1573年、織田信長は浅井長政の居城・小谷城を攻め落とす。歴史評論家の香原斗志さんは「発掘調査の結果から、炎上する城から市と3人の娘が逃げたというのは考えられない。
むしろ彼女たちは、先に脱出していた可能性が高い」という――。
■お市の方はどうやって小谷城から逃げおおせたのか
このところNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、織田信長(小栗旬)が毎回、浅井長政(中島歩)への怒りを募らせている。織田家と同盟を結び、自分の妹である市(宮﨑あおい)を嫁に迎えておきながら、織田家を裏切って朝倉義景(鶴見辰吾)と結び、自分たちを苦しめている。それが許せないのだ。
第16回「覚悟の比叡山」(4月26日放送)では、ついに浅井・朝倉を支援し、信長の要請は無視し続けた比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を焼き討ちした。そして、いよいよ第17回(5月3日放送)は「小谷落城」。裏切られてから3年余りを経て、信長はようやく宿敵となった義弟を斃(たお)すことになる。そのとき気になるのはやはり、市と娘たちがどうなるか、ということだろう。
もちろん、市がここで助かるのは周知の史実である。信長が本能寺に斃れたのち、柴田勝家と再婚し、翌年、羽柴秀吉が勝家を北庄城(福井市)に攻めると、今度は逃げずに夫と死をともにした――。
だから、ともかく小谷城からは逃げる。これまでの大河ドラマでも、小谷城の落城に際して、市と娘たちが逃げる場面は何度も描かれてきた。
それは、燃え盛る小谷城から命からがら駈け下りる、と相場が決まっている。しかし、市はもっと余裕をもって小谷城を離れていた可能性があるのである。
■「事前に信長の元へ送られた」
「豊臣兄弟!」では、概ね次のように描かれる。信長が藤吉郎(池松壮亮)たちに、長政との和睦交渉と市の助命嘆願をすることを許したので、ついに小谷城に攻め入った藤吉郎は主殿に赴く。だが、長政は生き残ることを潔しとせず、市に逃げるように指示して、みずからの命は絶ち、小谷落城となった――。
だが、当時の記録は一般に、女性についての記述が少なく、市と娘たちがどのようにして生き延びることになったのか、同時代の史料からはわからない。寛永年間(1624~44)に成立した『当代記』には、〈浅井長政の妻は信長の妹で、それゆえに、問題なく引き取られた(原文 浅井備前守妻女は信長妹也、然る間、異儀なく引き取られる)〉と書かれているが、いったいいつ、だれが、どこに引き取ったのか、さっぱりわからない。
貞享2年(1685)ごろに成立した織田信長の伝記『総見記』には、次のように書かれている。
8月29日の朝までに、(信長軍は)浅野備前守長政の居所を取り囲み、夜も昼もなく攻め続けた。長政には正室に3人の娘を産ませており、彼女たちをなんとかして助けたいと思ったので、藤掛三河守永勝と木村小四郎を従わせ、28日の夜には正室と3人の娘を信長のもとに送り届けた
原文 二十九日ノ朝マテニ備前守ノ居所ヲ囲テ、夜昼ヲモ継セス攻ル、備州長政ハ内室ニ三人ノ女子ヲ有リケルヲ、イカニシテタスケタク思ハレケレハ、藤掛三河守ニ木村小四郎ト云者ヲ輿添ニツケテ、廿八日ノ夜内室並ニ三人ノ女子ヲ信長公ヘ送リ越サル

