連載:NEXT STAGE~トップアスリートのセカンドキャリア
小松原学インタビュー(後編)

【前編】『Jリーグ最年少出場記録を打ち立てた早熟の天才の第二の人生 国家資格に食らいつき鍼灸整骨院を開業』はこちら>>

 元Jリーガーの小松原学にはいま、3つの顔がある。

 群馬で「Pass鍼灸整骨院」を営む院長であり、ラファーガフットボールクラブ(NPO法人)の代表として育成年代の指導に携わる。

さらに、アーティストのケアやツアーの帯同、サッカーを通じた海外留学や大会参加を支援する事業を行う株式会社Pieceの代表も務めている。

 サッカー選手としては10代の頃から世代別代表に飛び級で招集されるなど、将来を大きく期待されながら、ケガに苦しみ、若くして引退を余儀なくされた。ただ小松原は、その後の人生を考えれば、それも悪くなかったとの思いもあるという。

「僕は1981年生まれで、サッカーの世代でいえば2004年アテネ五輪世代です。同期には、阿部勇樹、石川直宏、前田遼一松井大輔、茂庭照幸、鈴木啓太らJリーグで長く活躍してきた選手も多い。ただ、みんな引退し、年齢を重ねるなか、苦労も多いと聞きます。スポーツ選手って、一部のスーパースターを除けば、遅かれ早かれ引退後、一般社会に出ることになる。そう考えると僕は、みんなより早くその経験をできましたから。

 引退すると、いろいろ大変ですよ。でも僕は24歳で引退したから、6年も専門学校に通い、国家資格を取得することができた。もし30歳過ぎまで現役を続けていたら、そこから学生に戻ることができたかはわからないし、そのパワーはなかったんじゃないかなと思います」

 朝5時半に起きて、学校のあと、深夜までバイト。そんなことができたのも、まだ20代半ばだったからだ。

中田英寿の穴を埋めるように飛躍も...24歳で引退した小松原...の画像はこちら >>
 これまでいちばん苦労した時期を聞けば、小松原は整骨院の開業(2012年)当初だったと振り返る。

「やっぱり支払いが......。お金を借りられたのはいいですけど、返さなきゃいけないですから(笑)。その頃はサッカースクールでコーチもしながら、朝練前の学生のため早朝6時に整骨院を開け、夜も深夜0時くらいまで治療をしていましたから。それでも、毎月送られてくるローン残高はまったく減ってないので、見るたびに凹んでました」

【高2でプロデビュー】

 アテネ組のなかではユース年代でキャプテンを務めたこともあった。それだけに、プロキャリアで最初に第一線から外れてしまった事実を簡単に受け止めるのは難しかったかもしれない。

「取り返しのつかないケガだったので、状況はすぐに理解しましたけどね。当時は、悔しい気持ちと頑張っている仲間を応援したい気持ちが半々でした。

『なんであんなヘタだったやつがプロで活躍できるんだ』。そう思ってしまったときもありました。ただ、いま思えば、そういう選手はコツコツと努力を重ねながら、選手として少しずつ成長し結果を出していたんだと思います。

 僕の場合は、世代別代表で飛び級したり、高2でプロデビューしたりと一気に上まで行ってしまったので、どこかで継続性だったり、真面目さが欠けていたのかもしれません。だからケガで簡単に崩れてしまった。

引退後、整骨院を始めてコツコツやってきているのは、現役時代の経験が生きているからなんじゃないかと思っています」

 ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)時代、1998年4月のセレッソ大阪戦で、17歳9日で当時のJリーグ最年少出場記録を更新した際の記憶はどのように残っているのか。小松原は、その試合で後半途中、FW関浩二に代わって入ると、呂比須ワグナーと2トップを組んでいる。

「ピッチにはヒデさん(中田英寿)や洪明甫もいました。本当はもう少し早くデビューする予定だったのですが、練習で頑張りすぎて内転筋を痛めて、数試合、出場を見送られたんです。あの頃は先輩たちを踏み倒してでも自分がのし上がってやろうと気持ちもギラギラしていました。

 デビューできたことは素直にうれしかった。ただ試合に出たあとが大変で......。翌日のスポーツ紙の1面に大きく取り上げられたことで、なぜか地元の特攻服を着たヤンキーが『小松原ってオマエか?』って学校(平塚学園)まで押しかけてきて。平塚の地下道を慌てて自転車でくぐってなんとか逃げましたが、別に悪いことをしたわけでもないのに何だったんでしょうね(笑)」

