2016年8月より渋谷パルコの改築にともない閉場していたパルコ劇場が、1月24日、再オープンした。こけら落としは「志の輔らくご」。
パルコ劇場では1996年より開催され、2006年からは毎年正月恒例となっていた立川志の輔の落語会である。

来月には「こけら落としスペシャル」として、1990年以来上演されてきたパルコ劇場の定番企画で、男優と女優1組による朗読劇シリーズ「ラヴ・レターズ」が復活する。さらに3月からはオープニング・シリーズとして、渡辺謙主演の「ピサロ」(ピーター・シェーファー作、ウィル・タケット演出)を皮切りに、6月〜8月には脚本家・演出家の三谷幸喜が新作「大地」(出演:大泉洋ほか)をはじめ3ヵ月間連続3作品の公演を行なうなど、注目企画が目白押しだ。

パルコ50周年のタイミングで渋谷パルコリニューアル


パルコ劇場の入る渋谷パルコは、3年あまりの建て替え期間を経て昨年11月22日、リニューアルオープンした。パルコ劇場はそれから2ヵ月を経て、満を持しての再開場となった。1973年にオープンしたパルコ劇場(当時の名称は西武劇場)は、渋谷パルコのシンボルというべき存在であり、その再開をもって新生・渋谷パルコはついに全貌を現したといえる。
渋谷パルコリニューアルオープンで見えたパルコの変わったところ・変わらないところ、パルコ劇場も復活
オープンを待つパルコ劇場(2019年11月、筆者撮影)

渋谷パルコのリニューアルは、パルコ最初の店舗となる池袋パルコが1969年11月にオープンしてから50周年というタイミングでもあった。
池袋パルコはもともと、丸物百貨店という国鉄(現・JR)池袋駅のターミナルデパートであったが、経営不振に陥り、西武百貨店に譲渡された。時の西武百貨店社長の堤清二は、社員で中学時代の同級生でもある増田通二(のちのパルコ社長、会長)を責任者に据え、丸物を装いも新たにファッションの専門店を集めたテナントビルへと再生する。

パルコでは各テナントから一定したテナント料ではなく、売上の約10%を歩合として徴収する独自のシステムを採用した。テナントの売上の伸びが即パルコの利益となるがゆえ、パルコはいかに多くの客を集めるかが至上命令となった。そのためイメージ戦略に重点が置かれる。パルコに行けば何か新しいものに出会えるというイメージを人々に与え続けるべく、アートディレクターの石岡瑛子、コピーライターの小池一子、イラストレーターの山口はるみといった気鋭のクリエイターにより、斬新な広告が次々とつくられた。
1970年代にはここから「モデルだって、顔だけじゃダメなんだ」「裸を見るな。裸になれ」などセンセーショナルなキャッチコピー、ビジュアルのポスターが生まれ、パルコのメインターゲットである若い女性に対し、一商業施設の広告の域を超え、意識改革をも訴えかけるものとして注目を集める。こうしたパルコのイメージ戦略は、西武百貨店をはじめ、西武流通グループ(のちのセゾングループ)に属するほかの企業にも飛び火していった。

同時代のサブカルチャーも積極的に取り込んだセゾングループはこうして一時代を築いたが、それもバブル崩壊後には傘下の企業の多くが業績不振に苦しみ、ついには2000年以降、グループは解体へと追い込まれた。かつて西武百貨店、パルコのほか、西友、無印良品、ロフト、ファミリーマートなどの流通企業、さらには牛丼の吉野家まで擁したセゾングループは、いまやそれぞれ別の企業グループの傘下に入り、見る影もない。パルコも紆余曲折を経て、現在は大丸や松坂屋と同じJ.フロントリテイリング傘下にある。


それでもリニューアルなった渋谷パルコをのぞいてみると、往年のセゾン時代のパルコの匂いもそこはかとなく感じられる。たとえば4階には、糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」が「ほぼ日カルちゃん」という小さな店舗を出している。これは、東京で開かれるさまざまな催し(展覧会・映画・演劇・コンサートなど)を案内し、関連するグッズや書籍も販売するというものだ。ウェブサイトの実店舗にして、なおかつ東京という都市にもリンクしているというのが、何だか「とても、パルコである」ように思われた(ちなみに80年代のパルコのポスターのコピーに「ある靴である。とても、パルコである。」「ある服である。とても、パルコである。」というのがあった。
作者はほかならぬ糸井重里である)。

そんなふうにいまのパルコには、往年の面影を感じさせるものがあるかと思えば、かつてのイメージからすれば大きく変わったところもある。しかしそこにこそパルコの本質を感じたりもするのも、またたしかだ。これについて以下、私の体験も交えながら書いてみたい。

