私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第30回
日本代表を長年支えてきた守護神の悔恨と学びと喜びと(2)
第1回◆ドイツW杯、川口能活が振り返るオーストラリア戦での誤算>>
2006年ドイツワールドカップ。グループFの日本は、オーストラリア、クロアチア、ブラジルと同組だった。
だが、その初戦で日本は逆転負けを喫した。川口能活は、オーストラリアと実際に対戦してその強さを感じたという。
「(オーストラリア相手に)自分たちが勝てると思っていたけど、実は簡単な相手ではなかったです。FWハリー・キューウェルはリバプールでプレーしていたし、FWマーク・ビドゥカもミドルズブラ、MFティム・ケーヒルもエバートンに在籍していました。前線の選手はレベルの高い選手がそろっていて、(日本は)勝てる試合を落としたというのではなく、単純に力負けした感じでした」
試合後のロッカールームは、お通夜のようだった。ほとんどの選手が何も言葉を発せず、どんよりした空気に包まれていた。2階のロッカールームから重い足取りで1階のミックスゾーンに現れた選手たちは皆、敗戦の衝撃と自分たちが置かれた状況の難しさを痛感しており、口が重かった。
「自分たちのチームは、(前年の)コンフェデレーションズカップでギリシャに勝って、ブラジルに引き分けたりして、その後の親善試合でもあまり負けていなかったんです。大会直前のドイツ戦でもいい試合ができて、自分たちへの自信と期待感が高まっていた。
でも、初戦のオーストラリア戦で逆転負けして、いきなりグループリーグ突破か否か、かなり厳しい状態に追い込まれてしまった。(チームとして)そのショックは大きかったと思います。
自分自身は負けたことの責任を感じていましたし、ひどく落ち込みました。次のクロアチア戦に向けて準備していかないといけないと思うけど、その日は気持ちが戻ってこなかったです」
その夜、川口はなかなか寝つけなかった。
なぜ、あそこで適切な判断を下すことができなかったのか。あのワンプレーさえなければ、日本は勝てたかもしれない......。さまざまな思いが駆け巡り、自らを追い込むほど反省したが、心が晴れることはなかった。
クロアチア戦に向けて始動した日本。グループリーグ突破のためには、勝利が必須だった。指揮官のジーコは、それまで継続してきた3バックをやめて4バックにシステムを変更。中盤の2列目に小笠原満男を配した。
川口はそこに、ジーコの勝利への執念を感じた。
「ジーコは初戦を落として衝撃を受けていたけど、動揺はしていなかったです。それまで結果を出してきた3バックをやめて4バックにしたことから、勝たないといけない状況に追い込まれたので、『攻撃的にいく』というジーコの覚悟と、何が何でも勝つという強い気持ちを感じました。
迎えたクロアチア戦、互いに慎重な姿勢を見せていた。淡々とゲームが進むなか、前半20分、宮本恒靖がFWダド・プルショを倒してPKを与えてしまった。イエローカードをもらった宮本は通算2枚目となり、ブラジル戦の出場停止が確定した。
PKのキッカーは、MFダリヨ・スルナだった。
「ここは絶対に止めなきゃいけないと思いました。オーストラリア戦は、自分のせいで負けてしまった。ここで決められてしまったら、ドイツワールドカップは自分のせいでグループリーグ敗退が決まってしまう。
スルナはPKがうまい選手だというのはわかっていました。(クロアチアのスカウティング)映像を見たとき、速いシュートを打っていたんです。(PKを止めるのは)難しいけど、初戦のミスを取り返さないといけない。このときは、すごく集中していました」
川口はスルナが蹴るコースを読んで、見事に止めた。
そのプレーはチームに勢いをつけたが、日本の攻撃は決め手を欠いた。
2試合を終えて勝ち点1、得失点差マイナス2の日本はグループ最下位。決勝トーナメント進出の可能性はわずかに残されていたが、そのためにはグループリーグ最終戦のブラジル戦で2点差以上をつけて勝つ必要があった。
だが、ワールドカップの舞台で世界王者のブラジル相手に、2点以上の差をつけて勝つことがどれほど難しいことか。それは、容易に理解できる。だからこそ、クロアチア戦後の選手たちの落胆ぶりは相当なものだった。
