連載第99回
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
北中米大会でじつに14大会連続のW杯観戦になる後藤氏。
【1974年、入場券の入手は簡単だった】
2026年W杯開幕まで1カ月あまり。入場券販売も最終段階となり、残っている試合ごとの入場券が販売されている。
出場チーム数が48に増え、104試合が行なわれる2026年大会。アメリカンフットボール用の巨大スタジアムが使用されることもあって、史上最多の観客動員となるのは確実だ。しかも、チケット代はこれまでとは比べ物にならないほどの高額に設定されており、FIFA(国際サッカー連盟)には巨額の収入がもたらされる。
そして、それを原資として、史上最高となった賞金も含めて48のW杯参加国に巨額の資金が分配される。W杯参加各国協会にとっては大きな収益となるはずで、来年のFIFA会長選挙でのジャンニ・インファンティーノ現会長の再選は間違いないものとなる筋書きなのだろう。
いずれにせよ、W杯はFIFAにとって最大の収入源なのだ。
W杯の入場券販売方式の変遷を振り返ってみると、その時その時の世情やテクノロジー、そしてサッカーを取り巻く環境がわかってくる。
僕が最初に現地観戦に行ったのは、1974年の西ドイツ大会だった。
フランツ・ベッケンバウアー率いる西ドイツが、オランダを下して優勝を決めた大会である。準優勝に終わったものの、ヨハン・クライフのオランダの革新的なサッカーは、その後のサッカー史を大きく変えた。
この大会の入場券販売は、現在から見たら実にシンプルなものだった。
西ドイツを代表する航空会社ルフトハンザが代理店に指名されており、東京・虎ノ門の霞が関ビル内にあった同航空の東京支店に行くと、そこに申込用紙が置いてあって、「何月何日のドコドコ代表対ナントカ代表 カテゴリー3×1枚」と書き込んで提出。その後、振込の通知が来たら銀行で金額を振り込めばよかった。
チケットの現物は、たしか開幕1カ月ほど前に郵送されてきた。
西ドイツ国内では、試合によっては入手が困難だったようだが、日本を含む海外のほうがむしろ簡単に入場券を手に入れることができた。
【アヴェランジェによる商業主義化】
当時のサッカー界は、商業主義化される前のことだった。
FIFAを運営しているのは主に欧州各国のサッカー協会出身の人たちだった。第2次世界大戦後、欧州ではサッカーのプロ化が進んでいたが、それはクラブレベルでの話。協会の仕事に携わっているのは上流階級、知識階級のアマチュア色が濃い人たちだった。
FIFA会長はイングランドのサー・スタンリー・ラウス。教師出身で、審判員として有名な人だった。
だから、彼らはサッカーで(W杯で)金を儲けようなどとは考えていなかった。運営費が賄えればよかったのだ。
したがって、入場券はリーズナブルな料金に設定され、試合を見たい人が見たい試合の入場券を買えばいいという考え方だった。1970年のメキシコ大会からはピッチ周辺に広告看板が並び始めていたが、それも地元企業の看板が多かった。
しかし、サッカーは次第に商業主義化の道を進み始めた。
1974年のW杯開幕直前にフランクフルトで行なわれたFIFA会長選挙で、ジョアン・アヴェランジェが選出された。ブラジル人で水泳と水球の元五輪選手。運送業を中心に事業を営む大富豪だった。アヴェランジェ会長は「W杯は収入源になる」と考え、また世界的な大企業をスポンサーにして収入を増やそうとした。1977年にはコカ・コーラをスポンサーに付けて第1回ワールドユース選手権大会(現U20W杯)を開催した。
アヴェランジェのFIFAがW杯で考えたのは、「どうやって入場券を売るか」ということだった。
当時は、まだ海外から多くの観客がやって来ることはなかった。西ドイツでW杯が開催されれば観客のほとんどは地元のドイツ人。外国人サポーターとしては、ドイツに住んでいたユーゴスラビア系の外国人労働者の姿が目立つくらいだった。
ゲルゼンキルヘンなどオランダ国境に近い会場では多くのオランダ人を見かけたが、W杯のために海を渡ってやって来るのは、よほどの金持ちか熱狂的なサポーターだけだった。
だから、開催国の試合や好カードは満員になって入場券の入手も困難だったが、それ以外の試合は空席が目立っていたのだ。
【都市、スタジアムごとのパッケージ販売】
FIFAは、入場券収入を引き上げるために「抱き合わせ販売」という方法を考えた。
1982年のスペイン大会では、国外からはホテル代とセットでないと購入できないことになった。スペインの大手旅行会社を中心に結成された「ムンディエスパーニャ」という組織が、ホテル代と入場券代を合わせたパッケージを独占販売した。
ところが、その「ムンディエスパーニャ」の運営は杜撰極まりないもので、指定されたホテルに行ってみたら予約が入っていないとか、購入していたはずの入場券が試合前日まで届かないといったことがあったので、大ブーイングを浴びた。
そこで、1986年のメキシコ大会から、入場券は都市ごとのパッケージで売りに出された。
たとえば、「6月1日にグアダラハラのハリスコ・スタジアムでスペイン対ブラジルという好カードがあるので観戦したい」と思っても、入場券1枚だけでは購入できない。グアダラハラで行なわれる全9試合分を全部買わなければいけないのだ(あの、W杯史に残るブラジル対フランスの準々決勝も含まれてはいたが......)。
メキシコ市に滞在して、ブラジルの試合だけ見に行こうと思ったら、何枚もの入場券が無駄になってしまう。
1990年のイタリア大会でも同様の方式が踏襲された。ブラジル対スウェーデン戦を見たかったら、トリノのスタディオ・デッレ・アルピでの5試合分の入場券をすべて買わなくてはならなかった。
この大会で優勝する西ドイツの試合でも、ミラノのジュゼッペ・メアッツァは満員にはならなかった。ミラノは西ドイツから近かったのに......。
今では信じられないかもしれないが、当時はセリエAが世界最高峰リーグだった。だから、いつもそんなハイレベルの試合を見ている地元の人たちにとっては、W杯といっても魅力的とは思えなかったのだろう。
【チケットを巡るトラブル、問題は絶えず】
流れが変わったのが、史上初めて入場者数が300万人を越えた1994年のアメリカ大会だった。
どの試合も、巨大なスタジアムが満員となった。まだ、サッカー人気が根づいていなかった時代だが、アメリカ人はW杯というイベントを見に来たのだ。
そして、その後はワイドボディ機の普及や格安航空会社(LCC)の登場で航空料金が下がったこともあって、国外から大勢のサポーターがやって来るようになっていく。
日本が初出場した1998年のフランス大会は、世界中から多数の観客が集まった最初の大会であり、日本からも万単位の人たちがフランスに渡った。
その結果、入場券が不足し、販売を巡って様々な不正がはびこって多くの日本人サポーターが巻き込まれる事態となった。
その後も、入場券販売を巡るトラブルが続いたが、2010年代になるとネットを使って、個人が希望の入場券を購入できるようなシステムが使われるようになった。
1974年にFIFA会長に就任したアヴェランジェや、1998年以降その後継者として2015年までFIFAに君臨したゼップ・ブラッターは「商業主義」と批判されたものだが、現在のインファンティーノ会長体制の"金儲け第一主義"に比べたら天使のような存在にさえ思えてくる。
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