NHK大河「豊臣兄弟!」では、羽柴秀長の嫡男・与一郎が登場した。だがその与一郎はわずか6年後に夭逝し、その後も養子たちは次々と命を落とした。
なぜ豊臣家は後継者を失い続け、「秀吉の天下」を守れなかったのか。15代続いた徳川家との明暗を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■与一郎は秀長の「本当の子」
羽柴与一郎――羽柴秀長の嫡男が、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場した。この少年が、今後の「豊臣兄弟!」のキーマンの1人になるのではないかと考えている。豊臣の後継者問題を考えるうえで重要な人物だからだ。
「豊臣兄弟!」では、与一郎は秀長の妻・慶(ちか)と、慶の前夫のあいだに生まれた男児という設定だった。前夫亡きあと、前夫の両親と慶に深刻な問題が発生し、与一郎と離ればなれに暮らしていかざるを得なかったのを、秀長が引き取って養子にするというストーリーだった。
だが、これは演出上のフィクションで、与一郎は秀長の実子だったといわれる。母は秀長の正室で、秀長没後に「慈雲院(じうんいん)」の法号を名乗った女性――この人が慶のモデルである。
「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史家の黒田基樹氏は、与一郎が秀長の実の子であるのは、以下の複数の文献史料から、ほぼ間違いないと述べている。
1.森忠政(もりただまさ)(信長の家臣・森可成(よしなり)の子。のちの美作・津山藩主)の後妻に「岩」という名の女性がおり、岩がそもそもは「木下美濃守(秀長)息与一郎の室なり」(与一郎の妻だった)と記されていること(『森家先代実録』)。

2.「羽柴美濃守秀長公大和・泉州・紀州三か国の大主として播州姫路より郡山へ御所替え、御実子早世に付き」(『高山公実録』)
秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)を与えられた天正13(1585)年の時点で「御実子」がすでに死去しており、その実子が与一郎と見られること。
(上記2点、『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』KADOKAWAより、以下黒田)

『高山公実録』が「早世」と記している通り、与一郎は天正10(1582)年には亡くなったと考えられる。本能寺の変が勃発した年だ。「豊臣兄弟!」で与一郎が登場した放送回は天正4(1576)年頃を描いていたので、つまり、6年後には没してしまうのだ。
秀長は兄の秀吉同様、子に恵まれなかった。与一郎の夭逝は、それを象徴している。そして、これが秀長個人の懸案にとどまらず、豊臣の後継者問題にまで暗い影を落とすことになる。
■後継者候補が次々と消えていった
後継者に悩んでいた豊臣兄弟は共に、次々と養子をとった。だが一部を除き、ほとんどが夭逝してしまう。その辺りの経緯を、まず秀長からみていきたい。
[千丸]
丹羽長秀の三男。前述の与一郎死去後、長秀からもらい受けた。
ところが、秀吉・秀長が、羽柴の血を引いた者を後継にしたいと思い直したのか、改めて秀長の家臣だった藤堂高虎の養子に出してしまう。その結果、千丸は名を「藤堂高吉(とうどうたかよし)」と改めた。
高吉は長寿で、最終的には伊賀名張(三重県名張市)に領地を与えられた。しかし高虎の実子・高次(たかつぐ)に疎まれたあげく、高虎の葬儀への出席を拒否されたり、晩年は冷遇されたりなど、紆余曲折の運命をたどった。
[豊臣秀保(ひでやす)]
高吉に代わって白羽の矢を立てられたのが、秀吉・秀長の長姉・日秀尼(にっしゅうに)(とも)の三男だった御虎(おとら)。秀長が死去(天正19/1591年)する直前に養子縁組したとされる。これが豊臣秀保である。
だが、それから4年後、弱冠17歳で夭逝してしまう。秀保の死によって、秀長の羽柴大和家は断絶する。
秀吉が秀長の家を存続させなかった理由はわからない。ただし、この時点ですでに「拾(ひろい)」(のちの秀頼)が生まれていたことを考えると、秀吉の思惑が透けて見える。
■秀吉に翻弄された養子たち
次に秀吉の養子たちに話を進めよう。

秀吉は結城秀康(徳川家康の非嫡子)や宇喜多秀家、また姉・ともの長男でのちの関白・秀次、同次男・小吉秀勝も養子にしていたという説もあるが、「養子としての実態はない」という(黒田)。
したがってここでは羽柴秀勝(ひでかつ)(上記の小吉秀勝とは別人)と、羽柴秀俊(ひでとし)の2人を紹介したい。
[羽柴秀勝]
織田信長の四男または五男と言われている人物。秀吉が北近江の長浜(滋賀県長浜市)を治めていた天正9(1581)年には、秀吉の補佐役としてそこそこの地位にあったと見られている。
天正10(1582)年の本能寺の変で信長が横死(おうし)すると、秀吉によって織田の後継者に推されると見られていたが、秀吉は幼児の方が取り込みやすいと考えたのか、まだ幼い三法師を世継ぎに押し込んだ。その結果、秀勝は賤ヶ岳や小牧・長久手などの戦いに秀吉軍の武将として参陣し、その間には毛利輝元の養女と結婚し、18歳で没した。
[羽柴秀俊]
寧々の兄の子。のちの小早川秀秋である。
幼年期の秀俊は利発だったらしく、秀吉は一時、羽柴の後継と目していたという。実際、天正16(1588)年に諸大名が提出した、豊臣に忠誠を示す起請文の宛名は秀俊だったという(黒田)。
豊臣政権内で重きを置かれていたが、秀吉と淀殿とのあいだに初の男児・鶴松が誕生すると、後継者から一門衆に格下げとなった。さらに鶴松死後に秀頼が生まれると、秀吉の命によって、毛利一族の小早川隆景の養子となる。

