と腹をくくった。

 お世辞にも日本代表が使用するレベルの球場にはほど遠かった。グラウンドの土の入れ替えと併せて、プレー中の故障防止のためにフェンスにウレタンの緩衝材を貼る工事が必要と判断。球場修繕の許可取りとドイツの業者へのウレタン素材発注など、手配は難航したが粘り強く交渉に当たり無事に問題もクリア。パルマが合宿地として決定した。

 残念ながら、本番前に脳梗塞で倒れた長嶋監督はパルマ合宿に参加できなかったものの、合宿中はイタリア人のファンでスタンドは超満員だった。セリエA選抜との親善試合は1戦目が10―0、2戦目が15―0で勝利。現地新聞でも「恐竜打線・日本」の見出しで大きく報道された。「カルチョ(サッカー)の国」でもファンを第一に考え、野球の魅力を広めようとした「伝道師」の大きな決断を支えることができた喜びを実感した。

 移動の最中に、つい出てしまった「愚痴」に対してミスターから返されたド直球の言葉が“人生訓”となっている。「長嶋監督が『これをやりたい。こうあるべきだ』と言ったことに対して『こうだから、できないです』と、できない状況(や理由)を並べ立てた。

それに対して長嶋さんが笑顔でさらっと『中村さん、お金をもらってるんだからプロだよね?』って言われて。あまりもストレートだった。『それでいいと思ってるんだったら、もうプロじゃないね』みたいな感じに捉えられたような気がして…。俺、駄目だなって反省することがありました」

 本番では悲願の金メダル獲得はならず銅メダルに終わった。五輪から約1年後。都内のホテルのエレベーター内で杖(つえ)をついて立つミスターと再会した。

 「大変だったね。お疲れさま。ありがとうね」

 マネジャー業だけではなく、チームの通訳とスコアラー補佐なども兼務。激務により睡眠時間は毎日2、3時間だった。過労で3週間入院もした。ただ、ねぎらいの言葉で全ての苦労が吹き飛んだ。

力強かった握手の感触は生涯忘れることはできない。中村氏は「短くて濃い時間でした」。そう激動の日々を振り返った。

 ◆中村 勝彦(なかむら・かつひこ)1967年、長野県生まれ。58歳。日体大卒業後に青年海外協力隊としてコスタリカに赴任。帰国後の94年1月に日本野球機構(NPB)コミッショナー事務局入局。アテネ五輪日本代表では長嶋監督をマネジャーとして支える。その後はNPB総務部、国際部などを経て25年1月に事務局長に就任。

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