■海外でのトラブルが日本の産業を止める
台湾海峡で有事が起きれば、あなたの会社のサプライチェーンはどう変わるか。ホルムズ海峡が封鎖されれば、エネルギーコストはどこまで跳ね上がるか。中国がレアアースの輸出を止めれば、自社の生産ラインはどこから詰まるか。
これらは安全保障の専門家だけが考えればよい問いではない。今や経営の最前線にいるビジネスパーソン全員が、自分の頭で答えを持たなければならない問いである。
2021年、世界の自動車メーカーが一斉に生産ラインを止めた。原因は台湾・韓国製の車載半導体の不足だった。地政学的に集中した半導体サプライチェーンが、海を越えて日本の自動車工場を止めるという現実を、多くの経営者はそのとき初めて実感した。
■「地政学リスク=経営リスク」の時代
これは今後のビジネス環境を占う序章に過ぎない。
米中対立の長期化、台湾海峡リスクの高まり、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー構造の激変、中国によるレアアースの戦略的活用など、そのすべてが国際サプライチェーンに大きな悪影響を与える。
「国際問題は政府や外交官が考えることだ」というこれまでの常識は通用しない。
国際環境の変化はもはや大企業だけでなく、中小企業こそ重要な課題である。都市か地方かも関係ない。たとえ輸出入に直接関わっていなくても、取引先の一社が地政学的打撃を受ければ、その影響は連鎖的に伝播する。
そのことにいち早く気づき、素早く行動に移したのがアメリカ企業だった。
■地政学リスク分析を商品にする専門会社
1998年、政治学者のイアン・ブレマー氏がニューヨークに設立したユーラシア・グループは、地政学リスク分析を企業に販売する専門会社である。社員の約半数が世界各地の政治・安全保障を分析するアナリストで構成され、JPモルガンやエクソンモービルといった大手から多国籍企業約400社を顧客に持つ。
毎年発表される「世界10大リスク」は、テレビなどでも話題になり、日本語訳も発表されていまやCEOや機関投資家の必読文書になっている。
ユーラシア・グループが体現しているのは、「政治学者が企業に直接知見を売る産業が成立している」という事実だ。アメリカではCIAやNSA出身者が民間企業の地政学顧問になる土壌があり、地政学リスクを財務リスクと同列に議論する文化がある。
ダボス会議で世界のCEOたちが安全保障を語るのは当然のことである。アップルのティム・クックが中国リスクをサプライチェーン戦略として投資家に公式説明する姿は、アメリカの新たなビジネス文化の象徴だろう。
その先を行くのが、データ分析企業パランティア・テクノロジーズ(Palantir Technologies)や防衛テック企業アンドゥリル・インダストリーズ(Anduril Industries)だ。
パランティアは国防省・情報機関・民間企業に同じプラットフォームで地政学分析を提供し、安全保障と経営判断をシームレスにつなぐ。アンドゥリルは2026年に50億ドルを調達し、企業価値610億ドルに達した。
かつて「バリュー投資」の対象だった米防衛産業は、AI・ドローン・無人システムを背景に「成長産業」として再定義されており、トランプ大統領のビジネス感覚がそれを後押ししている。
■日本には「ユーラシア・グループ」がない
では、日本はどうか。ユーラシア・グループに相当する日本発の民間地政学リスク会社は、事実上存在しない。
「個人商店シンクタンク」として活躍する専門家やジャーナリスト、経産省OBなどが立ち上げた小規模な専門会社、デロイト・PwC・KPMGといった大手監査法人が専門チームを設けてオプションとして経済安全保障サービスを提供するなど、近いものはたしかにある。
だが、それらは「コンサルの一部門」「政策顧問の副業的活動」の域を出ておらず、地政学分析を独立したビジネスとして成立させた会社は見当たらない。
なぜ日本にユーラシア・グループのようなものが生まれなかったのか。ここには3つの構造的理由がある。
■「情報を買う文化」が育っていない
第一は需要側の問題だ。日本企業がそもそも外部の地政学分析にお金を払う文化がない。
