野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・権藤博(前編)

 先発、中継ぎ、抑えの投手分業制──。現在のプロ野球では不可欠のシステムだが、かつて、昭和の時代は「完投してこそ投手は一人前」という考えが主流だった。

当時もリリーフ専任的な投手はいたが、セーブ制度の導入は1974年(昭和49年)。それ以前は評価の基準も表彰もなく、リリーフは先発が務まらない投手の仕事とされ、周りから下に見られていた。

 そんな時代に、ただひとり投手分業制を提唱し、日本球界で初めて実行した野球人がいる。80年代から90年代にかけて、中日、大洋(現・DeNA)、日本ハムで監督を歴任した近藤貞雄である。

 99年に野球殿堂入りを果たした近藤だが、監督としては82年に中日を優勝に導いたものの、それ以外の7シーズンはすべてBクラス。投手としての通算成績も平凡なもので、競技者として顕著な活躍をしたわけではない。それでも、球史に名を刻む名誉ある称号を授かり、顕彰された。大きな理由は、投手分業制を導入したことによる球界への貢献、功績だった。

 近藤が最初に分業制を提唱、実行したのは今から61年前、中日の投手コーチを務めていた65年。遥かに時代を先取りした背景には、果たして、何があったのか──。その発想、考え方の原点に迫るべく、はじめに近藤の球歴をたどっておきたい。

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【絶望のなかで生まれた代投の思想】

 プロ野球が職業野球と呼ばれていた戦前、1リーグ8球団時代の43年。近藤は旧制岡崎中(現・岡崎高)から投手として西鉄(※1)に入団した。

元号では大正14年の1925年、愛知・岡崎市に生まれた近藤は、この時、18歳。同時に法政大に入学(※2)したのは、進学を望んでいた両親への親孝行の気持ちからだったという。
※1 1943年限りで球団は解散。西武の前身に当たる西鉄とは球団としてのつながりはない
※2 法政大の夜間課程に入学し、のちに中退。野球部には所属していない

 身長176cmと、当時としては大柄な体も魅力だった近藤。入団1年目は23登板で5勝を挙げ、114回1/3を投げて防御率1.96。前年に40勝で最多勝の野口二郎が25勝を挙げた投手陣にあって、「日本初のアンダースロー投手」と言われる重松通雄に次ぐ三番手だった。ただシーズン終了後、戦局悪化に伴う球団の統廃合で西鉄は解散。翌44年の近藤は巨人に移籍する。

 沢村栄治が現役を引退し、多くの選手が兵役に出た同年、巨人のメンバーは監督兼投手の藤本英雄を含めて16名。1リーグ6球団となり、公式戦も35試合に縮小されたなか、200勝投手の藤本、通算303勝の須田博(ヴィクトル・スタルヒン)と共に、近藤は投手陣を支える。戦火が激しくなった45年はプロ野球が休止となり、近藤も4月から愛知・豊橋の工兵隊に応召した。

 プロ野球が再開した46年。巨人に復帰した近藤はチームトップの42登板で300回1/3を投げて防御率2.18。勝ち頭となる23勝を挙げ、エースの座にのしあがるかと思われた。ところが同年オフ、キャンプ地の愛媛・松山で進駐軍の車にひかれそうになる事故に遭い、右手中指の腱を切断する重傷。戦後間もない頃で十分な治療を受けられず、中指は折れ曲がったままになった。

 ボールをまともに握れない状態で翌47年は0勝に終わり、巨人を解雇。それでも選手生命が断たれたわけではなく、近藤自身、したたかに次に生きる道を考えた。自著にこんな記述がある。

「先発して完投するだけが投手の仕事ではないはずだ。代打、代走という得意技でメシを食っている選手もいる。とすれば、"代投"があってもいい。あるイニングを専門に投げる。

それで立派にやれるのではないか」

 のちの投手分業制につながる発想が、「代投」という造語とともに芽生えていた。

【30歳の若きコーチが出会った逸材】

 その後、近藤は球団内紛による選手の集団離脱に揺れる中日に拾われる。48年には、中指を使わない独特の握りによるパームボールを習得して活躍。同年に7勝、翌49年にも7勝を挙げるなど見事な復活を遂げた。この復活劇を原案に、映画『人生選手』(田中重雄監督/新東宝)が製作された。