■戦国の姫に、平穏な晩年はなかった
小早川秀秋は最盛期、筑前・筑後に59万石を領する大名ではあったが、その前半生は豊臣の後継者問題に振り回されたといってよい。そして慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い――このときの動向と、翌々年の早すぎる死は、ご存知の通りである。
秀吉には養女もいた。こちらも見逃せない。
[豪]
5月17日放送回に赤ん坊で登場した前田利家の四女で、乱世に翻弄された戦国の姫。天正9(1581)年までに、羽柴家に養女として迎えられた。羽柴と前田をつなぐ重要な娘だった。
同15~16(1587~1588)年、宇喜多秀家に嫁いだ。14~15歳のときだ。
運命が暗転するのは、関ヶ原の戦いだった。夫の秀家は西軍に属したため戦後に改易され、八丈島に流罪となった。
一方の豪は、実家の前田氏の拠点・金沢に住み、キリシタンの洗礼を受けたという。

離島で苦しい生活を送る秀家を、豪は仕送りなどで支援したと伝わる。秀家は84歳で八丈島、豪は61歳で、金沢で逝った。再会することはかなわなかったが、現在も八丈島には秀家と豪が並ぶ像が立ち、深い愛情で結ばれた2人の姿を残している。
[小姫]
織田信雄(のぶかつ)(信長次男)の娘。奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)・多聞院(たもんいん)に残る『多聞院日記』には、「関白殿(秀吉)の養子にて二、三才の時より御育て也」とある。天正18(1590)年、5歳で徳川秀忠に輿入れしたが、1年後に早世した。
信長の孫にあたる豊臣の養女が、徳川と結びつくという重要な縁組は、わずか1年で破綻したのだった。
■徳川家と明暗を分けた「家」の観念
若年での死亡率が今より格段に高かった戦国時代にあって、これだけ早世が多いのは決して珍しくはない。だが、事が豊臣という「家」に関わってくると、この悲劇の連鎖が特別に思えてくる。
「呪われている」とでもいおうか――いや、「呪い」は大げさとしても、豊臣の養子戦略は次々と頓挫し、後継者選びが迷走。次第に袋小路にはまっていった印象を持つ。
推測に過ぎないが、前述の豊臣秀保の死による羽柴大和家の断絶などという事態が、もし、徳川の身に起きたら、家康は嫡男以外の自分の子、または一族の子を養子として入れ、必死に家の維持をはかったのではなかろうか。

歴史の上では、家康は秀吉の失敗から多くを学び、のちの徳川の治世に活かしたというのが通説だ。実際に家康は、宗家に男子が誕生しなかったときは、分家(紀州家・尾張家)から将軍を抜擢する体制を整えた。これなどは、簡単に弟・秀長の家を断絶してしまった秀吉を反面教師とした策だったと、いえなくもない。
家康は秀吉の生前から、安易に身内を粛清したりする秀吉の自己中心的な手腕に危機意識を持っていたのではないか――そう考えても不思議ではないほど、秀吉は家の存続に関わる問題には傍若無人で、やりたい放題だったのである。
ここに、秀吉と家康の違いがあったように思える。
■残ったのは幼すぎる実子
秀吉の晩年には、養子として迎えた男子のうち、生存しているのは小早川秀秋だけになっていた。その秀秋も、豊臣秀頼に後を継がせるには邪魔な存在だったゆえ、小早川家に養子として出されていた。
秀吉の後継として関白となっていた豊臣秀次には、もっと過酷な運命が待ち受けていた。
文禄4(1595)年、降って湧いたように謀反の疑いが持ち上がり、関白職を剥奪されたうえに切腹。秀吉はそれでも足らず、秀次の妻・妾・子の処刑を命じた。京の三条河原で斬首された者は、総計39人に及んだ。
そのなかに、出羽国(山形県)の最上義光(もがみよしあき)の娘・駒姫がいた。秀次の側室候補として上洛すると、夫となる相手に謀反の疑いがかかっていた。晴天の霹靂(へきれき)だった。もちろん駒姫は何ら関わっていない。秀次と対面さえしていない。それなのに、連座の罪で処刑された。まだ15歳だった。
残ったのは実子・豊臣秀頼。秀頼は秀吉の死の1年前に元服を済ませたが、まだ幼かった。さらに豊臣恩顧の大名たちが内部分裂し、関ヶ原の戦いを前に次々と徳川家康になびいていった。秀頼はこの百戦錬磨の家康と戦わざるを得なくなり、豊臣は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で滅亡するのである。
■栄華の速さが、後継者問題を歪ませた
秀吉・秀長の血を引いていない、養子・養女ばかりの「豊臣家の子」たちがいずれも早い死を迎えたのは、客観的に見れば偶然に過ぎない。しかし、秀吉の栄華があまりに急速に築かれていったため、後継者が育たぬうちに、次々と踏み台にされていったように見えてしまう。
急激な拡大路線と飛躍に伴い、後継者問題に歪みが生じた――どうしても、そう思えてしまう。
豊臣には、「家」を永続的に後世につなぐという、武家的な着想が薄かったのではないだろうか。それはすなわち、秀吉の出自が武家ではなかったことに起因しているかのようだ。
秀吉の懐刀で、政権No.2の秀長は、その歪みを修正できなかったことを心残りに逝ったのかもしれない。

参考図書

・黒田基樹『』角川選書 677(KADOKAWA、2025年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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