■秀吉が羽柴を名乗ったのは小谷城落城前
浅井久政(榎木孝明)と長政(中島歩)が腹を切り、小谷城(滋賀県長浜市)が落城したことで、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野大賀)の兄弟は、織田家家臣としてのフェーズが変わった。
第18回のサブタイトルは「羽柴兄弟!」(5月10日放送)で、藤吉郎はここから木下秀吉あらため羽柴秀吉になる。織田家を代表する重臣、丹羽長秀と柴田勝家から1字ずつもらって「羽柴」と名乗ったという通説は、おそらく史実だろう。加えて、浅井家が治めていた北近江(滋賀県北部)の3郡、12万石もの領地をあたえられ、一国一城の主となった。
時系列を記すと、羽柴と名乗ったのは天正元年(1573)7月20日。その後、8月29日から9月1日にかけて小谷城が落城した。こうして浅井氏が滅亡したのち、その旧領をあたえられたのだ。
秀吉は浅井家との攻防戦にずっと従事したのち、8月29日夜半に約3000の兵を率いて、小谷城の山麓居館があった清水谷の水の手口から、山上の京極丸に一気に攻め入り、城を久政がいるエリアと長政がいるエリアに分断。双方の連絡を不能にしたうえで、まず久政、続いて長政を切腹に追い込んだ。
この功績を織田信長が非常に高く評価した結果、一躍、城持ち大名に躍り出たのである。
■出世した男が抱えていた問題
北近江をあたえられた秀吉は、本拠を小谷城から、琵琶湖沿岸の長浜(当時は今浜と呼ばれた)に移すことを決断。
とはいえ、築城には時間がかかるので、それまでは小谷城を使ったようだ。小谷城が廃城になったのは、天正3年(1575)ごろと思われる。
秀吉にとって問題だったのは、なにしろ百姓の出身で、短期間に異例の出世を遂げた身なので、譜代の家臣がいないことだった。そこで出身地の尾張(愛知県西部)から、遠縁にあたる加藤清正や福島正則らが長浜に呼び寄せられ、将来の幹部候補として、妻の寧々も世話をしつつ育て上げられた。
また、長浜には石田三成がいた。秀吉と三成が出会った際のエピソードに「三献の茶」がある。秀吉が鷹狩の帰りに観音寺(米原市)に寄ると、寺の小姓だった三成(当時は幼名の佐吉と呼ばれていた)が、1杯目には喉の渇きを癒すために、大きな茶碗にぬるい茶を、2杯目はやや熱い茶を半分程度、3杯目は厚くて濃い茶を小さな茶碗で出した。秀吉は細かい気づかいに感激し、佐吉を小姓として召し抱えたという。
■石田三成との「三献の茶」は本当か
「豊臣兄弟!」にも、まさに第18回から三成が登場する。ただし、このエピソードは、百数十年経った正徳6年(1716)に書かれた『武将感状記』に出てくる話で、史実である可能性は低いと思われる。
三成は永禄3年(1560)に近江国坂田郡石田村(長浜市)に生まれたとされるので、小浜城が落城したときは、まだ数え14歳だった。
むろん、坂田郡石田村は浅井家の勢力下だったが、浅井父子が信長に反旗をひるがえして以降、この地域の在地勢力はどんどん織田方に、なかでも秀吉のもとにくだっていた。三成はこの地域の在地勢力だった石田正継の三男で、九州大学教授の中野等氏は『石田三成伝』(吉川弘文館)に次のように書く。〈たとえば元亀二年(一五七一)十月頃に、宮部継潤が秀吉に降ったとされており、石田正継もこの頃に秀吉に臣従したと考えられる〉。
そうだとすると、三成は秀吉と鷹狩で出会うまでもなく、その前から「秀吉麾下」だったのかもしれない。その後、20代前半までには、羽柴家中でも傑出した存在になっていたようで、越後(新潟県)の上杉家との交渉など重要な仕事をまかされ、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、20代半ばにして従五位下治部少輔に叙任している。
■家臣としても領主としても優秀だったが…
仕事の一つひとつで結果を出したのだろう。天正14年(1586)には堺奉行に抜擢されたが、これは秀吉の信頼の厚さを物語っている。翌年の九州征伐で、兵站や物資を補給するために、経済力がある堺の協力が必須で、三成はその交渉役を務めたのである。九州でも秀吉の代理として島津の領国に赴き、多くの交渉をこなした。