■夫婦の最後の別れはもっと早かった
後世に成立した読み物なので、参考程度にしかならない。とはいえ、天正元年(1573)8月28日夜、すなわち小谷城が織田軍の総攻撃を受ける前夜、落城の前々日までに、市と3姉妹は信長のもとに送られた、という記述は気になる。
じつは、寛文年間(17世紀後半)に記された浅井側に立った読み物『浅井三代記』も、市たちが落ち延びた日は同様に、8月28日としている。
その日に長政は市を呼び、「お前は信長の妹なのだから、なんの差し障りもないので、信長のもとへ送り届けよう」〔原文 汝は信長の娘(ママ)なれば何の仔細も候まし、信長の許へ送べし〕というと、市は一緒に死にたいという。
そこで長政は「いま花のように可憐な姫たちを死なせるなど不憫であるから、事情を汲んで逃げてくれ」〔原文 今花のやう成る姫共を害せん事も不便(ママ)なり、理をまげてのがれよかし〕と説得し、市たちは逃げた、という。
もし、これらの記述どおりであれば、いつも大河ドラマなどで流される、落城寸前の小谷城から必死に逃げる、という映像は、史実と異なることになる。
■実家の血を残した市のしたたかさ
ここで、市の3人の娘について見ておく必要があるだろう。市の生年は天文19年(1550)とする説が有力で、永禄10年(1567)に浅井家に嫁いだとされる(もっと早かったとする説もある)。おそらく永禄12年(1569)に茶々が生まれ、ほかの2人は次女の初が元亀2年(1571)、三女の江が天正元年(1573)に生まれた可能性が高い。
茶々は周知のとおり、のちの秀吉の別妻、淀殿である。初は京極高次に嫁ぎ、子は産まなかったが、江は徳川家康の嫡男、すなわち2代将軍秀忠の妻になって、3代将軍家光を生んだ。織田家のために浅井に嫁いだ市だが、夫の長政が信長を裏切ったのちも、2人の娘を産んでいる(江は長政離反の時点で妊娠していた可能性もあるが)。
それは市のしたたかさの表れでもある。婚家が敵対したとしても、そこに実家の血を残すという戦国女性の役割を、見事にまっとうしているからである。
さて、太田浩司氏は『浅井長政と姉川合戦』(淡海文庫)で、非常に的を射た疑問を呈している。

〈浅井家家臣には多くの離反者が出たが、最後まで小谷籠城していた家臣さえも、形勢の逆転を信じていたものは、おそらくいなかったであろう〉とし、〈この状況の中で、市と三姉妹は、ほんとうに落城寸前に小谷城から脱出したのだろうか〉というのだ。続けて、〈落城に至るまでの間に、浅井長政と織田信長の間には様々な交渉があったはずで、その中でも男子はともかく、市と三姉妹はもっと早い段階で、城外に脱出していたことも想定されてよい〉書く。
■秀吉からの異例の対応を受けた寺の正体
そして太田氏は、小谷城の南東にある実宰院(じつさいいん)という寺に目をつける。長政の姉である昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)が中興したこの寺には、小谷落城に際して長政が、姉に3姉妹の養育を依頼し、見久尼は実宰院でその役割を果たした、というものだ。
それは伝承にすぎないとはいえ、実宰院には、三姉妹との濃厚な関係を思わせる記録が多いという。たとえば、慶長2年(1597)5月1日の豊臣家奉行連署状は、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以と「五奉行」のうちの4人が署名して、実宰院の跡目は、現在の住持尼の希望どおりでいいと、秀吉の許可を得たうえで、京極高次に伝えている。
それがなにを意味するかだが、まず、京極高次は3姉妹の次女、初の夫で、この高次が実宰院に深く関わっていたことがわかる。そのうえ、実宰院などただの小さな寺なのに、そこの住持をどうするかについて、秀吉の許可が必要だというのは異様だ。おそらく、秀吉より淀との関係なのだろうが、すると、初と淀と深い縁があった、ということが想起される。
それ以前にも、秀吉は天正19年(1591)4月23日、実宰院に50石の土地を寄進する朱印状を出しており、これも小さな寺への対応としては異様である。
■燃え盛る火のなかを、は絶対にウソ
結論としては、小谷落城の2日前だったのか、それ以前だったのかはともかく、落城より前に、市と3人の娘は城を離れていた可能性が高いといえる。また、仮に落城時に逃げたとしても、火が燃え盛るなかを走って逃げたというのはウソである。
なぜなら、小谷城は発掘調査の結果、城の建物が焼けた痕跡がまったくないのだ。
もうひとつ、「豊臣兄弟!」で描かれたように、信長が藤吉郎らに長政との和睦交渉を許し、それにもかかわらず、長政がそれを拒んだということは考えにくい。
長政には万福丸と称する嫡男がいた。市の息子ではないと思われるが、和睦の結果、自分だけでなく万福丸の命が助かる可能性があるなら、その道を選んだのではないだろうか。しかし、『信長公記』には次の記述がある。
浅井長政には10歳の嫡男がいるので、それを探し出し、関ヶ原という場所で磔に架けた。信長は年来の無念を果たした
原文 浅井備前が十歳の嫡男御座候を、尋ね出だし、関ヶ原と云ふ所に張付に懸けさせられ、年来の御無念を散ぜられ訖んぬ

信長には強い「無念」の思いがあった以上、長政を許したと思えない。一方、長政は万が一和睦のチャンスがあれば、嫡男の命が助かるのだから受けたのではないだろうか。
だが、史実に忠実だとあまりにも殺伐としてしまうので、こうしたフィクションはやむを得ないのだろう。万福丸の最期もあまりにむごく、大河ドラマでは描けないのは、いうまでもない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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