去る11月25日、マンガ家の長谷邦夫(ながたに・くにお)が81歳で亡くなった。一般的にはさほど知名度は高くないだろうが、赤塚不二夫のブレーン、マネージャーとしてその全盛期を支えたほか、パロディマンガの作者として、マンガ史にその名を残す。


長谷の業績はマンガ界だけにとどまらない。『タモリと戦後ニッポン』の著者としては、タモリのデビューにかかわっていることにもぜひ触れておかねばならない。
赤塚不二夫の影武者はパロディマンガの元祖でもあった。追悼・長谷邦夫
長谷邦夫のパロディマンガをすべて収録した『パロディ漫画大全』(水声社)。現在、古書価格が高騰しているので再販がまたれる

赤塚不二夫にタモリを紹介した男


長谷には『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)や『桜三月散歩道』(水声社)などいくつか自伝的な著作があり、タモリとの出会いについてもくわしく書かれている。それによれば、70年代、新宿の酒場「ジャックの豆の木」の常連客だった長谷は、飲み仲間のジャズピアニストの山下洋輔やジャズサックス奏者の中村誠一から、公演先の福岡で出会った男の話を聞く。その男は、山下たちが公演後、ホテルに戻って隠し芸を見せ合っていたところへ突然現れたかと思うと、彼らに対抗するようにデタラメ外国語などの芸を披露し、爆笑を誘ったという。その男こそタモリだった。噂を聞いた長谷らジャックの常連客はぜひその芸を見たいと思い、カネを出し合って福岡からの新幹線代を捻出し、タモリを東京に呼び出すにいたったとは、よく知られるところである。

タモリ上京時のエピソードとしてはまた、ジャックで芸を披露したタモリを赤塚不二夫が一目見て気に入り、自分のマンションの一室に居候させたという話もよく知られる。じつはこのとき、赤塚とタモリをつないだのが長谷であった。

当初、長谷からタモリの話を聞かされた赤塚は、「そんなに芸達者なら、とっくにプロになっているはずだろう」と言って取り合わなかったという。それが長谷にジャックに連れて行かれ、タモリの芸を目の当たりにして、すっかり惚れ込んでしまった……ということらしい。

井上陽水に提供した詞で多額の印税を得る


そもそも赤塚が酒を飲むのは、長谷と同じく新宿だったとはいえ、行きつけの店も飲み仲間も違ったようだ。ジャズにも興味はなかったから、山下洋輔たちと接触する機会はなかった。それを結びつけたのが、長谷だったというわけである。


長谷は若いころからモダンジャズのファンだった。やがて山下洋輔と出会うと、彼がトリオを組んで新宿のピットインで毎週やっていたライブに、7年間欠かさず通い続けたという。1974年に山下トリオが初めてドイツで公演した際にも、追っかけを敢行したというから、そののめり込みぶりがうかがえる。ちなみにこのときの旅費には、長谷が井上陽水に提供した詞で得た印税が充てられた。

どういうことかというと、長谷は『まんがNo.1』という雑誌(責任編集は赤塚不二夫名義)の編集を担当していたとき、付録にフォノシート(ビニール製の薄っぺらいレコード)をつけることになった。その収録曲の一つをデビューまもない陽水に依頼し、詞を長谷自ら書いて提供したのだ。「桜三月散歩道」というその詞は、かつて彼が私家版で出した詩集から題材をとったもので、のちに陽水のアルバム『氷の世界』(1973年)にも収録された。このアルバムが大ヒットとなり、長谷にもかなりの額の作詞印税がもたらされる。しかし、マンガ家が作詞印税で飯の一部を食うことに恥じらいがあった彼は、この収入を何か遊びに使ってしまおうと考えた。そこで選んだ遊びこそ、山下トリオのドイツ公演の追っかけだった。葛飾生まれの江戸っ子らしいカネの使い方ではないか。

赤塚不二夫の影武者として


いま一度、長谷と赤塚との関係を振り返っておくと、2歳違いの二人(赤塚が1935年、長谷が1937年生まれ)が知り合ったのは、石森(のち石ノ森)章太郎の呼びかけで各地からマンガ家志望が集った「東日本漫画研究会」の会員としてだった。1955年に赤塚が新潟から上京すると、実家が東京だった長谷は彼としょっちゅう会うようになる。
やがて赤塚が入居したトキワ荘にも足繁く通った。マンガ家デビューは両者とも貸本マンガ用の単行本だった。赤塚がその後、雑誌に進出して『おそ松くん』でブレイクを果たす一方で、長谷は貸本マンガの仕事をしばらく続けることになる。

1964年、トキワ荘のマンガ家たちが「スタジオ・ゼロ」というアニメ制作会社を設立すると、長谷はマネージャーを引き受ける。マネージャーといっても、ほかのマンガ家のアシスタントなど仕事は多岐におよんだ。このなかで赤塚の作品のアイデアマンやペン描きなども始め、自分の作品を描くことを一旦やめている。貸本マンガのタッチを捨て、少年マンガを一からやり直そうと思ったからだという(長谷邦夫『ギャグに取り憑かれた男』冒険社)。

