関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(19)

(連載18:「君程度(きみていど)」と言われて新日本を退団 新生UWFに移籍し、6万人動員の東京ドームで迎えた異種格闘技戦>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第19回は、新生UWF解散と、新団体設立までの経緯を語った。

【プロレス】新生UWFの解散後、藤原喜明に舞い込んだ新団体設...の画像はこちら >>

【人気爆発中のUWFにあった対立】

 1988年5月の再興から爆発的なブームを起こした新生UWFだったが、1991年1月に突如、解散した。

 主な原因は、エースの前田日明とフロントの対立だった。問題が表面化したのは1990年10月25日の大阪城ホール大会。メインイベントで船木誠勝を破った前田が試合後の控室で、フロントの業務遂行が不適切であるかのように糾弾したのだ。この発言を受け、UWFは同27日に臨時取締役会を開き、5カ月間の出場停止処分を決定。翌日に記者会見で発表した。

 前田とフロントの対立が表面化するなか、12月1日に長野・松本市の運動公園総合体育館で大会が行なわれた。そのメインイベントでケン・シャムロックを破った船木が、マイクを持って前田を呼び込むと、前田がリングイン。さらに、藤原を含む全選手がリングに上がり、全員で万歳をして一致団結していることをアピールした。

 この行動を受け、UWFは12月7日に会見し、所属12選手との契約解除を発表した。事実上の解雇通告。UWFは1984年4月に旗揚げした第一次からを含め、6年あまりで団体としての歴史を終えた。

 しかし、問題はそれで終わらなかった。松本で一致団結した選手たちは新たな団体の設立に動いたのだが......年明けの1991年1月、横浜市内の前田の自宅で行なった選手会議で話し合いは決裂。前田が解散を宣言し、UWFは完全に解散となった。

 前田の解散宣言までの激動の約2カ月の間、UWFのフロントサイドは、出場停止だった前田に代わって、藤原を中心にしていくことを表明していた。あらためて解散の真相を尋ねると、藤原は不快感をあらわにした。

「なんで解散したか? そんなもん知らねぇよ。前田とかほかのヤツらに聞いたらいい。俺はゴタゴタには関わりたくねぇからな」

【解散までのゴタゴタに「呆れたよ」】

 前田とフロントの対立が表面化した大阪城ホール大会の前後にも、会議は複数回あったというが、「俺は面倒くさかったし、会議なんか行ってないんだよ。また始まったかって感じだったな」と振り返る。前田から相談されることはなかったのだろうか。

「記憶にないからな......たぶん、相談はなかったんじゃないかな。俺は(フロントに対して)不信感も何もなかったよ」

 一時的に選手が一致団結をした松本市の大会では、藤原も最後にリングに上がった。大会後には、選手全員が出席した記者会見にも臨み、前田の隣に座った。

あの行動は、前田サイドを支持したことの表われだったのだろうか。

「あいつらが『ここに座ってください』っていうから座っただけだよ(苦笑)。リングに上がったのも、選手がそろってリングに集まるっていうから仕方なくで、内心では『しょうがねぇな』って。あの松本では『好きなようにやれよ』って気持ちだったし、あいつらと行動を共にしようっていう感じじゃなかった。『どうだっていい』ってのが本心だったな」

 年明けに前田の自宅で行なわれた会議には、藤原は出席しなかった。会議の内容については、出席した複数の選手がさまざまな証言をしているが、藤原はその内容を一切知らないという。

「俺は、この業界のゴタゴタにほとほと嫌気がさしていたし、あの解散にも呆れたよ。当時は、『これでプロレスをやめることになったって、調理師でも何でもいろんな仕事ができるし......』って思ってたな」

 そんな藤原に、ある人物から連絡が入った。1976年に大手メガネ販売チェーン「メガネスーパー」を創業し、1990年秋にプロレス団体「SWS」を旗揚げしたばかりの田中八郎だった。