名古屋パルコの変貌に驚いた


私にとってパルコといえば、まず何より地元の名古屋パルコだった。名古屋パルコがオープンしたのは1989年、私が中学1年のときだ。その後、高校に上がってからは、月に何度もパルコに足を運ぶようになる。
パルコのメインであるファッションに別段興味があったわけではない。だが、パルコブックセンターには近隣のほかの大型書店では見かけないような本や雑誌があったし(「クイック・ジャパン」の創刊準備号を買ったのもここだった)、パルコギャラリーの展覧会にも関心を惹かれるものが多かった。とりわけ1994年に開催されたアーティストの日比野克彦の展覧会は印象深い(これと前後してパルコブックセンターで本を買うとつけてくれるブックカバーが、日比野克彦のデザインに変わっている)。90年代のパルコといえば、フリーペーパー「GOMES」の印象も強い。あれをもらうのも、パルコに行く楽しみの一つだった。

そんなふうにパルコ文化の洗礼を受けた私だが、ここ数年、名古屋パルコには、映画館(センチュリーシネマ)やタワーレコードなどに何か目的を持って行くことはあっても、各フロアを見て回ることがめっきりなくなっていた。
それが昨年1月頃、久々に名古屋パルコに行く機会があり、そういえば、東館の4階にあったリブロブックセンターはどうなったのかと思い、何年ぶりかにのぞいてみた。

同フロアのリブロブックセンターは、もともとパルコブックセンターとしてオープンし、私も高校時代によく通った。たしか2014年ぐらいにリニューアルのため1年ほど休業に入ったところまでは覚えているが、その後どうなったかまではチェックしていなかった。それがリニューアル後初めてのぞいてみたところ(じつに5年ぶりということになる)、店舗の様相は大きく変わっており、ちょっと戸惑うほどだった。書店のスペースは以前の3〜4分の1ぐらいに縮小され、カフェを併設するようになっていた。あとで調べてみたところ、「Carlova360(カルロバ)」というリブロプラス(旧リブロ)の新業態ブランドらしい。手前には雑誌、小説、文庫などの棚があり、奥に行くとコミックや美術書のほか、専門書のコーナーが設けられ、雑貨なども扱っている。あらゆる本を網羅するというよりは、店側が吟味して選んだものだけを置くというスタイルのようだ。

リニューアルした店の様子以上に驚いたのが、カルロバと同じフロアに、ロリータファッションのブランドショップ(ベイビー、ザ スターズ シャイン ブライト/アリス アンド ザ パイレーツ)と、アニメグッズ専門店のアニメイトが一緒に並んでいたことだ。かつてのサブカルチャーの発信基地としてのパルコを知る私には、オタク文化の総本山ともいうべきアニメイトが一テナントとしてフロアを占めることが意外に思われた。だが、それはようするにサブカルチャーという語に含まれるものが、時代を経て変わったということなのだろう。パルコはその変化に忠実に対応したにすぎない。

ちなみにアニメイトは名古屋パルコに先立つこと1年前、2014年に静岡店が静岡パルコに移転していた。さらにその後も2017年に都内の吉祥寺パルコ店にも新店舗がオープン、さらに今春には福岡・天神ビブレのアニメイトがビル閉館にともない福岡パルコに移転する予定である。

パルコがアニメ文化を取り込んだ理由


パルコがこうしてアニメ系のテナントを積極的に導入するようになったきっかけは、渋谷パルコが建て替え前の2012年、6階を全面改装するにあたり、アニメ「ワンピース」のグッズ店「麦わらストア」などをそろえたフロアへと刷新したことだ。その仕掛人である現パルコ常務執行役の泉水隆によれば、それまで6階で扱ってきたメンズキャラクターのファッションは時代とともに衰退し、テナントが丸ごと退店する状況になっていたという。次のテナントを検討する前提として、消費を先取りしなければパルコは生き残れない。そう考えた泉水は、各種マーケティングを検討するうち、渋谷パルコで実施してきたさまざまなイベントのなかでも、「ガンダム展」などのアニメ系イベントの集客力が異常に高いことに注目する。ターゲットである若い世代がお金を使う対象もファッションからアニメやゲームなどへ移行していることは調査からも見えてきた。そこで泉水は、洋服ではなく、アニメで若者の消費を取り込む方針に転じたのである(鈴木哲也『セゾン 堤清二が見た未来』日経BP)。以後、渋谷をはじめ各地のパルコでは、常設売り場だけでなく、期間限定でマンガ・アニメや人気キャラとコラボレーションしたカフェもあいついで開催され、人気を集めた。考えてみれば、私が先述したように久々に名古屋パルコへ行ったのも、期間限定でオープンしていた「うる星やつらカフェ」に友達と行く約束をしていたからだった。

