私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第30回
日本代表を長年支えてきた守護神の悔恨と学びと喜びと(4)

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第3回◆「史上最強」の日本代表はなぜ崩壊したのか>>

 2006年ドイツワールドカップ後、日本代表は2010年南アフリカワールドカップに向けて、イビチャ・オシム体制でスタートした。だが、2007年11月にオシムが脳梗塞で倒れ、後任には1998年フランスワールドカップで指揮を執った岡田武史が就いた。

 当初、岡田はオシム路線の踏襲を試みたが、2008年3月のワールドカップアジア3次予選、アウェーのバーレーン戦で敗れると(0-1)、岡田は自らのやり方にシフトした。GKも川口能活から楢﨑正剛に代えた。

 川口はその後、レギュラーの座を取り戻したが、2009年9月に右脛骨骨幹部骨折で全治6カ月の重症を負って、表舞台から姿を消した。

 2010年のワールドカップイヤーを迎えてもなお、川口はリハビリを続けていた。Jリーグの試合にも出場していなかったが、2010年5月10日、南アフリカワールドカップの代表メンバー発表会見で岡田は川口の名を読み上げた。第3GKとして招集し、2002年日韓ワールドカップにおける中山雅史のような、チームをまとめる役割を求めた。

「メンバー発表前までケガをしていたんで、(自分の名前を)呼ばれたときは本当にびっくりしました。ワールドカップのメンバーに入ったこと自体、奇跡で。呼んでくれた岡田さん、回復をサポートしてくれたジュビロ磐田のスタッフ、それに、常に支えてくれた家族やすべての人に感謝でした。プレーする可能性は低かったけど、これまでの経験を生かして、何かを残さないといけない、という強い覚悟がありました」

 ワールドカップの第3GKは、出場機会が限りなくゼロに近い。過去、川口はフランス大会とドイツ大会でレギュラーとして6試合に出場している。それほどの実績がありながら第3GKとしてのメンバー入りに応じたのは、過去3大会の経験があったからだった。

「フランスのときはノブさん(小島伸幸)、ドイツのときは土肥(洋一)さんが第3GKとして自分を支えてくれたんです。そういう存在が重要だというのは感じていたし、今度は自分がその立場で呼ばれた。南アフリカワールドカップでは(過去に)自分が助けられたように、正GKをサポートしようと思っていました」

 川口は日本代表への"最後のご奉仕"と心に決め、チームに合流した。

 しかしワールドカップ本番を前にして、日本代表は壮行試合の韓国戦で0-2と敗戦。現地入りしてからも、イングランド(1-2)、コートジボワール(0-2)に敗れ、なかなか結果を出せずにいた。

「僕が代表に合流してからなかなか勝てず、みんな、ちょっと自信を失っている感じがありました。そのため、本番を目前にしてシステムを替え、選手を大幅に入れ替えることになったんです。

 直前になって、レギュラーを外れた選手たちの悔しさはすごく理解できました。その際、ドイツワールドカップを経験している(中澤)佑二、イナ(稲本潤一)、玉ちゃん(玉田圭司)らが(彼らに寄り添うなど)チームのために動いてくれたのが大きかったです」

 チーム大改造によって、本番目前でレギュラーからサブに回った選手の表情には、そのショックと悔しさが滲んでいた。川口もそういった選手たちのケア、サポートに努めた。

 GKも川島永嗣が抜擢され、ポジションを失った楢﨑の気持ちは誰よりも理解していた。ただ、同じポジションでお互いのことをよく知るがゆえ、楢﨑にはあえて声をかけず、そっと見守っていた。

 一方で、中村俊輔に対しては積極的に声をかけた。

 中村はドイツワールドカップでは風邪によるコンディション不良で思うようなプレーができず、南アフリカワールドカップに向けては「今度こそ」という気持ちで臨んでいた。周囲も攻撃の中心選手として大きな期待を寄せていたが、突然レギュラーの座を失った。川口には、その悔しさと無念さが痛いほどわかっていただけに放っておけなかった。

「俊とは(横浜F・)マリノス時代に一緒にプレーしていたし、言い合える関係だったので、(彼の)部屋に行っていろんな話をしました。なるべく気持ちが落ち込まないような雰囲気づくりを心がけました」