【2学年上の黄金世代とともに......】

 翌1999年は、高3ながらペルージャへ移籍した中田英寿の穴を埋めるようにリーグ戦(J1)25試合に出場。1000万円を超えるような年俸を手にし、高校生らしくない生活を送っていたと回想する。

「朝、学校に行って、練習時間になると門の前にタクシーが止まっていて、夜、寮に戻ったら洗濯して、また次の日学校みたいな。高校生ながらプロの試合に出ていたものの、何かあると子ども扱いされる。

都合よく大人扱いされたり子ども扱いされたり、ノイローゼっぽい気持ちになったこともあります。

 満足に授業に出られず、修学旅行にも行けなかった。けど、周りの友達がすごく助けてくれました。学生ながら勝利給や出場給ももらっていたので、お返しにクラスメートと松屋に行ったりした時は『オレの奢り』と大盤振る舞いしてましたね(笑)」

 飛び級で招集された1998年6月のアジアユースの一次予選では、2学年上の黄金世代の稲本潤一や中田浩二らと出場し、高原直泰と2トップを組んだこともあった。彼らがその後A代表にステップアップし、海外で活躍したことを思えば、小松原にも高い目標があったと想像するのが自然だ。

「当時U-19日本代表は清雲栄純監督で、清雲さんに『チームで一番年下なのに、オマエがいちばん生意気だ』と言われた時のことは鮮明に覚えています。もちろん僕もA代表に入って、海外でプレーしたいという夢はありました。実際、僕はYES、NOがはっきりしたオープンな性格ですし、海外に行ってもうまくやれたんじゃないかと思ったりします。

 ただ、1999年に平塚はJ2に降格。当時はメインスポンサーのフジタの撤退などもあった時期で、それどころじゃなかったというか......。チームも一気に若返り、クラブから『学を中心にいく』とか言われて、目の前のことに無我夢中だった気がします」

 そんななか2000年に負ったケガが選手生活を縮めることになってしまった。

「1ゴールしたサガン鳥栖戦で、相手にタックルされて途中交代......。

試合後に着替えて、靴を履こうとしたら、足の甲のあたりが"饅頭"みたいに腫れ上がっていたんです(左足第5中足骨骨折)。ただ、翌日にレントゲンを撮ったものの、ドクターからは『捻挫で問題ない』と言われたので、痛みを抱えながらプレーを続けていました。そして左足をかばっていると、そのうち右足に負荷がかかって右足まで痛めてしまった。目の前が真っ暗になりました」

 2001年末に湘南(2000年にベルマーレ平塚は湘南ベルマーレに改称)から契約解除を言い渡され、2002年はヴァンフォーレ甲府に新天地を求めた。だが、両足に痛みを抱えたなかパフォーマンスは上がるはずもなかった。

「甲府に移籍しても状態が上がらずに、最後は世代別代表時代の先生に相談しました。すると、両足を手術するしかない状況で、骨移植もしました。やはり、2000年に右足を骨折していた影響でした。

 その後、専門学校に通い始めた頃に自分のケガについて知りたくて当時のレントゲンを取り寄せたところ、画像に骨折線が写っていました。あとからどうこう言ってもしょうがない問題です。ただ、そんな経緯もあって、トレーナーの存在は本当に大事だと実感しましたし、骨のことをきちんと理解したくて柔道整復師の道を選んだのかもしれません」

 最後に現役時代のどんなことがいい思い出として残っているのか、と聞くと小松原はこう答えた。

「あらためてそう言われると出てこないですね。

当時は楽しみながらプレーしていたとは思いますけど......。ただ、サッカー選手なんて、苦労のほうが多い。引退後も元Jリーガーって、スクールやクラブを作るだけでも、周囲で足を引っ張る人が多いですから(笑)。そういう意味で、僕が頑張って資格を取ったり、ここまで仕事をできてきたのは、経験をすべて糧にしてきたからだと思っています」

 17歳でJリーグにデビューし、24歳で引退。小松原は壁にぶち当たるたびに、反骨心を原動力にセカンドキャリアを切り拓いてきたのである。

小松原学
1981年、群馬県生まれ。1999年、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)ユースからトップチームに昇格し、4月11日のセレッソ大阪戦でJリーグ最年少出場記録(当時)を樹立。世代別の日本代表にも飛び級で選ばれるが、ケガのため出場機会には恵まれなかった。その後、ヴァンフォーレ甲府などでプレーし、2005年、現役を引退。引退後は柔道整復師、鍼灸あん摩マッサージ師の資格を取得。またザスパクサツ群馬(ザスパ群馬)ジュニア・ユース(館林)の監督として次世代の指導に携わる。

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