織田信長は、1571年9月、比叡山延暦寺に対して焼き討ちを行った。歴史評論家の香原斗志さんは「史料には『豊臣兄弟!』で描かれた様子より遥かに凄惨だったことが描かれている。
ただ、信長がそうせざるを得なかった理由がある」という――。
■NHKの描写よりずっと凄惨だった「比叡山焼き打ち」
戦国時代には、皆殺しやなで斬りのような世にも残忍な行いが、それこそ日常の周りにあった。そんななかでも、織田信長による比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の焼き討ちは、もっとも残忍なものの1つとして知られる。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第16回「覚悟の比叡山」(4月26日放送)でも、かなり残忍な場面が描かれた。
織田信長(小栗旬)が明智光秀(要潤)に、延暦寺に書状を送って信長に味方するように求め、従わなければ女も子供も皆殺しにしろ、と命じると、藤吉郎(池松壮亮)は自分がやると願い出て、結局、光秀と藤吉郎の両者で行うことになった。そして当日、すなわち元亀2年(1571)9月12日、藤吉郎は女と子供だけでも逃がそうとしたが、火がつけられた本堂のなかを秀吉が覗くと――。
そこには放心した光秀がいて、奥に僧兵ばかりか、女と子供の遺体が無数に折り重なっていた。光秀は自分がしてしまったことに、心の整理がつかない様子で、藤吉郎もまた、目にした残忍な光景に言葉を失った。
だが、455年前に延暦寺で行われたことは、到底この程度ではなかった。とてもではないが、日曜のゴールデンタイムにテレビで放送できないレベルの残忍な行いが、この聖なる山中で繰り広げられたのである。
だが、どう残忍だったのかを述べる前に、なぜ信長がそんなことをしなければならなくなったのか、について考えたい。
■史料に残る信長の説得
「豊臣兄弟!」では、足利義昭(尾上右近)の仲介で元亀元年(1570)12月、信長と浅井・朝倉両氏がいったん和解してしばらく後、焼き討ちを実行に移す直前に、光秀に延暦寺への書状を送らせたように描かれた。
だが、史実においては、信長は延暦寺に、それなりの猶予をあたえている。
元亀元年9月、「豊臣兄弟!」でも描写されたように、信長方の宇佐山城(大津市)が浅井・朝倉の軍勢に攻められ、信長の重臣の森可成が討たれた。その後、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺に入って、そこに立て籠もってしまう。いうまでもないが、延暦寺が浅井・朝倉軍を支援し、彼らを受け入れたのである。
信長はその時点で、延暦寺に申し入れていた。信長の事績を記した第一級史料である太田牛一の『信長公記』には、9月24日の条に、次のように書かれている。
信長は延暦寺の僧を10名ほど呼び寄せ、これから信長の味方になって忠節を尽くすなら、信長領内の延暦寺領はもと通りに返還する、と刀の鍔を打ち合って伝えた。
しかし、宗教者として一方だけに味方することはできないなら、我々の行動を見逃してもらいたいと、筋道立てて話して聞かせた。
そして稲葉一鉄に命じて、以上のことを朱印状にして手渡した。そこには、これら2箇条に違背するなら、根本中堂、日吉大社をはじめ、一山を焼き払うと付け加えた。
ところが、延暦寺の僧からはなんら返事がなく、その後も浅井・朝倉の味方をして、禁制の魚や鶏肉、女人まで山中に入れ、したい放題に悪行をしていた(筆者訳)

■「延暦寺のせい」で窮地に陥る
「豊臣兄弟!」のように、「信長に味方しなければ皆殺しだ」と伝えたのではなく、せめて中立でいるように求めているのだから、筋は通っている。しかも、比叡山には時間的な猶予もあたえている。