 そのおかげだろう、中村は後日「(川口に)だいぶ助けられた」という話をしている。

 当時のチームでは、「ドイツ(の悪夢)を忘れるな」という言葉が選手間で浸透していた。ドイツワールドアップでは「史上最強」と言われながら、チームがひとつになれず、1勝もできずにグループリーグ敗退という結果に終わった。その事実を南アフリカワールドカップに臨む選手たちは強く認識しており、個々がそのことを心に留めて行動した。

「惨敗したからといって、ドイツワールドカップのことを全部"悪"として扱うのは違うかなと思うし、『チームのために』という意識の重要性は、ドイツでの結果があったからこそ、より理解できたと思うんです。南アフリカワールドカップではドイツを経験したメンバーも多くいましたから、彼らはもうあんな思いをしたくないと思っていた。

 その思いを、長谷部(誠)とか、(大久保)嘉人、(本田)圭佑たちが汲んで、みんなで戦う気持ちを盛り上げてくれた。

大会初戦のカメルーン戦に勝ってからは、より(チームが)ひとつになった感がありました」

 結果、日本は南アフリカワールドカップで前評判を覆す快進撃を見せ、グループリーグを突破。ラウンド16でパラグアイ相手にPK戦の末に敗れたが、チームは確かに"ひとつになって"ワールドカップを戦い抜いた。

 川口は、チームがグループリーグで2勝してベスト16まで進んだことで、自分の役割を果たせた、という満足感を得ることができた。

「パラグアイ戦に負けたあと、(メディアに対しては)『代表はまだあきらめていない』というコメントをしたんですけど、正直、自分のなかでは代表チームにおける自分の役割は終わった、選手としてやるべきことはもうないな、と思いました。

 ワールドカップでは、過去3大会はプレーヤーとして関わり、自分がプレーしたときには勝てなかったけど、(第3GKで臨んだ4度目の)南アフリカ大会ではみんながひとつになって勝つことができた。自分を(メンバーに)呼んでくれて、最後にすばらしい経験をさせてくれた岡田さんには、本当に感謝しかなかったです」

 川口はその後、2013年まで磐田に在籍し、J2のFC岐阜、J3のSC相模原でプレーしたあと、2018年シーズンを最後に現役を引退した。

 引退セレモニーには、盟友の楢﨑が花束を持って労いの言葉を述べた。そして翌年、楢﨑の引退セレモニーにおいて、今度は川口が駆けつけて花束を手渡した。川口と楢﨑は長年、日本代表の守護神の座を競い合ってきたライバルだが、同じGKだからこそ、理解し合えることもたくさんあったのだろう。

 川口は今、古巣・磐田のGKコーチに就任。南アフリカワールドカップでともに戦った川島を指導しながら、日本の将来を担う後進の育成に尽力している。

「まさかワールドカップで一緒に戦った永嗣と、磐田でともに仕事をするとは思っていなかった(笑)。

永嗣は完成された選手ですが、さらによくなるところがあるし、そこはコミュニケーションを取りながら進めています。彼から学ぶこともあるし、(これからも)自分の経験などを生かして、彼を含めてチームにいるGKが成長する手助けをしていきたいですね。

 そうして、彼らが活躍して、チームの勝利に貢献してくれる姿を見るのが楽しい。それが、今の自分の生きがいです」

 川口は、そういって笑みを見せた。

 1996年アトランタ五輪から2010年南アフリカワールドカップまで14年間、川口は日の丸をつけて戦ってきた。2021年に行なわれた東京五輪では五輪代表のGKコーチを務め、今や日本代表の正GKとなった鈴木彩艶、大迫敬介らを指導した。

――今度は、コーチとして日本代表に関わっていきたい、という思いはありますか?

「そうですね。代表は自分にとって特別な場所ですし、あらゆる面で成長させてもらった。いつか指導者として日本代表に、という思いは強くあります」

 川口には、日本代表という肩書きがよく似合う。

(文中敬称略/おわり)

川口能活(かわぐち・よしかつ)
1975年8月15日生まれ。静岡県出身。清水市商高を卒業後、1994年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入。

2年目にはレギュラーとなり、チームのJリーグ初制覇に貢献した。2001年にはイングランド2部のポーツマス入り。日本人GKとして初の欧州移籍を果たす。2003年からはデンマークのノアシェランでプレー。2005年に帰国し、ジュビロ磐田へ移籍。その後、J2のFC岐阜、J3のSC相模原でプレー。2018年シーズンを最後に現役を引退した。その間、年代別代表、日本代表でも活躍。1996年アトランタ五輪に出場。ワールドカップには、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会と4大会でメンバー入り。国際Aマッチ116試合出場。

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