※本稿は、谷口雄太『太平記史観 日本人の歴史認識を支配した物語』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■鎌倉を目指して進撃
元弘3年(1333)5月8日頃、上野国で蹶起(けっき)した新田義貞は、鎌倉を目指して進軍を開始します。これには足利一門の山名氏・里見氏・堀口氏・大館氏・岩松氏・桃井氏などが付き従いました。上野国・越後国・信濃国・甲斐国などの武士も呼応したといいます。
また、12日には足利千寿王も続けて挙兵しました。これには足利一門の世良田氏などが付き従いました。上野国・常陸(ひたち)国・上総(かずさ)国・武蔵国などの武士も呼応したといいます。
象徴としての総大将は足利千寿王ですが、実際の指揮官は新田義貞であり、東国足利氏・足利一門を挙げての進撃といえます。
11日には武蔵国小手指原(こてさしがはら)、14日?16日には武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)での激戦を制した新田義貞は多摩川を突破、17日には相模国瀬谷原を越えて、18日にはついに鎌倉稲村ヶ崎(いなむらがさき)へいたります。
この頃には、新田氏(足利軍)と北条氏(鎌倉幕府軍)のはざまにあって日和見をしていた東国武士たちも続々と倒幕軍へ味方し、22日に鎌倉は陥落、幕府(北条氏)は滅亡しました。
新田義貞は西国の行方(足利氏と六波羅の勝敗の結果)が未確定の状態で賭けたわけであり、結果それに勝ち、さらに、自らの軍事力でも鎌倉を破って勝利をものにしたといえるでしょう。
■関東誅伐という大きすぎる功
このように、倒幕の巨大な功は新田義貞にありました。これは、『梅松論』に、「関東誅伐ノ事、(新田)義貞朝臣其功ヲ成」、「(新田)義貞関東ヲ落ス事子細ナシ」などとある通りです。
しかし、それだけにとどまりません。新田義貞による鎌倉陥落は、かなりの衝撃をもって受け止められたようなのです。
たとえば、『増鏡』に、「わづかなる新田などいふ国人に、たやすくいかでかはほろぼさるべきとおぼえしに」とあります。『神皇正統記』にも、「いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、(北条)高時等運命きはまりにければ」と見えます。
小勢の新田氏が、大勢の北条氏に勝つのはかなり難しいことであり、目の前の現実(新田氏の勝利)は、北条氏の運命が極まったとしか説明できない、というのです。
新田義貞の挙兵 → 一瞬での鎌倉幕府滅亡は予想を超えているという感じでしょうか。『増鏡』は、新田義貞の奇跡的な勝利と北条氏の潰走に、「わづかに中一日にてかくなりぬる事、ゆめかとぞおぼえし」と述べています。夢かと思ったというのも実にリアルな言葉でしょう。
『太平記』にも、「西国・洛中の戦に官軍聊勝にのりて、両六波羅をは責落といへとも、関東を責られむ事は優しき大事なるへし」、「縦六波羅こそ輒く責落とも、筑紫と鎌倉とをは、十年、廿年にも対治せられかたし」とあり、六波羅以上に鎌倉攻略の難しさを物語っています。
新田義貞が敗北するか、あるいは戦が長期化するかの方が、ありえる未来だったのでしょう。
『太平記』には、次のような話も見えています。
両六波羅已に没落すといへとも、千剣破発向の朝敵等、兵未畿内にみちて、威尚京都をのめり。又賤諺に、「東八箇国の勢をもて、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢をもて、東八箇国の勢に対す」といへり。されは承久の合戦に、伊賀判官光季を追落されし事は輒かりしかとも、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦にまけて、天下久く武家の権威におちぬ。今一戦の雌雄をはかるに、寄は纔に十にして、其二、三を得たり。
要するに、京都の六波羅探題が滅びても、幕府方の金剛山包囲軍はいまだに健在であり、そのうえ、鎌倉から再び大軍がやってきたら勝目はほとんどない、というのです。
承久の乱が先例(凶例)として想起されている点も興味深く、通常であれば、新田義貞の敗退→東国鎌倉幕府軍の再上洛→東西決戦→幕府(関東)の勝利という流れが、可能性としては高かったのでしょう。
それゆえにこそ、幕府を滅ぼし、上洛した新田義貞を、後醍醐天皇は実力者と認めて厚遇したのです。治部大輔(じぶのだいふ)の官職はこれまで足利尊氏(足利高氏のこと。以後、足利尊氏と表記します)が名乗っていたものであり、従四位上の位階は足利尊氏の弟・足利直義より上でした。