第二は供給側の問題だ。日本の政治学者・安全保障専門家が自分の知見を磨いて発信したくとも、基本的に官界・学界・メディアの3つしか場がない。知見を民間ビジネスとして自立させるキャリアパスが存在せず、ブレマー氏のような「学者起業家」が生まれる土壌がない。
第三は情報文化の問題だ。インテリジェンスを「売買するもの」ではなく「官が独占するもの」とみなしてきた戦後感覚が、民間のインテリジェンス産業の発展を阻み、「情報にカネを出す」という文化形成を阻害してきた。
その結果、地政学の知見は経営から切り離されたまま今日に至っている。
■三菱電機、サントリーはすでに動いている
もちろん、日本企業が動いていないわけではない。三菱電機は経済安全保障担当役員を設置し、サントリーはインテリジェンス部門を社内に立ち上げて、「地政学を経営の内側に取り込む」という発想の転換を経営戦略として示している。
それらに共通するのは、外部に情報を依存するのではなく、自社内に分析・判断機能を持つという方針だ。各国の政治状況・規制動向・制裁リスクを常時モニタリングし、それを経営判断に直接接続する。
「うちは中小企業だから関係ない」という気持ちは痛いほどわかる。目先のことで「かつかつ」のときに「余計なことを言うな」と思われるだろう。だが、大企業のサプライチェーンを支える中小企業こそ今はリスクの集中点になりやすい。一次サプライヤーが地政学的打撃を受けたとき、二次・三次の取引先に与える打撃は深刻だ。
結局、規模が小さいほど、情報の先行取得が生死を分ける。今はそういう時代である。
■フェイク情報を見抜くのは企業の責任
地政学リテラシーには、もう一つの次元がある。情報の真偽を見極める力だ。
現代の地政学的競争は、軍事・経済だけでなく情報空間においても展開されている。中国・ロシアを中心とする国家主体が、意図的にフェイク情報を流通させ、相手国の世論・経営判断・政策形成を攪乱する。
「中国で大規模暴動が勃発」「トランプが日本企業を制裁対象に」「アメリカ政府が特定技術の輸出規制を決定」などといった虚偽情報が瞬時に拡散され、株価を動かし、サプライチェーンの意思決定を左右するといった事例はすでに起きている。
アメリカの先進企業はフェイク情報による損害を「メディアの問題」として外部要因にせず、「経営リスク」と捉えて自社の問題として定量評価する傾向が強まっている。情報工作の被害を保険数理的に算定し、インテリジェンス・リテラシーの高い人材を採用・育成するのは、今やリスク管理として当たり前のことになっている。
巧妙なフェイク情報を個人の資質で見抜くのは、今後ますます難しくなる。日本企業に求められるのは「メディア・リテラシー」という受け身の概念ではなく、情報の出所や意図を能動的に読み解く「インテリジェンス・リテラシー」である。
ニュースを使うだけではなく、ニュースを適正に評価する能力が経営力に組み込まれなければならない。
■トヨタだけ「EVの波」に乗らなかった理由
日本にも、地政学的思考を経営判断に接続していた経営者がいた。故人だが、JR東海会長を務めた葛西敬之氏がその筆頭だろう。
葛西氏のリニア中央新幹線への執念は、単なる鉄道事業ではなかった。中国の膨張と日米同盟の変容を睨みながら、日本のインフラ技術を国家の抑止力として位置づける構想があった。対中・対米に関する発言の根底には「日本という国家の継承者としての責任」が一貫していた。
葛西氏には確固たる国家観があった。葛西氏の国家観は、イデオロギーからのものではなく、国鉄改革という修羅場を経た実務から生まれたものだった。
トヨタ会長の豊田章男氏も同様だ。世界の潮流がEV一辺倒に流れる中で、EVの「環境性」だけにとらわれることなく、「経済性」や「嗜好性」なども冷静に評価し、自らの哲学からそれに抗してマルチパスウェイ戦略を主張し続けた。それは、中国が電池とレアアースを握るという地政学的構造を見据えた上での判断だった。
そこにあったのは、単なる技術論ではない。電動化を急げば急ぐほど、日本の自動車産業が中国依存を深めるという逆説的状況を正面から受け止め、550万人の雇用を守るのに最も適切な方法を優先した。
