スピードスケート・髙木美帆の引退で振り返る15歳で経験した初...の画像はこちら >>
 金2、銀4、銅4──五輪で計10個のメダルを手にした髙木美帆(TOKIOインカラミ)が、今年のミラノ・コルティナ五輪後、スケート人生に幕を下ろす決断をした。

「引退を決めるにあたり、大きな出来事があったわけではなく、私のなかで少しずつ自分が求めるアスリート像になりきれていないと感じる時間が増えていました」

 引退発表から約1カ月後の4月6日、都内で行なわれた会見で決断までの経緯をこう話した。

「『スピードスケート選手やアスリートとしてどうありたいのか』と考える時間が、特にこの2年ぐらい増えてきたのが大きい(理由)かなと思っています。リザルトが少しずつ悪くなっていたり、タイムを伸ばせないことに対してフラストレーションが溜まっている部分もありましたが、それを8年前や4年前のような強い気持ちで、さらにもっと上に行こうと押し上げていく情熱みたいなものが少しずつなくなっているというのを感じていました。

 スピードスケートに対して本気になれてないというわけではなくて、自分のスピードスケートに対しての向き合い方が少しずつアスリートとしてだけではなく、人生の一部になっていると感じました。そう思った時に、私自身をここまで引っ張り上げてくれた"アスリートとして挑む時間"が減ってきているのであれば、今が退くタイミングなのかなと受け入れました」

【多くの支えがあって活躍できた】

 多くのメダルを獲得し、世界のトップで活躍してきた髙木は、謙虚に自分のスピードスケートを振り返る。

「私がラッキーだったのは、ジュニアの頃にスケート連盟のジュニアを育成するプロジェクトが始まり、私はちょうどそのど真ん中で最初から最後までそのサポートを受けられた世代のひとりだったことです。

 技術面だけではなく、体の使い方やケアも学ぶことができ、自分の体を扱うというのがどういうことなのかを学べたのは大きかったと思います。

 最終的に大きなケガなく世界のトップで戦えたのは、スケート連盟に関わっているトレーナーさんや医科学のサポートスタッフ、コーチの尽力のおかげだと強く感じています。そのサポートがあったからこそ、自分の技術を向上させるためのトレーニングを毎日積み上げることができました。自分のポテンシャルが高かったからというよりは、過ごしてきた環境が私のポテンシャルを最大限まで引き出してくれたのかなと今は感じています」

 あくまでも周りのサポートのおかげと語るが、やはり長い時間をかけて自分と向き合い、スピードスケートに打ち込んできたからこそ成し遂げられた偉業の数々だったことは間違いない。その姿勢は10代のころから変わらなかった。

【怖さを感じた初めての五輪】

 2009年12月のバンクーバー五輪代表選考会に15歳で出場した髙木。1500mで優勝すると、1000mでも3位に入り、ともに五輪代表に選出された。彗星のごとく現れたスーパー中学生に、世間の注目は一気に集まった。

 経験したことのないプレッシャーのなかで髙木が経験した初めての五輪は、1000mで35位、1500mでは23位だった。

小平奈緒らとともに代表になっていたチームパシュートでは銀メダルを獲得したが、出場機会がなかった。それについては「ここでメダルをもらわなくてよかったと思う」と冷静に話していた。

 五輪から約半年後の夏、高校1年生になった髙木は五輪での発言をこう振り返っていた。

「もし、パシュートでメダルをもらったとしても自分の力じゃないという思いもありました。『メダルを持っているということで、次の大会に対する意欲が落ちても......』という感じもありましたし、自分はまだまだだから、これでいいかなと考えていました」

 大舞台で戦う先輩たちの姿を間近で見て、大きな刺激とともに五輪の残酷さも知ったという。

「(五輪は)怖いですね。真剣にスケートに取り組んでいる人たちが、その大会だけに懸けて集まる場所だから、緊張するのは当たり前だし、それでも力を出さなければいけない。そういう場に立つ資格を考えれば、(これまで)夏はサッカーをやってから、(冬に向けて)スケートをしていたので、そんなに五輪に懸けていたわけではありませんでした。だから、今度五輪に行く時は、覚悟をしていかなければいけないと思いました」