管轄する国々には上野国・越後国・播磨国などがあって、新田義貞の力量のほどがうかがえます。
■一族を率いて鎌倉を離れる
他方、そのような迅速な鎌倉倒幕によって、新田氏と微妙な間柄となってしまったのが、足利氏です。
実は幕府滅亡後、鎌倉では(新田義貞ではなく)足利千寿王が頂点に君臨します。彼は二階堂(にかいどう)を御所とし、武士たちもまた彼に服属したことが知られています。東国足利氏のトップゆえに、それは当然のことでしょう。
そして、日本全体として最大の功績は、足利千寿王の父・足利尊氏のものとされ、後醍醐天皇(建武政権)は足利尊氏を、武士のなかで最大限に優遇していきます。
そのようななか、一体どうしたことか、「連日鎌倉中空サハギ」と、鎌倉は物騒な状況に陥ってしまったと『梅松論』は伝えています。しかもその内容が、足利氏による「(新田)義貞御退治」だというのだから、穏やかではありません。
これに対して、新田義貞が何事かを言上したことによって、事態は「静謐」したといいます。その後、新田氏は一族を率いて鎌倉を離れ、京に向かいます。新田義貞は、足利尊氏や足利千寿王との対立を望んでいなかったのです。
倒幕の功労者ではありますが、足利一門の一人として、足利氏との衝突を避けたのでしょう。他方、上洛後、後醍醐天皇(建武政権)から新田義貞が厚遇されていったことはすでに見た通りです。
■足利尊氏か、後醍醐天皇か
こうしたなか、北条氏残党の動きが徐々に活発化していきます。
建武元年(1334)11月、足利尊氏・新田義貞の両者が名指しで打倒の対象として叫ばれ、翌年(1335)4月にも足利尊氏・新田義貞の両者を暗殺する計画があったことが、歴史学者・坂口太郎さんの研究によって明らかにされています(坂口:2011年)。
上のように、鎌倉陥落から建武政権を通して、足利尊氏(足利嫡流)と列記されるほどまでに新田義貞(足利庶流)は成長したのです。先に見た、足利氏による「(新田)義貞御退治」・「連日鎌倉中空サハギ」も、足利氏の警戒感の表れだったのかもしれません。
事態が転回したのは、建武2年7月~10月のことです。
北条氏残党が鎌倉を急襲・奪還すると(中先代の乱)、足利氏はそれに反撃・再占領して、そのまま建武政権から離脱していきました。そして、後醍醐天皇が対足利氏の大将に新田義貞を抜擢(ばってき)したとの風聞が流れると、足利氏は上野国を被官・上杉氏に与えたと、『梅松論』はいいます。
他方、『保暦間記』によれば、同時期、上野国を新田義貞に与える(戻す)かわりに足利氏を殺せ、との計画が語られたといいます。『梅松論』は、新田義貞周辺で何度も陰謀があったとします。
このように、建武2年11月、新田義貞には再び「二つの選択」が迫られました。
すなわち、足利一門として足利氏とともに歩んでいくのか、それとも、自らを抜擢してくれた後醍醐天皇とともに進んでいくのか、重大な決断が迫られたのです。
■選択の余地はない中で出した答え
ただし、この選択は後醍醐天皇の方をとる他はなかったものと思われます。
というのも、すでに足利氏は、11月2日の段階で新田義貞誅伐の檄を諸方に飛ばしはじめており、10日には新田義貞の追討を奏上、18日にはそれが京着しているからです。
新田氏(足利庶流)と足利氏(足利嫡流)の関係は、繰り返される数々の陰謀や風聞もあって、もはや最悪のものとなってしまっており、在京(新田義貞・後醍醐天皇)─在鎌倉(足利氏)という点からも、今回は新田義貞に選択の余地はないでしょう。
こうしたなかで新田義貞が選んだ答えは、足利氏との別れでした。
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谷口 雄太(たにぐち・ゆうた)
青山学院大学文学部史学科准教授
1984年、兵庫県生まれ。2015年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科(文学部)研究員を経て、現職。著書に『中世足利氏の血統と権威』『〈武家の王〉足利氏』(以上、吉川弘文館)、『室町期東国武家の「在鎌倉」』(鎌倉考古学研究所)、『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社)がある。新田義貞は源氏の嫡流ではなく足利氏庶流だったことを洗い出し、『太平記』の影響力を指摘した。
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(青山学院大学文学部史学科准教授 谷口 雄太)

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