これは地政学の思考と経営判断が一体になった実例だ。
■「脱中国」の逆を行くユニクロ
日本の国際企業におけるスター経営者は、大きく「グローバル経営者」と「地政学的経営者」に分かれる。
孫正義氏の「スターゲート」構想は、AIインフラへの巨額投資として壮大なビジョンを持つが、その視線は日本にはない。孫氏の眼中には、日本の産業基盤・雇用・技術主権をどう守るかという問いは必ずしも入っていない。
また、ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正氏は、中国市場依存を正当化して、脱中国を深める日本政府の方針にむしろ真っ向から反対する論陣を張ることもある。
どちらも、日本の枠を出たグローバルな視点を持つゆえに、安全保障の観点で政治リスクを被り、あるいは政治リスクをものともしない経営者である。その裏には、「脱日本企業」の視点があり、経営の立ち位置が必ずしも日本にはない。
グローバル経営者は市場を選べるが、国家は場所を選べない。日本企業として「逃げられない」という感覚を経営の核に置けるかどうかに、地政学的経営者とグローバル経営者の本質的な分岐点がある。
■これからは地政学的視点を持つ人材が輝く
日本にユーラシア・グループのような民間地政学シンクタンクが育つためには、専門家が知見を売れる需要の形成、官界・学界以外への人材の出口、そしてインテリジェンスを産業として認める文化が必要である。日本においても「産業としての地政学分析」を育てていく必要がある。
だが、世界環境の激変は、制度が整うのを待ってくれない。地政学リスクはすでに今の経営を大きく揺り動かしている。
それでも、今すぐできることは3つある。
1つめは、外部のインテリジェンスにカネを払うことを惜しまないことだ。ユーラシアグループをはじめとする専門機関のレポートを読む習慣を持つ経営者と持たない経営者では、リスク認識の精度が年々開いていく。スタートとして、専門家の意見を広く聞く場を持ち、危機感を共有することが必要だ。
2つめは、社内に地政学を担当できる人材を育てることだ。大企業であれば、情報自体は外部に頼るにしても、採用において地政学の知見がある社員を採用することは必須である。経済安全保障は法務・財務と同格の経営機能だという認識を持ちたい。
3つめは、自社が関わっているサプライチェーンを地政学の見地から分析し、リスクを可視化することである。どこに脆弱性があるかを可視化するだけで、優先的に打つべき方策が見えてくる。
日本のMBAカリキュラムにも経団連の研修にも、地政学は今のところ本格的には組み込まれていないようだ。だからこそ、今それを身につけた人間が先行者利益を得る。地政学リテラシーはもはや安全保障の専門家だけの教養ではなく、これからのビジネスパーソンにとって、財務と並ぶ必須の実務能力である。
安全保障の最前線は、南西諸島だけではない。工場、研究所、データセンター、物流網、そして経営者の判断の中にある。その最前線に立つ覚悟を持てるかどうか。日本のビジネスの未来は、そこが新たな出発点となるべき時期に来ている。
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白川 司(しらかわ・つかさ)
評論家・千代田区議会議員
国際政治からアイドル論まで幅広いフィールドで活躍。『月刊WiLL』にて「Non-Fake News」を連載、YouTubeチャンネル「デイリーWiLL」のレギュラーコメンテーター。メルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評。著書に『14歳からのアイドル論』(青林堂)、『日本学術会議の研究』『議論の掟』(ワック)ほか。
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(評論家・千代田区議会議員 白川 司)

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