 49年12月公開の同映画は、多くの黒澤明監督作品で知られる菊島隆三が脚本を執筆。名優の小林桂樹が主演を務めたドラマだが、巨人から川上哲治、千葉茂、中日からは投手の清水秀雄、強打者の西沢道夫に加え、近藤自身も特別出演している。

 翌50年、セントラル8球団、パシフィック7球団で2リーグ制が始動。"フォークボールの元祖"杉下茂がエースの中日投手陣で、近藤は10勝を挙げた。だが、翌年から勝てなくなり、右肩の故障もあって、球団初のリーグ優勝、日本一が達成された54年限りで現役を引退。中日から請われ、30歳にして二軍投手コーチに就任した。当時、コーチとしては異例の若さだった。

 56年から二軍監督を務めた近藤は、杉下が選手兼任監督となった59年から一軍投手コーチ。

そして、60年から二軍監督の濃人渉(元・名古屋金鯱ほか)が監督に昇格した61年。佐賀・鳥栖高から社会人野球のブリヂストンタイヤを経て、権藤博が入団する。

 剛速球と縦に割れるカーブ、落ちるシュートを武器に、権藤は1年目から大車輪の活躍。監督の濃人は「優勝のチャンスをものにするためには、このひとりの新人と心中するしかない」と覚悟を決めて起用。雨天中止以外、常に権藤が登板しているような連投状態から、「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」と称されたほどだ。

 69登板、44先発、35勝、投球イニング429回1/3、防御率1.70、310奪三振、32完投、12完封はすべてリーグトップ。当然の如く新人王に選ばれ、沢村賞を受賞した権藤は、翌62年も61登板で39試合に先発。30勝を挙げて2年連続の最多勝に輝き、362回1/3を投げて防御率2.33だった。

【酷使を止められなかった悔恨の思い】

 2年間で合計130試合に投げたなか、リリーフでの登板が47試合。エースが抑えを務めるのも分業制以前の起用法だが、明らかな酷使だった。反動で権藤は肩を痛め、翌63年は45登板で10勝、64年は26登板で6勝と成績が急下降してしまう。65年から内野手に転向したが成功せず、68年に投手に復帰するも9登板で1勝。

結局、実働8年で現役引退となった。

 後年の近藤自身の発言、記述によれば、短命に終わった権藤の野球人生が、投手分業制を発想した一因だという。当時、監督の濃人に加え、ヘッドコーチの石本秀一にも投手起用の権限があったようだが、そのなかで近藤はどういう立場だったのか。また、酷使される権藤に対し、どう指導していたのか──。中日の投手コーチ時代には監督・近藤に仕えた権藤に聞く。

「私に関しては、当時、近藤さんからの指導は何もないです。何か話をされた記憶もないです。ピッチャーをどう組むか、ということに関しても、監督の濃人さんが全部決めるわけですから。近藤さんが何かを決めたことはないと思います。で、石本さんはある程度、年齢が上だったので、指導......だけど大した話はなかったですね」

 投手コーチでありながら、新人投手に対する指導の言葉はなかった──。権藤の証言は衝撃的だが、61年の状況について、近藤はこう明かしている。

「このシーズン、僕は中日コーチ陣の一員だった。

だが、まだ若輩だった。濃人監督、石本ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」

(文中敬称略)

つづく>>


近藤貞雄(こんどう・さだお)/1925年10月2日生まれ、愛知県出身。法政大を中退し、43年に西鉄でプロ入り。翌44年に巨人へ移籍し、46年には23勝を挙げる活躍を見せた。その後、中日でプレーし、54年に現役引退。引退後は中日、大洋(現・DeNA)、日本ハムで監督を歴任し、日本球界に先駆けて投手の役割分担を重視した起用法を導入。82年には中日をリーグ優勝に導いた。既成概念にとらわれない野球を追求した"球界屈指のアイデアマン"として知られる。99年に野球殿堂入り。2006年1月2日、死去。

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