改築後の渋谷パルコでも、アニメ・マンガ・ゲーム関連のテナントは重要な位置づけを担っている。「CYBERSPACE SHIBUYA」と銘打った6階には、任天堂が国内初の直営オフィシャルショップ「Nintendo TOKYO」を出店するほか、「ポケモンセンターシブヤ」「ジャンプショップ」「刀剣乱舞万屋本舗」などキャラクターショップが集まっている。私が初めて新生・渋谷パルコに赴いたのはオープンした翌週の火曜日(11月26日)だったが、平日昼にもかかわらず、Nintendo TOKYOには長い行列ができ、2時間待ちとアナウンスされていた。

ただ、渋谷パルコのリニューアルにあたり開店準備室担当を務めた先述の泉水は、アパレルが厳しい時代にあっていまいちど、本気でファッションをやろうという決意を固めたとも語っている。あえてマーケティングは行なわず、自分たちが本当に面白いと思うものを集めてつくることをコンセプトとした結果、テナントも雑貨が少なくなり、ファッションと食にフォーカスした構成になったという(「FASHIONSNAP.COM」2019年6月18日)。

新生・渋谷パルコの「MODE & ART」とネーミングされた2階には、「ケンゾー」「コム・デ・ギャルソン」「イッセイ・ミヤケ」と日本を代表するファッションブランドのショップが並ぶ。フロア名のとおり、服がさながらアート作品のように陳列されているのが印象的だった。

街づくりから生まれたパルコ劇場


改築後の渋谷パルコの建物は、地下3階・地上19階の高層ビルだが、パルコの入居する10階には屋上広場が設けられ、ここから各階のあいだはビルの外周に設けられた通路を歩いて移動ができる。そこには、渋谷の街の魅力のコアは、パルコの北東の「神南エリア」に集まるセレクトショップをはじめとする路面店の文化だという考えが反映されているらしい。前出の泉水は、渋谷の再開発により商業施設が高層化するなかにあって、《“ビルだけどビルじゃない”ことが大事で、商業施設が同質化してしまっている現代において、路面店の良いところをビルに取り込まなければ差別化は難しいと考えています。路面カルチャーの担い手になっていきたい、そういう想いを持っています》と説明する(「FASHIONSNAP.COM」2019年6月18日)。
渋谷パルコリニューアルオープンで見えたパルコの変わったところ・変わらないところ、パルコ劇場も復活
2019年11月、改築を経て再オープンした渋谷パルコ(筆者撮影)

そもそも渋谷パルコは1973年にオープンしたときから、ビルだけで完結することなく、周辺地域の街づくりも積極的に展開してきた。渋谷駅ハチ公前広場から神宮通りを北へまっすぐ行き、神南一丁目の交差点で左に折れると緩やかな坂道がある。渋谷パルコはこの坂道の途中にあり、さらに先へ渋谷区役所の前を抜けると、代々木公園にたどり着く。従来「区役所通り」と呼ばれていたこの坂道を、パルコは渋谷に出店するにあたり「公園通り」と名を改めた。それとともに周辺の小さな坂道も「スペイン坂」「オルガン坂」などと命名している。

パルコが街づくりに着手したのには理由がある。渋谷パルコは渋谷駅から500メートル近く離れ、しかも坂道と、商業施設の立地条件はけっしていいとは言いがたかったからだ。渋谷パルコ出店の指揮をとった増田通二には、「東京ではファッションは平らなところでは育たない」という持論があった。平地は何かと便利ではあるが、「見えないこの先に何があるだろう」というドラマがない。平らな一画には人が集まるが、自分に言わせれば単なる雑踏にすぎない。それゆえ坂の上の渋谷パルコというゾーンは、ロマンに満ちた高いファッション水準を保つことができる──と、増田は《こんな坂道論を展開して消費者層に訴え、自身も鼓舞した》という(増田通二『開幕ベルは鳴った シアター・マスダへようこそ』東京新聞出版局)。

渋谷パルコの最上階(9階)に劇場を設けたのも、まず場所を世間に認知させるためだった。増田はそのため劇場を店舗より3週間も早く、1973年5月23日にオープンさせた。このとき増田が掲げた基本理念は《パルコの中に劇場があるのではなく、劇場の中にパルコがある》というものであった。「公園通り」といったネーミングにしても、駅からパルコに通じる坂道をパルコという劇場の付帯設備ととらえ、ドラマとしてのキャラクターを持たせるために考え出されたという(『開幕ベルは鳴った』)。

