番組では、さんまのMCにより、豪華ゲスト陣を迎えながらTBSと彼の60年の歴史を多くの秘蔵映像とともに振り返る。なかでもさんまが出演した大ヒットドラマ「男女7人夏物語」のメインキャストが29年ぶりに再結集し、出演当時のエピソードを語るという大同窓会は見逃せない。

さんまをスターダムにのしあげたドラマたち
さんまの歩みを振り返ると、1980年代に出演した「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)などのバラエティ番組とあわせて、そのときどきでのドラマに出演してはテレビの世界でスターダムにのしあがってきたことがうかがえる。
さんまは芸能界に入ったとき、テレビでは大阪・毎日放送の人気バラエティ番組「ヤングおー!おー!」に、ラジオでは「ヤングタウン」(毎日放送)と「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)に出ること、それから大原麗子と堺正章と共演することを目標に立てたという。
これらのうち「オールナイトニッポン」はいうまでもなく、「ヤングおー!おー!」と「ヤングタウン」(「ヤンタン」と略称される)は桂三枝(現・文枝)らが出演して、関西では若者の絶大な人気を誇っていた番組だ。さんまは「ヤングおー!おー!」に1976年、「ヤンタン」には「オールナイトニッポン」の第2部とあわせて1979年よりレギュラー出演するようになる。毎日放送の2番組への出演は、関西での彼の人気に火をつけた。
目標のひとつであった堺正章との共演もかなり早い時期に実現している。1980年にTBSテレビで放送された堺主演の連続ドラマ「天皇の料理番」がそれだ。さんまにとってこれが全国ネットのドラマ初出演だった。このドラマの打ち上げの席でさんまは、脚本の鎌田敏夫から「いつか、きみ主演で恋愛ドラマをやりたいね」と言われたという。その約束は6年後、前出の「男女7人夏物語」で果たされることになる(「本人」vol.11)。
この間1985年には、さんまはNHKの連続テレビ小説「澪つくし」にも、関西から千葉・銚子に流れてきた醤油職人・ラッパの弥太郎の役で出演した。
ふたたび「男女7人夏物語」の話に戻せば、このドラマに自分が起用された理由について、さんまは《ドラマのプロデューサーの方が、「ひょうきん族」でやられてもやられても笑顔で立ち上がってくるブラックデビルを見て、やられてもやられても笑顔で這い上がってくる男のドラマが見たいと思ったから》と語っている(「AERA」2010年4月19日号)。このプロデューサーとは番組制作会社・テレパックの武敬子のことだろう。
30歳前後の男女の恋のゆくえを描いた「男女7人夏物語」は好評を博し、続編として翌87年には「男女7人秋物語」が放送された。さらに「男女7人」で共演したさんまと大竹しのぶを主演に、武敬子や鎌田敏夫らドラマのスタッフが再結集して映画「いこか もどろか」も1988年に公開されている。これら一連の共演がきっかけでさんまと大竹が結婚したことは周知のとおりである(のち92年に離婚)。
「男女7人」で女性人気をつかみ、同時期には写真週刊誌「フライデー」編集部乱入で謹慎していたビートたけしに代わり、「ひょうきん族」を支えたことでコメディアンとしても着実に力をつけていった。タモリ・たけしと並び「ビッグ3」と称されるようになったのもこのころだ。
テレビにおける笑いの地位は、1980年代初めのマンザイブーム以降、急速に高まっていった。さんまがドラマのメインキャストに抜擢され、かつヒットしたこと、さらに共演した実力派女優と結婚したことは、コメディアンの地位向上の総仕上げと捉えることもできそうだ。
落語修業から東京に“逃亡”した半年間
さんまの本格的なブレイクの契機となった「ひょうきん族」を世に送り出したフジテレビのプロデューサー・横澤彪は、テレビに関しては笑いに大阪も東京も関係ないという考えの持ち主だった。まだ関西と関東の笑いが明確に区分されていた80年代初めにあって、横澤は、出身や知名度を問わず、自分が見て面白いと思う芸人を集めて「ひょうきん族」をつくったという(「アサヒ芸能」2005年4月7日号)。
さんまもまた、笑いに東西の違いなどないとかなり早い時期から気づいていたのではないか。長らく関西の芸人の多くは大阪を拠点とし、番組収録のたび東京に出張するというのが人気の証しの一つでもあった。そのなかでさんまは、「ひょうきん族」に出演する関西芸人のなかでもいち早く東京に居を移している。全国的に知名度をあげるには、たしかに東京に出てメディアでの露出を増やすのが早道だから、この選択は大正解だったといえる。
