【特集】現役引退から20年
先駆者・中田英寿の記憶(4)
北中米ワールドカップの開幕が迫るなか、日本サッカーの歩みを振り返るうえで、ひとりの存在を抜きに語ることはできない。世界を舞台に闘い、日本代表の価値観を塗り替えた先駆者──中田英寿。
第4回では、キャリアのハイライトともいえるイタリア時代前期を、現地スポーツ紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』の記者が振り返る。
よい話と、そうでない話がある。でもせっかくだから、よい話からしようと思う。中田英寿がイタリアで過ごした8年間のクロニクルを順序立てて追っていけば、必然的にそうなるものだし。
中田がイタリアに住み始めたのは、1998年の夏だ。日本が初めて出場したフランスW杯で、短髪をオレンジ色に染めた日本の背番号7を、ペルージャのルチアーノ・ガウッチ会長が見初め、セリエAに戻ってきたばかりの自身のクラブに迎え入れた。推定移籍金は、私が勤務する新聞の報道では、30億リラ(約3億円)となっている。
ただしその1年半前の1996年1月に、中田はすでに本物のカルチョに触れていた。ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に所属していた当時19歳のチェントロカンピスタ(ミッドフィールダー)は、トリノの寒空の下、ユベントスの練習場にいた。黒いタイツと手袋をして、イタリアきっての名門クラブのトライアルを受けに来ていたのだ。
だが中田はユベントスに入団しなかった。テストの合否は定かではないが、この賢明なジャポネーゼはきっと、その時点でユーベに加入しても自らに出番はないと踏んだのではないか。なにしろ当時、ユベントスの中盤にはフランス代表ディディエ・デシャン、イタリア代表アントニオ・コンテ、ポルトガル代表パウロ・ソウザ、ユーゴスラビア代表ヴラディミル・ユーゴヴィッチら、各国の一線級が集い、半年後にはジネディーヌ・ジダンも加わることになるのだ。
出場機会がなければ、どんなクラブにいても意味がない──。のちにそんな風に口にした中田らしい判断だったと思える。
【黄金時代のユベントスを相手に2得点デビュー!】
ペルージャの入団会見に現れた中田は、髪の毛を黒に戻し、スーツを着て、ネクタイを締めていた。右の脛には、W杯のアルゼンチン戦でディエゴ・シメオネに削られた傷がまだ残っていたらしいが、笑顔を浮かべながらイタリア語で自己紹介をした。
ペルージャの県知事が「アジアからの旅行者が劇的に増えるだろう」と予想した通り、当地は多くの日本人記者の根城となり、ツーリストも後を絶たなかった。中田自身はオフになると、趣味のカメラを携えて1997年にペルージャを襲った地震の跡地を巡ったりしていた。地元のニューススタンドでは、中田に影響を受けたイタリア語の漫画『ナガノ』が売られていた。
つまり、どちらからも距離を縮めようとしていたのだ。
1998年9月13日、中田はユベントスとのセリエA開幕戦でデビューし、いきなり2ゴールを決めた。中田が1年半前にトライアルを受けた相手チームにはこの時、ジダン、アレッサンドロ・デル・ピエロ、フィリッポ・インザーギ、エドガー・ダービッツなど、直前のW杯で活躍したワールドクラスが揃っていたが、エレガントでスキルフルな21歳の日本代表MFは彼らと遜色のないパフォーマンスを披露。
中田はこの1998-99シーズン、リーグ戦で10得点を記録──ピアチェンツァ戦での美しいオーバーヘッドキックでのゴールも含めて。ペルージャはACミランとの最終節に1-2で敗れるも、中田がPKを決めるなどして残留を決めた。この時はシーズンふたり目の監督、ヴヤディン・ボシュコフがチームを率いており、このユーゴスラビア人監督はサンプドリアでスクデットを獲得した時に重用した選手と比較して、中田を次のように評した。
「彼は完成度の高い選手だ。ピッチ外の振る舞いを含めると、ロベルト・マンチーニのような、この競技における真のジェントルマンだね」
