◆アジア・チャンピオンズリーグエリート(ACLE)アルアハリ1―0町田(25日、サウジアラビア・ジッタ、キング・アブドゥラー・スポーツシティ・スタジアム)
初出場のJ1町田は、延長戦の激闘の末に惜しくもACLE優勝を逃した。決勝で前回大会王者のアルアハリ(サウジアラビア)に1―0で敗れた。
シャバブ・アルアハリ(UAE)との準決勝から中3日。黒田剛監督は準決勝と同じ先発で運命の一戦に臨んだ。地元チームが相手なこともあり、スタンドは相手のクラブカラーの緑一色。試合開始の瞬間から大声援が飛ぶなど、予想通り完全アウェーの空間になった。
FWガレーノ、FWトニー、FWマフレズ擁する、相手の強力な3トップはこの試合も健在。前半13分にはガレーノがDFの裏へ抜け、カウンターの好機を作られるが、GK谷晃生がガレーノのシュートを止めて、難を逃れた。同32分にもピンチになったが、DF昌子源の体をはったブロックでゴールを割らせなかった。
試合が動いたのは後半23分、FWイエンギが相手DFハウサウィと競り合い、ファウルの笛が吹かれてから詰め寄ると、激昂した相手が頭突きで反撃し、レッドカードを誘発。相手選手の人数が10人になり、数的優位を得た。会場は騒然となり、ピッチに物が投げ込まれるようになった。ここから一気に形勢が変わり、町田が攻撃する時間が増えた。そのまま後半終了の笛が鳴るまでスコアは動かず。
異様な雰囲気に包まれる中、町田は必死に戦い続けた。しかし、延長前半6分、ついに失点を許した。右サイドからマフレズがクロスを上げると、MFケシエがつなぎ、最後は途中出場のFWアルブリカンにネットの中へ押し込まれた。
あと一歩で涙を飲んだが、強さは本物だった。過去3年は大幅に戦力を入れ替えてきたが、今季はレンタルバックを除くと新加入はわずか3人。ただ、197センチの大型FWイエンギはサイズからは想像できない足元のうまさで1トップの先発に定着し、神村学園高で総体と選手権の連覇を達成したFW徳村楓大は高卒新人ながら出場機会を得ている。昨季途中で加入したMFネタラビは、昨季はけがなどもあり出場機会が限られたが、今季は中盤の要として大きく貢献している。既存戦力の底上げも進み、チーム内での競争は激しさが増している。
アジアの戦いにおいて、豊富な資金力と地の利がある中東勢は強力だが、町田らしいサッカーで対抗し続けてきた。準々決勝のアルアハリ戦では相手がロングスローに苦戦しているところを見逃さずたたみかけると、イエンギがロングスローから決勝点を獲得。準決勝では指揮官が日頃から口酸っぱく伝える一瞬の隙から得点を奪った。
1977年に小学生の選抜チームとして始まり、89年に10部相当からトップチームの歩みを始めた「FC町田トップ」。これまでもすごいスピードで駆け上がってきたが、2023年の黒田監督の就任からより加速度が増した。1年目でJ1昇格、2年目でJ1昇格初年度3位、3年目で天皇杯優勝。さらに、4年目にはアジア制覇まであと一勝まで迫った。様々な困難を経て、チャレンジャー精神がクラブの幹となった歴史が町田にはある。これまでと同様、悔しさを糧に再びアジアの頂点を目指す。
◆FC町田ゼルビア ゼルビアは東京・町田市の樹・ケヤキ「zelkova」(ゼルコヴァ)と、同市の花・サルビア「salvia」を合わせた造語。1989年に創設したFC町田トップが前身。98年にFC町田ゼルビアと改称。2012年にJリーグ参入。
◆黒田 剛(くろだ・ごう)1970年5月26日、札幌市出身。55歳。登別大谷(現・北海道大谷室蘭)から大体大に進み、主にDFでプレー。卒業後はホテル勤務などを経て、94年に青森山田高のコーチに就任。95年に監督となり、総体2度、選手権3度、高円宮杯U―18プレミアリーグファイナルで2度優勝。06年、Jリーグで監督を務められる日本サッカー協会S級ライセンス(現JFAProライセンス)を取得。23年季より町田の監督に就任。同年J2を制してJ1昇格を果たす。

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