やがてスタジオ・ゼロが西新宿に移転すると、マンガ家たちは入居したビル内にそれぞれのプロダクションを置いた。赤塚もフジオ・プロを立ち上げる。以来、長谷は同プロで赤塚の仕事を支えることになった。1967年に赤塚は『シェーの自叙伝』という自伝を出したが、これは長谷が赤塚から話を聞いてまとめたものだった。その後も赤塚はエッセイや文章による著書の注文があるたびに、長谷に任せるようになる。


余談ながら、赤塚は大の映画好きとして知られたが、一人娘のりえ子があるとき映画ファンのボーイフレンドを連れてきたことがあった。その彼氏がイタリアの映画監督フェリーニが好きだと知った赤塚は、あとで娘に「あいつは理屈っぽいぞ」と言ったという。ところが、赤塚が自作を解説した本には、『天才バカボン』の世界観をフェリーニの映画に重ね合わせたくだりがあったりする(赤塚不二夫『ラディカル・ギャグ・セッション』河出書房新社)。察するに、この本も長谷の手になるものだったのだろう。

もっとも、長谷も自分名義のマンガに、ニャロメなど赤塚キャラを頻繁に出していたのだから、お互い様ともいえる。そもそも赤塚は『おそ松くん』以来、スタッフや編集者とアイデアを出し合って作品をつくっていた。そう考えると、赤塚不二夫とは、長谷を含め複数の人間の共同ペンネームととらえたほうがいいのかもしれない。

パロディマンガの元祖として


長谷は赤塚の仕事に携わる一方で、筒井康隆の小説『東海道戦争』のマンガ化など自作の執筆も再開した。70年代には、パロディマンガを各誌に発表し、単行本にあいついでまとめている(これらは後年、『パロディ漫画大全』と題して一冊にまとめられた)。そこでは、つげ義春の『ねじ式』の世界にバカボンのパパがまぎれこんだり(「バカ式」)、『巨人の星』の星飛雄馬がゲゲゲの鬼太郎の投げる魔球にショックを受けたり(「ゲゲゲの星」)といった具合に、一つの作品のなかでまったく性格の異なるマンガのキャラクターがぶつかり合った。つまり、そのギャップから、新たな意味や笑いを創り出そうという趣向である。いまでこそ珍しい手法ではないが、パロディという語がまだ一般的ではなかった当時としては衝撃的だったに違いない。パロディマンガを描くには、題材となる各作品のタッチを研究する必要がある。
このことはのちに、長谷が短大などでマンガの表現論を教えるベースにもなったはずだ。

長谷は赤塚名義のもの以外にも、前出の自伝をはじめ自身の名で文章の著書を多数手がけている。たとえば、数字の「1」について、数学や音楽、演劇、生物学、経営などさまざまな切り口で語り尽くしたエッセイ集『1の思想』(エムジー)はなかなかの奇書である。こういう本をもっと読みたかった気がする。

仲間を大事にした人


さて、赤塚はタモリと出会ったころを境に、演劇や芸能界の仲間とショー制作などに熱中し始め、マンガの仕事がおろそかになりがちになったという。そのなかで長谷とのあいだにも隙間風が吹き始めた。その後も長谷はフジオ・プロに通い続けたが、90年代初め、赤塚と二人でアイデアを考える仕事がとうとうなくなり、彼のもとを立ち去るにいたる。このあたりの経緯も、長谷はいくつかの著書に記しているのだが、読むにつけ切なくなる。しかし、そこまで執拗に赤塚について書いたのは、逆にいえば、長谷にとってその存在があまりに大きかったからではないか。

じつは、私は生前、長谷さんに1回だけお会いしたことがある。それは3年前の秋、その夏に亡くなった詩人の奥成達さんを偲ぶ会に、編集者とお邪魔したときだった。奥成さんと長谷さんは、もともと詩の同人仲間として出会い、のちには先述の「ジャックの豆の木」に集まり、さまざまな遊びを考えてはほかの客とともに騒いだ仲だった。


偲ぶ会の会場となった新宿のバーに、長谷さんは車椅子で来られていた。その数年前に脳出血で倒れて以来、体が不自由になっていたためだ。しかし、このときの私はそんなことはつゆ知らず、拙著『タモリと戦後ニッポン』を直接渡して、一人で舞い上がるばかりだった(お恥ずかしい……)。いまにして振り返ると、このときにはおそらく少し外に出るだけでも大変だったはずだが、それを押して会に出席されたことに、長谷さんの奥成さんへの想いを感じずにはいられない。

その長谷さんも亡くなられた。それが、かつての盟友である赤塚不二夫先生の没後10年のメモリアルイヤーだったことにもちょっとした巡り合わせを感じる。ここであらためて哀悼の意を表したい。
(近藤正高)
編集部おすすめ