【舞い込んだ新団体設立のオファー】

「メガネスーパー」は、1989年8月13日の横浜アリーナ大会からUWFを後援するなど、団体を支援していた。それを機にプロレス界に興味を抱いた田中は、本業で築いた巨額の資産をバックに、1990年5月にSWSを設立。全日本プロレス天龍源一郎、新日本プロレスのジョージ高野ら、主要団体のトップ、中堅レスラーを引き抜くなど既存の団体に脅威を与えた。

 藤原は、UWFを後援していた縁から田中と面識があったという。

「UWFが解散ってなった時に、田中さんから電話がきたんだよ。それで東京駅の近くのホテルの喫茶店でお会いしたんだ。その時に田中さんから、『新しい団体を作るから船木と鈴木(みのる)を引っ張れ』って言われてな。

 だけど、そこで返事はしなかった。家に帰って落ち着いて考えてみると、あいつらに『来てくれ』って頭を下げるのは嫌だなと思ったし、もっとゴタゴタしそうな予感があったから、連絡もしなかったよ。田中さんの言うことも聞かないとなると、本当にやめることになるかと思ったけど、『その時はその時でなんとかなるだろう』って。ちょっと休んで、次のことは適当に考えようと思いながら保留してたんだ」

 しかし、事態は動く。

「そうやって考えていたある日の朝、俺の家の前に車が止まったんだ。ウチの母ちゃんが、車のなかにいたやつに『どうしたの? 入れば?』って言ったら『ここで待ってます』って答えたから、おにぎりを持っていったらしいんだよ。

 そのうちに俺が起きて、母ちゃんに『どうしたんだ?』って聞いたら、『船木さんと鈴木さんが来てる』って言うから家に入れてな。そうしたらふたりが『なんとかしてください』って言うんだよ。そこで、『そういえば、田中さんが『船木と鈴木を引き抜け』って言ってたな』と思い出したんだ。

それで、『よし! じゃあ、やっちまうか』って即決して、田中さんに『やります!』って電話したんだよ」

【船木と鈴木に「なんでウソをつくんだ」】

 藤原は田中に対して、団体の道場について相談すると、「金は俺が出す」と即答されたという。

「それで、俺が知り合いの不動産屋さんに行ってな。『できれば足立区で、どっかありますか?』って聞いたら、ちょうどいい倉庫があったんだ。田中さんに電話したら、『よし、そこを借りろ』って決めてくれたんだよ。それだけじゃなくて、『来週、浅草のホテルで記者会見をするぞ』ってなってな。ビックリするぐらい、パッパッパって一気に決まったんだ」

 1991年2月4日、浅草ビューホテルで新団体の設立が発表された。UWF解散から旗揚げまでわずか2カ月のことだったが、藤原はあらためてこう強調した。

「何かのインタビューで、船木と鈴木が『藤原さんに来てくれって言われた』って言ってるのを見たんだよ。でも、さっきも言ったとおり俺が引っ張ったんじゃない。あいつらが『なんとかしてください』って頼むから、『おぉ、そうかそうか』ってなっただけ。

 だから、『なんでウソをつくんだ。お前らが俺のところに頼みにきたんじゃないか』って思ってたんだけどな......最近わかったのは、UWFが解散した時にふたりは空中(正三/ミスター空中)さんに相談しに行ったらしいんだよ。

そうしたら空中さんが『藤原のところに行ったほうがいいぞ』って言ったらしいんだ。俺から『来い』と言ったことは絶対になかったよ」

 空中は、藤原が敬愛するカール・ゴッチの娘婿で、UWF時代からレフェリーを務めていた。新団体にも参加し、レフェリーと、外国人を招聘する役割を担った。

 そして、新団体名は「新UWF藤原組」(後に「プロフェッショナルレスリング藤原組」に変更)に決まり、3月4日、後楽園ホールで旗揚げ戦を迎えた。

(敬称略)

つづく

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