連載第98回 
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 ACLエリートで日本勢は2年連続準優勝。

気になるのはやはり中東勢の助っ人外国人の存在でした。しかし、Jリーグにもワールドクラスのビッグネームがプレーする時代が。後藤氏が当時の背景を振り返ります。

【ACLEで日本勢は2年連続アル・アハリに敗れる】

 中東情勢悪化のなかで予定通り開催されたACLエリート・ファイナルズ。日本のFC町田ゼルビアが決勝に進出し、アル・アハリ(サウジアラビア)に惜敗した。

【Jリーグ】ACLの戦いでやはり気になる助っ人外国人の存在 ...の画像はこちら >>
 ACLではこのところ日本勢が4シーズン連続で決勝に進出しているが、昨年は川崎フロンターレ、今年は町田がアル・アハリの軍門に下っている。

 もっとも、大会が「ACLE」となった昨シーズンからのレギュレーションは極めて不公平なもの。なにしろ、準々決勝以降はすべてアル・アハリのホームであるジッダで開催されているのだ(よく、サウジアラビアの首都であるリヤドのクラブが文句を言わないものだ......)。

 しかし、完全アウェーのなかでも町田はいい試合をした。

 前半はワールドクラスの選手を並べたアル・アハリと攻守ともに互角の戦い。前半の終わりから後半にかけてゲームを支配されてしまったが、持ち前の粘り強い守備で無失点で耐え、相手の苛立ちを誘ったことでアル・アハリに退場者が出て、その後は有利に試合を進めた。

 もう一歩の「決定力」さえあれば、あるいはホーム&アウェーで戦えていれば勝てていただろう。

【強力外国人選手を擁する中東勢】

 それにしても、相変わらず中東勢には強力な外国人たちが在籍している。

 ファイナルズの戦いを見ていると、アル・サッド(カタール)のロベルト・フィルミーノ(元リバプールほか)とかアル・アハリのリヤド・マフレズ(元レスターほか)といった懐かしい顔ぶれが出てきて、「ああ、彼は今はこんなところで働いているんだ」と感じたのは僕だけではないだろう(そんなマフレズに対して町田の林幸多郎が互角の勝負を挑んでいるのだから、大したものだ)。

 中東勢は先発の大部分が外国人選手で、自国籍のサウジアラビアやカタール国籍の選手はほんの数人といった構成。

 一方、町田の場合、決勝戦の先発11人のうち外国人はネタ・ラヴィ(イスラエル)とテテ・イェンギ(豪州)、エリキ(ブラジル)の3人。交代では羅相浩(ナ・サンホ=韓国)とドレシェヴィッチ(スウェーデン/コソボ)が交代で投入された。

 準決勝でアル・アハリに敗れたヴィッセル神戸も、フル出場した外国籍選手はマテウス・トゥーレル(ブラジル)だけだ。

 つまり、日本のクラブは日本人選手が大半を占めているわけだ。

 しかも、現在では日本代表選手のほとんどは欧州でプレーしているので、ACLE出場チームでも、元日本代表はいても現役日本代表はほぼ不在。最近まで日本代表に招集されていたのは町田の相馬勇紀、望月ヘンリー海輝くらいのものだった(もっとも、相馬や神戸の大迫勇也はW杯に出場してもおかしくない実力の持ち主だが......)。

 現役代表をほとんど起用できないなかで、日本人選手中心で固めたチームが(元)ワールドクラスの有名な助っ人を多数抱える中東勢と(しかも、相手のホームで)互角に戦って決勝進出を果たしているのだから、大したものだ。ACLEはアジアのサッカー界における日本の突出した地位を示す大会となっている。

 ただ、アウェーで勝ちきるためには、少ないチャンスを決めきる個の力も必要になる。ACLEで獲得した数億円の賞金を使ってワールドクラスのストライカーを獲得し、その力でサウジアラビアを倒すことができれば、こんな痛快なことはないだろう。

【日本の豪華助っ人外国人時代】

 しかし、かつては日本のクラブにワールドクラスの助っ人外国人が多数在籍していた時代もあった。Jリーグが発足した1990年代の話である。

 初期のJリーグには1986年メキシコW杯出場のガリー・リネカー(名古屋グランパスエイト=イングランド)をはじめ、1990年イタリアW杯出場のサルヴァトーレ・スキラッチ(ジュビロ磐田=イタリア)、1994年アメリカW杯出場のフリスト・ストイチコフ(柏レイソル=ブルガリア)とW杯の歴代得点王がプレーしていた。