なお、渋谷パルコに設けられた劇場の開場当初の名称は、パルコが属した西武流通グループからとって「西武劇場」とされた。それというのも、このころパルコはまだマイナーブランドゆえ効果が小さいと見られたためだ。一方で、劇場設立は、時の西武流通グループ総帥・堤清二の夢でもあったため、西武劇場オープンに際して堤は増田に、「僕のやりたい劇場をやるときには、パルコ劇場と名前を変えてくれ」と伝え、了解してもらったという(由井常彦編『セゾンの歴史 下巻』リブロポート)。果たして西武劇場はその後、パルコ西武劇場(1976年改称)を経て、1986年にはついに「西武」が取れてパルコ劇場となった。このときには堤は念願の劇場(銀座セゾン劇場)オープンを翌年に控えていた(ただし2013年に閉館)。

西武劇場のこけら落としは戦後日本を代表する音楽家の武満徹が企画したコンサートシリーズ「MUSIC TODAY 今日の音楽」で、これは翌年以降も毎年開催されるようになる。これに続いて、安部公房作・演出による演劇「愛の眼鏡は色ガラス」が上演された。

武満も安部も戦後日本を代表する前衛芸術家であり、堤清二と親交が深かった。しかし西武劇場はその後、どちらかといえば大衆路線ともいうべき方向へ進むことになる。それを決定づけたのは、1974年に上演された、福田陽一郎作・演出、木の実ナナ・細川俊之主演によるミュージカルショー「ショーガール」だった。これは1988年まで16回も続く大ヒットシリーズとなる。

演出の福田はこのほか、レイ・クーニーやニール・サイモンといった劇作家のコメディを次々と手がけた。1979年に福田演出で上演されたサイモンの代表作「おかしな二人」を観て、自分もこういう喜劇をつくっていきたいと決意したのが、若き日の三谷幸喜である。冒頭に書いたとおり、三谷はパルコ劇場の新装オープンにあたり、オープニング・シリーズとして来たる6月から8月まで3作品を上演する予定だ。その一つ「三谷幸喜のショーガール」は2014年、往年の「ショーガール」に最大限のリスペクトを込めて、川平慈英とシルビア・グラブの主演により復活した作品の再演となる。開演は一本芝居(三谷の新作「大地」)がはねたあとの夜22時と、福田演出の「ショーガール」初演にならってスケジュールが組まれている。

パルコは昔もいまもグループ企業の頼みの綱だった


パルコはこのように先人たちが築いてきたものを継承しつつ、他方では、時代の流れに応じて、常に新たなテナントやコンテンツを見つけ出しては導入してきた。そんなふうに脈々と生き続ける革新性こそ、パルコの本質ではないだろうか。この本質は、属するグループ企業にも大きく頼りにされることになった。渋谷パルコの成功と前後して、70年代には各地にパルコが出店したが、その店舗には西武百貨店などグループ企業が事業計画に失敗して、パルコに業態転換されたものも少なくない。いわばグループの中核企業の失敗の“尻拭い”のため、パルコの革新的なイメージが利用されたのである。1971年オープンの大阪の心斎橋パルコにいたっては、パルコの看板を掲げながらも、1991年まで20年にわたり西武百貨店が運営してきた。なお、心斎橋パルコはその後2011年に閉店したが、来年春、大丸心斎橋店北館の一部フロアに出店する形で復活する予定だという。

パルコは2012年、01年以来筆頭株主であった森トラストからJ.フロントリテイリングが株式を取得し、子会社化された。J.フロント傘下になってから、パルコは利益を拡大し、グループ全体の連結業績に大きく貢献する“孝行息子”となっている(『セゾン 堤清二が見た未来』)。現在、J.フロントはさらにほかの株主からパルコ株を買い付け、パルコは来月には100%子会社となる見込みだ。J.フロントは主力の百貨店事業をめぐる環境が厳しさを増しているだけに、目下、百貨店依存からの転換を進めている。そのなかにあって若者への発信力が高いパルコと連携をさらに強め、テナント事業を拡大するのが今回の完全子会社化の狙いだ(「朝日新聞デジタル」2019年12月26日)。

グループ企業との関係を見ても、パルコの先進性がうかがえよう。はたして今後、パルコはどんな新しいものを私たちに見せてくれるのだろうか。(近藤正高)