ところが、『信長公記』にあるように、信長は完全に無視されたのである。元亀元年9月から、信長と浅井・朝倉軍がにらみ合ったのを「志賀の陣」というが、結局、延暦寺が信長の要請に従わず、浅井・朝倉軍に味方したため、にらみ合いの状態は結局、年末まで3カ月も続いた。
その間、信長はかなりの苦労を強いられた。浅井・朝倉との戦いが膠着状態に陥り、信長が劣勢に立っていると判断されたため、三好三人衆や六角氏、伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆など、これまで信長を悩ませてきた勢力が、ここぞとばかりにふたたび勢いづいたのである。
むろん、信長は「延暦寺のせいだ」と受けとっただろう。実際、足利義昭の仲介で和睦できなければ、信長はかなりの窮地に陥った可能性もある。
■信長の家臣団の総意
要するに信長は、延暦寺が浅井・朝倉と手を結び、信長側の要請を一切無視して織田軍を苦しめ続けたことへの報復として、また見せしめとして、延暦寺の焼き討ちに踏み切るのである。
それはよくいわれるような、革命児たる信長が既存の宗教的権威を否定しようとした、という類のものではない。もっと単純に政治的な行為だった。
信長は元亀元年(1570)9月から1年にわたり、延暦寺に煮え湯を飲まされ、前述のようにかなり厳しい状況にも追い込まれた。だから、家臣たちも延暦寺には、かなりの恨みをいだいていたのではないかと想像する。
「豊臣兄弟!」では、延暦寺への恨みは、信長ひとりがいだいているかのように描かれた。
しかし、実際には、延暦寺が浅井・朝倉に肩入れするばかりに、信長の家臣たちもまた、その家族や家臣が窮地に陥ったのである。信長が選んだ焼き討ちという手法はともかく、延暦寺への恨みは、信長とその家臣団の総意だったのではないだろうか。
とはいえ、それにしても、行われたことは残忍きわまりない。
■女も子供も全員が首を切り落とされた
さて、『信長公記』は、焼き討ちが行われた9月12日の模様を、どう書いているのか。
9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂や日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵など1棟も残さず、一挙に雲霞が湧き上がるように焼き払い、無惨にも灰燼の地と化した(筆者訳)

というのが全体像で、最澄が開山して以来の、いま残っていれば国宝や重要文化財になっていたであろう建物の数々が焼け落ちた。東塔地域にある瑠璃堂など、偶然に焼け残った建物はあるが、「1棟も残さず」は実態に近い。
続いて、山内にいた人々についての描写である。
山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取らず、みな裸足のまま八王寺山に逃げ上がり、日吉大社の奥に逃げ込んだ。諸隊の兵が地方から鬨の声を上げて攻め上がった。僧、俗、児童、学僧、上人とすべての首を切り、信長に検分させ、これは比叡山を代表する高層だ、貴僧だ、学識が高い僧だと報告した。
ほかに美女や子供も数えきれないくらい捕らえて、信長の前に引き連れ、悪僧はいうまでもなく、「私たちは助けてください」と口々にすがる者も少しも容赦せず、1人残らず首を切り落され、目も当てられない状況で、数千の死体が転がる哀れなありさまとなった(筆者訳)

■当時の武士たちは平静だったはず
「豊臣兄弟!」でも、本堂のなかに女子供の死体が折り重なっていたが、『信長公記』の描写にくらべれば、わずかにすぎない。
一方、史実においては、まず、僧たちはみな首を切り落とされて、信長の前で首検分が行われている。
「豊臣兄弟!」では、信長は焼き討ちを光秀と藤吉郎にまかせたが、信長自身が立ち会って、細かに検分したのだ。さらに、女も子供も数えきれないほどの人数が捕らえられ、単に斬ったり刺したりして殺すだけでなく、みな首を打ち落とされている。
ただし死者数については、『信長公記』の数千に対し、『言継卿記』が3000~4000、ルイス・フロイスの報告が約1500人と、それなりに幅があるが、1000単位の人が惨殺され、首を打ち落とされたことはまちがいない。
これを信長の軍勢がどんな気持ちで実行したか、知る由もないが、私たちが想像するよりはずっと平静だったと思われる。「豊臣兄弟!」の藤吉郎のように、延暦寺の本堂に積み重なる女や子供の死体を見て言葉を失っていたら、戦国時代を生き抜くことは不可能だ。しかし、日曜夜8時に放送する歴史ドラマの描写としては、これが限界だということだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。


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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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