 リネカーは、名古屋ではわずか4ゴールと期待を裏切ったが、スキラッチは磐田で4年間プレーして、56ゴールを決めている。

 さらに、初期のJリーグで大きな足跡を残したのがブラジルの代表クラスの選手たちだ。

 1994年にアメリカで開催されたW杯でPK戦の末にイタリアを下して優勝したブラジル代表選手の多くが、翌シーズン以降Jリーグのクラブに移籍して大活躍している。

 セレソンのキャプテンとしてパサデナのローズボウルでW杯トロフィーを掲げたドゥンガはジュビロ磐田に入団し、チームに勝利への貪欲さを植え付けて、のちの磐田黄金時代の基礎を築いた。

 また、ジョルジーニョとレオナルドが入団した鹿島アントラーズとジーニョやセザール・サンパイオ(1998年フランスW杯出場)がいた横浜フリューゲルス(のちに横浜マリノスと合併)の試合は、いつもブラジル代表同士の意地の張り合いがあって、激しくもハイレベルな戦いが繰り広げられ、当時のJリーグの看板カードのひとつだった。

 これだけのビッグネームを揃えることができたのは、当時の日本のクラブの豊富な資金力のおかげだった。

 なにしろ、1990年代の日本はアメリカに次ぐ世界第2の経済大国で、その日本経済を牽引するトヨタ自動車や日産自動車、松下電器(現パナソニック)といった大企業をバックに成立したのがJリーグだった。

 一方、欧州のリーグは1990年代半ば以降、有料テレビの放映権料が流入して収入が急拡大し、中東やロシアなど資源で潤う国の投資も流入して財政力が急拡大するのだが、Jリーグが発足したのは、その直前の時期だった。

 欧州のなかで最大の資金力を持っていたのは、大企業や大富豪がバックに付いたセリエAのユベントスやミラン、インテルなど。各国の代表クラスを集めたイタリア勢が欧州カップ戦で覇を競い合っていた。

 したがって、当時のJリーグクラブは欧州クラブと競り合って、ブラジル代表のようなビッグネームを集めることができたのだ。

 それから30年が経過。日本のGDPは中国やドイツ、インドに抜かれて5位に転落。Jリーグには、様々な事情から海外からの投資もほとんど入ってこない。

 これから、日本のサッカーをさらに発展強化していくためには、財政力も必要になる。現在の日本のクラブに、もし欧州、南米の代表クラスの選手を数人加えることができれば、サウジアラビアのクラブをアウェーの地で倒すのも難しいことではなくなる。

【古くは日系ブラジル人から】

 さて、Jリーグ発足前の日本サッカーリーグ(JSL)時代から、日本にはブラジル人選手がやって来ていた。最初はネルソン吉村、ジョージ小林(ヤンマーディーゼル、現セレッソ大阪)、ジョージ与那城(読売サッカークラブ、現東京ヴェルディ)といった日系人選手。その与那城が呼び寄せて、のちに読売(ヴェルディ川崎)や日本代表の中心選手となったのがラモス瑠偉だった。

 しかし、これらの選手はいずれもブラジルではまったく無名の選手たちだった。例外は1972年に来日したセルジオ越後(藤和不動産、現湘南ベルマーレ)。コリンチャンスの元プロ選手だった。

 そして、1987年にはオスカー(日産自動車、現横浜F・マリノス)がやって来た。

ブラジル代表としてW杯に3度も出場したワールドクラスの選手だった。

 そして、JSL時代の最後にやって来たのが住友金属(現、鹿島アントラーズ)に入団したジーコだ。

 当時の住金はJSLの2部で戦っていた。

 ある時、東京ガス(現、FC東京)との試合を観戦に行ったことがある。会場は横浜市金沢区にあった東京ガスのグラウンド。芝生の上に申し訳程度の仮設スタンドがあり、近くの小学校の生徒が100人ほど観戦に訪れていた。

 そんなグラウンドで、あのジーコが本気でプレーしているというシュールな光景を見て、僕は驚愕したものだった。

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