【特集】現役引退から20年
先駆者・中田英寿の記憶(5)
北中米ワールドカップの開幕が迫るなか、日本サッカーの歩みを振り返るうえで、ひとりの存在を抜きに語ることはできない。世界を舞台に闘い、日本代表の価値観を塗り替えた先駆者──中田英寿。
第5回(最終回)では、指揮官との不適合もあり、少しずつ"インパクトの薄い選手"になっていったイタリア時代後期を『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙記者が振り返る。
ここからは、"そうでない話"のほうをしようと思う。舞台はパルマ、ボローニャ、フィレンツェ──人生を謳歌する人々の多い美しい3つの街で、対照的に、中田英寿のイタリアでの日々は少しずつ暗くなっていった。
2001年6月にローマでスクデットを獲得した中田はしかし、自身の居場所はそこにないと感じていた。10代の頃にユベントスに入団しなかった時と同じく、「プレーしなければ意味がない」と考えていたのだろう。優勝後にクラブがこちらもアタッカーのアントニオ・カッサーノを迎えていたため、状況を冷静に分析していたはずだ。
ACミランから中田の照会の連絡が何度も届き、ローマのフランコ・センシ会長は7月に、「ミランはマヌエル・ルイ・コスタを獲れなかったら、中田を加えたいようだ」と報道陣に話した。するとミランはルイ・コスタの獲得に成功し、中田は結局、パルマに推定移籍金550億リラ(約34億円)で移ることになった。
「昨季はあまりプレーできなかったけど、ここではより多くの出場機会があると思う。それにパルマでは静かな生活を送れるでしょう。
パルマを統率したレンツォ・ウリビエリ監督は「中田はよく走る。私好みの選手だ」と言って、自身の堅実な戦術に見合うと喜んだ。中田は開幕前の合宿でチーム1の肺活量を記録し、監督の言葉を証明したが、いざシーズンが始まると、ピッチ上ではあまり目立たなかった。
キャリアで唯一のチャンピオンズリーグ──予選ではあったが──のリール戦では、トップ下で2試合にフル出場しながら、これといったインパクトは残せず、チームは2試合合計1-2で敗退してしまう。
【ボローニャで恩師マッツォーネと再会】
リーグ戦でも序盤から黒星が先行していくと、シーズン中に監督を3度も変えることに。最終的にセリエAは10位で終えたが、コッパ・イタリアで決勝まで駒を進めた。中田は得意とするユベントスを相手に、敵地での初戦で後半追加タイムにゴール。ホームでの次戦でもコーナーキックから試合唯一の得点をアシストし、2試合合計2-2ながら、アウェーゴール差で優勝を遂げた。
「ユベントス戦では、幸運が味方してくれますね」と試合後に、中田は報道陣に冗談を言った。このコッパ・イタリアはパルマのクラブ史上最後のタイトルとなっている。
自国で開催された2002年W杯でベスト16に入った後、パルマに戻ってくると、そこにはまた新しい指揮官がいた。
チェルシー、ミラン、パリ・サンジェルマン、そしてペルージャも中田を迎えたがっていたが、ペルージャで師事したカルロ・マッツォーネ監督に誘われて、ボローニャに期限付きで移籍。前のシーズンまでブレシアを率い、ロベルト・バッジョやペップ・グアルディオラ、アンドレア・ピルロら、新旧のテクニシャンたちと心を通わせ、彼らの力を最大限に引き出していた名伯楽は、中田とも似たような関係を築いていた。中田は打ち明ける。
「マッツォーネさんと電話で話して、即座に気持ちがほぐれていくのを感じました。彼のことはすっかり信頼しているので。パルマのファンには、自分の価値を証明しきれなくて、申し訳ないと思っています。監督に自分のポジションではないところで起用されたとしても、プレーの責任は自分にあるので」
私が勤務する新聞は当時、「この冬一番の新戦力だ」とボローニャに加わった中田を評し、新天地で最初のトレーニングには6000人ものファンが集まり、中田の公式サイトのアクセス数は倍増。しかし2003-04シーズンの後半戦は17試合に出場し、直接FKからのゴールを含む2得点に終わり、期待されたほどのインパクトは与えられなかった。ボローニャは正式契約を結ばず、パルマはフィオレンティーナからのオファーを受け入れて、中田は花が咲き誇る街フィレンツェへ向かった。
【「人々がもっと旅をすれば、差別や偏見は減るはず」】
芸術を愛する中田とフィレンツェの相性は最良にも思われたが、ここでの1シーズンはイタリアで最も低調なものとなってしまう。第9節のレッチェ戦では3アシストを記録したが、それ以外にこれといった活躍がなく、後半戦は出番を減らし、無得点のままシーズンを終えた。16位でなんとか残留したチームのサポーターは中田をスケープゴートのひとりとし、スタンドでは"ナカタストロフェ"という造語──ナカタとカタストロフェ(大失敗の意)の組み合わせ──のバナーが掲げられる時もあった。
2005年の夏に、中田のイタリアでの生活は終わりを告げた。イングランドのボルトン・ワンダラーズへ期限付きで移り、そのシーズンの後に行なわれた2006年W杯を最後に彼は現役を退いた。
2005年10月にはイタリア政府から、イタリア連帯の星勲章──イタリアを離れた人か外国人に与えられる最高勲章のひとつ──が授けられた。国外でイタリアの印象を上げた功績が認められたものだ。
中田はその後も旅を続け、アフリカの難民キャンプを含む世界各地を訪れ、こんな言葉を残している。
「人々がもっと広く旅をすれば、くだらない差別や偏見が少なくなると思う」
地球人ヒデトシ・ナカタはイタリアに大きな足跡を残した。このストーリーは徐々にトーンを落としていったが、中田はいつイタリアに戻ってきても、多くの笑顔に大歓迎される。ユベントスのファンだけは、ちょっと違うかもしれないけれども。
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