 2010-2011年シーズンからは「経験を積みたい」と熱望してW杯にも参戦するようになった。だが、2012年と2013年は、世界ジュニアで総合優勝を果たしながらも、シニアでの戦いは厳しく、数回一桁順位にはなったものの、世界の壁を越えるほどではなかった。

 そして2014年ソチ五輪シーズンは、大学に入学して環境が変わったなかでW杯も下のBディビジョンで滑ることが多く、五輪代表を逃した。その時の思いを、のちにこう話していた。

「その時に感じていたのは、高校3年間は甘えていたな、ということでした。ソチ五輪をすごく意識していたとは言いきれないし、競技よりも学校を優先した時もあり、『どうにかなるんじゃないかな』という気持ちもあったと思う。だから、ソチ五輪の代表になれなかった時は、姉の菜那が選ばれたから悔しいではなく、『自分がやってきたことが足りなかったな』と気がつきました。ソチ五輪はまだ19歳だから、平昌五輪へ向けてやればいいという気持ちもどこかにあったと思う。だから、次の4年間は、平昌ですべてを出しきるんだという思いでやっていこうと考えました」

【強くなったきっかけと出会い】

 そんな髙木にとって幸運だったのは、2015-2016年シーズンからオランダ人のヨハン・デ・ヴィット氏が日本代表のナショナルオールラウンドチームのヘッドコーチに就任したことだった。

 ヨハンヘッドコーチが就任する前の2月に行なわれた世界距離別選手権では、姉の菜那や菊池彩花と組んだチームパシュートで初優勝を果たし、世界が見えたように思えたが、個人出場はマススタートのみで、ほかのふたりも個人種目は10位台。「自分たちが強くなった」と実感できる優勝ではなかった。

 だが、ヨハンヘッドコーチが就任後の2016年世界距離別のチームパシュートでは、W杯2勝で結果を残し警戒されたなかで、オランダに0秒19差の2位。さらにW杯ファイナルでは平地世界最高記録を更新し、オランダを下して種目別総合優勝を果たした。個人の1500mと1000mでもW杯総合は6位、10位と世界と戦える手応えをつかんだ。

 何が変わったのかと言えば、ヨハンヘッドコーチによるフォーム矯正などがうまく噛み合い、スピードアップしたことがひとつある。髙木もその変化を大きく感じていた。

「ヨハンが来てくれたことで、今までやってきたことがうまくつながってきました。昨季までは、集中しきれずに毎日を闇雲に過ごしていたように思いますが、今季は試合で結果を出すために練習するというのが明確に見えてきた。1000mや1500mをどう滑ればレースで100%出しきれるかという戦術的なものも考えられるようになったことで、以前より練習にも集中できるようになり、体の動きもしっかり感じられる。ヨハンからも常に何かしらの注意点を言われるので、些細なことから意識できているのだと思う」

 ここから世界で輝き続ける髙木の活躍が始まった。

後編>>髙木美帆が輝いた裏にあったスピードスケートと向き合い続ける難しさ

Profile
髙木美帆(たかぎ・みほ)
1994年5月22日生まれ。北海道中川郡幕別町出身。
中学3年生で2010年バンクーバー五輪に出場して以降、4大会に出場し、金メダル2、銀4、銅4の計10個のメダルを獲得。世界距離別選手権には7大会出場し、チームパシュートを含めて金メダル6個など、16個のメダルを獲得した。W杯個人種目では1500mで5季連続を含む6回の種目別総合優勝のほか、1000mでも3季連続総合優勝を果たしている。さらに世界オールラウンド選手権では、2018年に男女を通じて欧米人以外初の総合優勝を果たし、世界スプリント選手権でも2020年に総合優勝を果たして日本人初の世界選手権2冠を達成。多くの偉業を達成し、日本を代表する女子スピードスケート選手として活躍し続けた。

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