「クロアチア戦は勝てるチャンスがあったのに、ドローに終わったショックが大きかったです。まだグループリーグ敗退が決まったわけではなかったけど、(最終戦の)ブラジルに勝つのは難しい、というのは感じていましたから。
コンフェデレーションズカップでは2-2で引き分けたけど、そのときのブラジルとは別モノ。ロナウドやジュニーニョ・ペルナンブカーノ、カカ、ロビーニョ、ロナウジーニョ、アドリアーノら強力なメンバーがそろっていたし、2002年日韓大会に続く連覇がかかっていたのでモチベーションも高かった。正直、勝てる可能性は低い。
それでも、(1996年の)アトランタ五輪のときのように(日本が1-0で勝利)、やってみないとわからないところもある。
そんな川口の思いとは裏腹に、グループリーグ敗退がほぼ現実的なものとなり、チーム内には殺伐とした空気が流れていた。
殺伐としていたのは、選手たちだけではない。日本代表を応援するためにドイツまでやってきた多くのサポーターやファンもそうだった。ベースキャンプまで赴いた彼らは、過去2戦の結果を受けて苛立ちを隠せない様子だった。
最初は応援するわけでもなく、暗い沈黙が続いていたが、シュート練習が始まると、ため込んでいたものを爆発させた。選手がミスすると、「ちゃんと入れろよ!」と罵声が飛んだ。
「史上最強」と謳われながら、ひとつも勝てないまま終戦を迎えようとしている。その現実が我慢できなかったのだろう。日本代表への思い入れが深い分、尖った言葉になって、選手たちの背中を射貫いた。
「厳しい声が飛ぶのは仕方ないと思っていました。僕らの若い頃は、サポーターやファンからの罵声や怒号って、ふつうのことでしたからね。フランスワールドカップの最終予選のときとか、もうすごかったじゃないですか。
今の代表は強いので、そういうことがほとんどないですけど、その頃はサポーターの代表への思いの強さが厳しい言葉になって出ていた。自分は、それがふつうだと思っていたので、それほど気にはしていなかったです」
ブラジル戦を前にした最後の練習でも不穏なムードが漂っていたが、すべてのメニューを消化すると、選手たちはいつもどおり水分を取りながら話し合ったり、軽いジョグでクールダウンに努めたりしていた。
そんななか、中田英寿がシュート練習をするというので、川口は楢﨑正剛、土肥洋一とともにゴールマウスに立った。
「僕ら3人が代わる代わる立つなか、ヒデは100本ぐらいシュートを打ちました。それだけ打てば、最後のほうはパワーがなくなるんですけど、全然ボールスピードが落ちないんです。『全部決める』みたいな気迫がすごくて、1本、1本に魂がこもっているようなシュートでした。
このとき、僕はヒデが引退を決めていたのを知らなかったです。でも、このシュート練習を見て、ヒデは自分のキャリアのすべてをかけて次の試合を戦うんだな、というのをすごく感じました」
その姿を、他の選手たちは遠巻きに見ていた。一緒にシュートを打つ選手はおらず、やがてすべての選手がロッカーへと消えていった。
「僕らはヒデを目標にして、選手として尊敬していました。1998年のフランス大会から代表チームの中心で、ずっと彼がチームを引っ張ってきたんです」
日本が初めてワールドカップに出場した1998年フランス大会から一緒に戦ってきた中田英のシュートを受けた川口は、「ブラジル戦で決めてほしい」と願った。
(文中敬称略/つづく)
川口能活(かわぐち・よしかつ)
1975年8月15日生まれ。静岡県出身。清水市商高を卒業後、1994年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入。2年目にはレギュラーとなり、チームのJリーグ初制覇に貢献した。2001年にはイングランド2部のポーツマス入り。日本人GKとして初の欧州移籍を果たす。2003年からはデンマークのノアシェランでプレー。2005年に帰国し、ジュビロ磐田へ移籍。その後、J2のFC岐阜、J3のSC相模原でプレー。2018年シーズンを最後に、現役を引退した。その間、年代別代表、日本代表でも活躍。1996年アトランタ五輪に出場。ワールドカップには、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会と4大会でメンバー入り。国際Aマッチ116試合出場。

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