天正18年(1590)の小田原征伐後は、東北地方を統治するための実務をこなした。
また、自身の領地や管轄する土地には、村掟をたびたび発したが、それについても中野氏は評価して、〈当時の大名のなかで、自己の所領内にこれほどまでにきめ細かく綿密な規定を発した例は他になく〉と記す(同)。秀吉の家臣としては、胆力の備わった能吏であり、そのうえ領主としての手腕もあったようなのだ。
ただし、羽柴秀長は小田原征伐の翌年に死去し、「豊臣兄弟!」もそこまでの話なので、三成のその後も描かれない。そして、その後の三成は、優秀な人物が陥りがちで、だれもが気をつけたほうがいい教訓をたくさん残している。
■女・子供三十数人の斬首を指揮
一例を挙げておこう。秀吉の甥で関白職を継いだ秀次が、秀吉とのあいだに軋轢が生じた挙句、文禄4年(1595)7月15日に切腹した。そして8月2日には、秀次の子どもたちと本妻、別妻、妾や女中ら三十数人が、京都市中を引き回されたのちに、三条河原で衆人環視のもと斬首された。
この、いわゆる秀次事件に際し、切腹前の秀次を尋問したのも、秀次没後、残虐をきわめた処刑現場で陣頭指揮をしたのも三成だった。そして、仕事をしっかりこなしたことが評価され、豊臣経験内で実務派としての位置づけをさらに強固にしていった。
秀吉の命令に忠実に従っただけかもしれない。だが、こうした行為に関して、命令に忠実に淡々とこなせる人間は、能力は高いのだろうが、ある種の危うさを感じざるをえない。
そして、対立が激化した末に起きたのが、秀吉没後の慶長4年(1599)閏3月4日に起きた三成襲撃事件だった。秀吉恩顧の有力武将、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の7人が三成を襲ったのだ。
このときは徳川家康の執り成しで、三成が政務を退いて佐和山城(滋賀県彦根市)に引退するということで決着を見ているが、もちろん、三成には襲われる理由があった。
■人の心の機微がわからない
その理由について、国際日本文化センター名誉教授の笠谷和比古氏は、朝鮮半島から捕虜として連行された朱子学者、姜沆の『看羊録』に書かれた、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の際の逸話を重視する(『論争 関ヶ原合戦』新潮選書)。
『看羊録』の内容は、おおむね以下のようなものだ。朝鮮半島で戦う武将たちが、明と朝鮮の軍を追撃しなかったことを、軍目付の福原長堯が三成経由で秀吉に訴えると、秀吉は激怒し、加藤清正、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政らが譴責され、一部の武将は領地まで奪われて福原への恩賞にあてられた。そこで清正らは帰国後、福原を討とうとしたが、三成が妹婿の福原を擁護したので、武将たちは三成を襲撃した――。
諸将が明と朝鮮の軍を追撃しなかったのは、5万の大軍に包囲された蔚山城の籠城戦後のこと。清正や幸長は飢餓地獄を味わい、家政や長政の救援のおかげで九死に一生を得た。そんな状況で、追撃など到底できなかっただろう。ところが福原長堯は終始、積極的な戦いを要求する秀吉に忠実で、三成も同じく妹婿の福原と一緒になって、現場で生死をさまよった武将たちを糾弾した。
武功派の武将たちの恨みを買い、彼らとのあいだに埋めがたい溝が生まれるのも当然だろう。
三成は切れ者ではあったのだろうが、どうやら人の心の機微がわからない。あるいは機微を理解できない。すると生まれるのは対立である。この対立こそ豊臣家が滅びる大きな要因になった。
関ヶ原合戦が勃発したのは、その翌年のことだった。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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