もっとも、さんまが東京に住んだのはこのときが初めてではない。じつは上方落語の笑福亭松之助に1974年2月に入門してから7カ月目にして、師匠の前から姿を消し、小岩ですごしていた時期があるのだ。これは当時交際していた女性と一緒になろうとして、「ちゃんと生活できるようになったら呼ぶから」とまず単身で上京したのだという。そのうちに行きつけの喫茶店でウエイターとして働くようになった。
この店でさんまは、トイレに待たされている客がいると、中の人が出てくるまで、当時のプロ野球・巨人の堀内恒夫の形態模写や、長嶋茂雄の引退での「巨人軍は永久に不滅です」のパロディなどを披露し、笑いをとったという。また、閉店する深夜0時間際になると、大晦日でもないのに「1974年×月×日もまもなく暮れようとしております。どなた様もどうぞよい年をお迎えくださいませ」とあいさつして、帰ろうとしていた客までかえって引き留めてしまったとの話も残る。
考えてみれば、その場その場に応じてギャグを飛ばして笑いをとるというのは、現在のさんまと変わらない。
さんまはその後、1975年2月に喫茶店の主人が千葉の松戸にライブハウスを出すにあたって、その開店のショーを頼まれ、おなじみの形態模写を披露したほか、100人以上もの観客を一人ひとり舞台に上げて、あっち向いてほいをして盛り上げたという。このとき、彼は落語家の正装である着流しで登場して店主を感激させた(「週刊平凡」1986年3月14日号)。
それからほどなくして大阪から親友が迎えに来た。このころには師匠の怒りも解け、さんまは落語家修業に戻る。小岩で出会った人たちからは「頑張れよ。テレビに出るようになったら連絡しろよ!」と見送られたという。さんまが初めてテレビに出たのはそれから約1年後、1976年1月に新成人となった芸人の卵たちを集めて放送された「11PM」(読売テレビ・日本テレビ系)だった。
「60歳で引退」発言の真意とは?
さんまがテレビに出たいと思うようになったのは、家にテレビが来たときからだという。60歳の誕生日を迎えた3日後、7月4日に放送された「ヤンタン」では、自分の世代について「5歳ぐらいで家にテレビが来て、『よーしっ、このなかで頑張るぞ』と思った世代」「テレビに対する思い、売れるモチベーションがほかの世代と全然違う。うちの兄貴なんかは、逆にテレビが来るのが遅すぎた」と語っていた。
物心つくころにテレビと出会い、テレビのなかで活躍したいと思って笑いの世界に入ったさんまにとって、最近のテレビは志が低く見えるのか、批判もたびたび口にしている。2009年のインタビューでは、「昼間の番組は全部つぶしたい」との発言も飛び出した。
《たぶん、「つまらないから」ということでテレビを観なくなった人が多いんですよ。だって、実際つまんないですよ。同じニュースの繰り返しだし。(中略)もちろん情報番組としてはそれでいいんでしょうけど、「テレビって楽しい」「テレビって面白い」と思ってもらえるものを、我々は作っていくしかない。今の制作費の範囲内で》(「本人」vol.11)
テレビではあまり見られないさんまの真面目な一面である。実際に彼は「ひょうきん族」のころから、どんなに忙しくても金曜の夜だけは空けてもらい、局のディレクターや放送作家、番組共演者を集めて、長期的な戦略を立てたり、コントのアイデアを詰めたりということを続けてきたという(さんまとともに吉本興業の東京進出の先頭に立った木村政雄の証言。「アサヒ芸能」1999年9月9日)。

近年、さんまは「60歳で引退する」とたびたび公言してきた。そもそもは、2011年に「さんまのまんま」(関西テレビ・フジテレビ系)にゲスト出演した吉本の後輩の千原ジュニアから、やめどきを考えているかと訊かれ、《いつまでも年取った芸人がうろちょろしとったらテレビが面白くなくなる。
一体、「60歳で引退」発言の真意はどこにあるのか。師匠の笑福亭松之助の《ああいうの(引退宣言)は天才的ですね。お客さん引っ張るために、計算してるんでしょう。ほとんどが商売なんですわ》(前掲)との見方もあながち間違いではないのかもしれない。ただ、さんまがこれまでテレビを面白くしたいと人一倍努力してきたことを知れば、この発言は、ひょっとすると自分がいなくなった場合のことを関係者たちに考えさせるための方便なのではないか? という気もしてくる。
さまざまな憶測を掻き立てながら、さんまは還暦を迎え、結局その後もいままでどおり毎日のようにテレビに出続けている。誕生日当日、フジテレビの「ホンマでっか!?TV」の特番が組まれたのをはじめ、毎日放送の「明石家電視台」では、オール阪神・巨人など若手時代からの仲間が集まっての大同窓会が7月に3週にわたって放送された。そして今夜のTBSの特番と、これほどまでにテレビのなかで還暦を祝われたタレントはおそらく空前にして絶後ではないか。この事実をもってしても、明石家さんまこそテレビの申し子と呼ぶにふさわしい。
(近藤正高)