老いとは、どのように向き合うといいか。医師の和田秀樹さんは「医師の立場から見ても、老いを受け入れることが下手だと感じるのは、尿もれ対策としておむつの使用を嫌がる人だ。
便利なものを素直に受け入れることで、できることを増やせる」という――。
※本稿は、和田秀樹『老いの品格 品よく、賢く、おもしろく』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。
■高齢者による高齢者差別
いつまでも老いを受け入れられずにいると、「こんなに足が弱くなった自分はダメ老人だ」「昔のように賢いことが言えないバカ老人になってしまった」と、自分を否定する方向に向かいます。
その否定的な視線が、他人に向かうこともあります。つまり、「自分は認知症になってまで生きたくない」などと言って老いと闘っている人が、闘っていない人や比較的早く老いが進んだ人を見下す、「高齢者による高齢者差別」です。ただ、いつまで老いと闘えるかは個人差がある以上、そこで差別的な見方をすべきではないといえます。
以前、私が関与していた有料老人ホームが、認知症や重度の要介護になっても、ずっと入居時と同じ居室で暮らせるというコンセプトで経営を始めました。その場合、食堂などでは、車いすの人や認知症が進んだ人と、比較的元気な人が同じ空間を共有することになります。
それは多様性があってすてきなことだと思いきや、元気な入居者側からクレームが出て、結果的に、要介護度が重い人とそうでない人が暮らす棟を分けることになりました。
まだ元気な入居者にしてみれば、要介護度が進んだ入居者の姿を目にするのは、「明日はわが身」を思い知らされるようでつらいものがあったのでしょう。
■自分の老いも他人の老いも素直に受け入れる
その思いは理解できます。でも、老いを受け入れようとしない高齢者による高齢者差別の構図には、やはり違和感を覚えます。
歳をとるということは、いろいろな生き方が訪れることだと私は思っています。その「いろいろな生き方」には、車いすや寝たきりの生活、あるいは認知症になるということも含まれます。
ボケたくない、足腰を弱らせたくないと思い、そのためにできるだけ努力をすることは大事だと思います。でも、いざ認知症や歩行困難になったら、「なったなりに生きていく」という発想もまた必要です。その発想がもてないと、そこから先の人生は生きる価値がないという考えに行き着きます。それは、とても残念なことだと思います。
高齢者は、社会的には「弱者」ということになるでしょう。そして、人間は究極的には弱い生き物であるということを、素直に受け入れられるのが高齢者の特性だと私は思っています。自分の老いのみならず、他人の老いも受け入れられることが、「品格」と呼べるのではないかと思います。
■車いすやおむつは上手に活用しないと損
老いを受け入れられず、結果的に損をしている人も少なくありません。
たとえば、車いすや杖などの使用を頑(かたく)なに拒否する人。歩く機能が衰えてきたら、車いすを使えばラクに移動できていろいろな場所に行けるのに、「車いすなんてとんでもない。
自分の足で歩く」と言い張る人。結局、歩けないためにどこにも行けず、家にこもりきりになってしまう。そんなパターンはよくあります。
医師の立場から見ても、老いを受け入れることが下手だと感じるのは、尿もれ対策としておむつの使用を嫌がる人です。いまや若い女性でさえ、尿ケア用のパッドを使用している時代です。高齢者であればなおのこと、もはや、おむつは要介護状態のお年寄りの象徴などではありません。
私自身もここ最近、心不全の治療で利尿剤を服用しているため、トイレが近くなっているのですが、外出先でなかなかトイレが見つからず、心配になることもあります。
そこで、尿もれパッド付きのパンツを使用するようになりました。多少わずらわしくても、車の運転をしたり旅行したりしているときに、四六時中、必死でトイレを探しまわるストレスを思えばよほど快適です。
日本のおむつは世界一性能が優れているのですから、利用しない手はないと思います。おむつを素直に受け入れれば、夜も安心して眠ることができ、睡眠の質もよくなります。
たとえば、車いすを一度受け入れたら、加速度的に歩く機能が落ちて、まったく歩けなくなってしまうと懸念する人もいます。
でも、いずれにせよ、ゆくゆくは歩けなくなるのですから、いつかは車いすを受け入れなければなりません。そして、いつかは受け入れなければならないのなら、早めに受け入れたほうが得策といえるものも多々あるのです。
便利なものを素直に受け入れることで、できることを増やせます。それを拒絶するのも一つの生き方ではあると思いますが、悪あがきのようにも見えます。
「歩けなくなってきたのはしかたない。でも、車いすに乗ればまだ出かけられるから、まあいいか」