センセーショナルな活躍でイタリア中にファンが生まれたが、中田はあくまで中田だった。旅とファッション、アートを好むこの若者は、まだインターネットがそこまで発達していなかった当時から自身の公式ウェブサイト『nakata.net』を開設し、そこにイタリアでの日々を綴っていた。イタリア語と英語も上達していき、当時の日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエは「中田のコミュニケーション能力が高まっていてうれしい」と喜んだ。
【ローマの18年ぶりのスクデット獲得に寄与】
1999年夏にはASモナコから中田の獲得オファーが届いたが、ペルージャはこれを拒否。ローマ出身の好々爺カルロ・マッツォーネを新監督に迎え、中田の2シーズン目が始まった。前半戦で2得点と6アシストをマークすると、冬のマーケットで再び中田への人気が高まり、マッツォーネ監督の愛するASローマが推定移籍金300億リラ(約30億円)を提示すると、ペルージャは肯首。ローマの指揮官に就任して半年ほどだったファビオ・カペッロ監督が、攻撃的なMFとして獲得したのだが、それはエースのフランチェスコ・トッティのポジションでもあった。
中田はローマ移籍後5試合目となったペルージャとのアウェーゲームで、新天地での初得点をマーク。
するとローマはそのオフに、1983年以来の2度目のリーグ優勝を果たすべく、共にアルゼンチン代表のFWガブリエル・バティストゥータ、DFワルテル・サムエルらを獲得。もともとブラジル代表DFカフーもいたため、3つのEU圏外選手枠が埋まることになり、中田はローマでの実質2年目、初のフルシーズンで出場機会が激減してしまった。それでもシャツの売り上げは、トッティに次ぐチーム2位だったけれども。
しかしリーグ機構は2001年5月にこのルールを撤廃し、その2日後にローマはシーズン最大の山場を迎えた──首位チームが2位ユベントスの本拠地に乗り込んだ頂上決戦だ。
逆転優勝には是が非でも白星が欲しかったユベントスは開始から攻め立て、4分にデル・ピエロ、6分にジダンが決めて2点を先行した。窮地に立たされたカペッロ監督は後半残り30分の時点で、直前のルール変更によりベンチに置くことができた中田を、トッティと交代で投入──この大胆な采配が功を奏すことになる。
終了まで10分に差し掛かろうとした頃、中田は雨がしたたるピッチの中央でボールを持つと、右足を振り抜いて鋭いミドルシュートを沈めた。反撃の狼煙を上げた後、再び強烈な一撃を見舞うと、ユベントスの守護神エドウィン・ファン・デル・サールが球を弾いたところをヴィンチェンツォ・モンテッラが詰めて、ローマは勝点1を持ち帰った。
【消防車に乗ってサイレンを鳴らしながら帰宅】
「今日はイタリアに来てから最高の1日になったよ」と中田は試合後に言い、珍しく感情を表に出した。
以降の5節を無敗で乗りきったローマは18年ぶりのスクデットを手にした。首都の街では大勢の熱狂的なサポーターが歓喜に沸いた。
トッティは2018年に出版された自伝で、この時のことを詳しく綴っている。チームの祝勝会で、選手やコーチ、関係者が歌い、飛び跳ね、抱き合い、酒を浴びているなか、中田は隅のほうでひとり、本を読んでいたという。
「少ししたら、もう帰りたくなっちゃって」と、のちに中田は明かしている。
「だからオリンピコのトンネルで会った消防士に僕のシャツを渡して、その代わりに家まで送ってもらったんだ。サイレンを鳴らしながらローマの街をドライブした時のことは、忘れないよ」
そんなマジカルな経験は彼のチームメイトもしていないだろう。
(つづく)
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(3)を読む>>>中田英寿がセリエAにやってきた! またもワールドカップ出場を逃したイタリアサッカーの黄金期回想録

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