「トイレのことでやきもきしたくないし、おむつを使ってみるか」

「家族とずっとしゃべっていたいから、補聴器をつけてみよう」
そんなふうに言えるのは、すてきなことだと思います。
■魅力的な高齢者には余裕がある
魅力的な高齢者の大きなポイントは、「余裕」だと思います。歳をとるほど、「死にたくない」「ボケたくない」「貧乏したくない」という不安感や恐怖感で動いている人が多く見られます。
一方で、そうなることは当たり前だと実感できていて、「人間いつかは死ぬんだから」「いつかはボケるんだから」と言っている人は、余裕や風格さえ感じさせます。
私自身は、50代から次々と病気が見つかりました。58歳ごろには、一般的には110未満が正常値とされる空腹時血糖値がいきなり660になりました。
最高血圧も15年ほど前から200くらいと高めで、それに起因して最近、心不全になり、やむなく利尿剤を服用しています。
糖尿病で免疫力が落ちているためか、少し前には帯状疱疹になって、かなり痛い思いもしました。
率直にいえば、原因はすべて不摂生です。原因ははっきりしているし、高齢者をたくさん診てきて、いつかは不調を抱えるものだという思いもあって、いまの生活に支障をきたしてまで、薬を増やすなどの対応をしようとは思っていません。
血圧は、高めのほうが頭がシャキッとします。血糖値も、さすがに600以上もあるとのどが渇いて苦しくなるので、運動をして300くらいまでは下げますが、なんとしてでも正常値に近づけようとは思っていません。
とくに問題なく生活が送れる数値であれば、たとえ数年後や十数年後に病気になるリスクがあったとしても、薬で体がだるくなったり頭がぼんやりしたりして、いま苦しむよりはいいだろうと思っています。
■自分が受ける医療は自分で決める
私が診ている患者さんのなかに、高血圧がひどいのに薬を嫌がって、降圧剤をいっさい飲もうとしない90歳過ぎの高齢者がいます。でも、かくしゃくとしています。また、タバコを吸っていても元気で長生きする人もいます。
高血圧や高血糖を放っておいても、多くの場合は、心筋梗塞や脳卒中を発症するのは20年後くらいです。血管に深刻な障害が現れるのに、そのくらいの時間がかかることを考えると、その間の医学の進歩を信じるのは、たしかにギャンブルといえるかもしれませんが、否定できない行為ともいえます。
こう考えて、自分が受ける医療は、自分で決めてもいいのではないかというのが、私の考えです。

私の親友であるイスラム学者の中田考さんは、イスラムの教えを深く信仰していて、世俗をまったく超越しています。あまり健康そうには見えないのですが、生や死は神の思召しと考えているので、病院にもまったく行きません。
さすがにそれが格好いいとか、見習うべき姿勢だとは思いませんが、その姿には、ひと言でいえば「すごいな」と圧倒されます。格好つけて生きるのがいいことだとは思いませんが、「病気になってあわてるのは格好悪いからやめなさい」などと言うつもりもありません。
ただ、高齢になるということは、もれなく病気になるということです。その覚悟をしたうえで、薬は飲まず、酒やタバコは控えず、好きなものを食べる生き方と、健康に最大限注意を払い、節制する生き方の、どちらを自分は選ぶのかを決めておくほうがいいとは思います。
■コロナ禍での高齢者の悲劇
コロナ禍では、感染を恐れて過剰に外出を自粛する高齢者が多く見られました。外に出なければ、たしかに感染しないですむかもしれません。
でも、そんな生活を長期間続けていれば、足腰が弱って歩けなくなり、認知機能も低下するリスクが高くなります。そうまでして感染しないことが大事なのか、考える必要があるように思います。
コロナ禍での高齢者の悲劇は、私も数々目にしてきました。まず、病院では感染防止対策で入院患者への面会を原則禁止しているため、高齢の入院患者は、たとえ終末期であっても家族と会うことすらかないません。
寂しい状態のなかで最期を迎えるケースもめずらしくないのです。
また、80歳以上ともなれば、いまが旅行や外食を楽しめる最後のタイミングという人も多いはずですが、その機会も大きく減っていました。
人生最後の旅行に行きたい、最後の思い出にごちそうを食べたいと望む高齢者がいるなら、その願いはかなえられてもいいのではないかと私は思います。
重症化リスクの高い高齢者だからといって、家の外には出さず、病院でも面会者を遠ざけるのは、大きなお世話かもしれません。
感染者や重症者を増やさないという社会や医療を守る取り組みはもちろん大事なことですが、出歩きたい、見舞いにも来てほしいという個の尊厳や幸せがかなえられないことに強い違和感を覚えました。
■「余裕」のある高齢者は幸せな時間が増える
同時に、高齢者の「コロナにだけはかかりたくない」という意識の強さも感じました。90歳を過ぎた私の母も、そう言います。
どうやら、コロナは外出自粛要請を無視して遊びまわるなど、不摂生や倫理観の欠如によってかかる「恥ずかしい病気」だと勘違いをしている人が多いようでした。
高齢者は「他人に迷惑をかけたくない」という意識が強いため、自分が感染することよりも、それによって周囲に迷惑をかけることを恐れる気持ちが強いのかもしれません。
現在の高齢者は、結核などの感染症で若い人までがバタバタと命を落としていた時代を、直接は知らない世代が中心になっています。長寿が当たり前になり、高齢者でも滅多なことでは死なないのが当たり前になっているからこそ、死や病気に対する不安や恐れも、かつての高齢者よりずっと強くなっているのでしょう。
しかし、人生において「そうなるときはそうなる」のです。死や病気にかぎらず、すべてのことに対してそう考える「余裕」をもてるほうが、幸せな時間が増えるのではないかと思います。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)

精神科医

1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、アメリカ・カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。幸齢党党首。立命館大学生命科学部特任教授、一橋大学経済学部非常勤講師(医療経済学)。川崎幸病院精神科顧問。高齢者専門の精神科医として、40年にわたり高齢者医療の現場に携わっている。2022年総合ベストセラーに輝いた『80歳の壁』(幻冬舎新書)をはじめ、『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)、『老いの品格』(PHP新書)、『老後は要領』(幻冬舎)、『不安に負けない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『どうせ死ぬんだから 好きなことだけやって寿命を使いきる』(SBクリエイティブ)、『60歳を過ぎたらやめるが勝ち 年をとるほどに幸せになる「しなくていい」暮らし』(主婦と生活社)など著書多数。

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(精神科医 和田 秀樹)
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